呼び名「……ってことがあったんだ」
「そうだったのですね、それは災難でしたね、クロ……いえ、カリード」
ついつい、彼の本来の名前ではなく偽名の方を口にしかけて、イングリットはやはり慣れないなと眉尻を下げる。もう何度目だろうか。しかし、致し方ないではないかと思う。出会ってからずっとその「偽名」の方で彼を呼び続けていたのだから。そしてそのことは彼も承知してくれている。2人だけの時は以前の名前で呼んでくれていいとは言ってくれていた。そして、今は王城の2人の寝室。2人でベッドに腰かけ、今日あった出来事について色々話をしつつ、そろそろ寝ようかといった頃合いで誰もいない。2人きりの状態だ。
「わざわざ言い直さなくてもいいんだけどなあ」
「いえ、普段から呼びなれておかないと。お義父様やお義母様、家臣の方達の前でうっかり言ってしまうのはさすがにまずいでしょう」
自分は今はパルミラ国王の妻で、そして王妃だ。その自分が公の場で国王の名前を間違えることなどあってはならない……イングリットはそう考えていた。そんな彼女に対してクロードは「お前が思っているほど皆気にしないって」と苦笑する。
「また、適当なことを。いいですか、クロード、こういった些細なことでも積もりつもれば信頼を失うことに……あっ」
言葉を詰まらせるイングリットのしまったといった感情が露わになった顔に、クロードがぷっと、大げさなほどに吹き出す。
「ほら、無理すんなって。ただでさえ普段は色々と気を張り詰めてる状態なんだ。俺といる時くらいは気兼ねなく過ごして欲しいんだがな」
確かにパルミラに来てから新しい環境に慣れるのに日々、四苦八苦している状態ではある。彼の言う通り不本意ではあるが彼の提案に甘えてしまおうか、という考えに傾きかける。そして「それにさ」とさらにクロードが言葉を続ける。
「俺は偽名で呼ばれることも嫌いじゃないんだ。素性を隠すのが目的だったが、今では自分でも不思議なほど愛着が湧いちまっててな。お前や先生、フォドラの皆からは『クロード』って呼ばれた方がしっくりくる」
「そう……なのですか」
懐かしそうに目を細めるクロードの表情が意外だった。フォドラからパルミラに旅立つ時、彼はフォドラに何も未練がないように見えた。自分のやることは全てやった……そんな、清々しい顔つきだったのが印象に残っている。そのことをイングリットは思い出し束の間考えた後に「わかりました」と、笑顔で頷いた。
「では、あなたと過ごす時は日替わりで呼び方を変えたいと思います。今日のところは『カリード』で」
「?なんだって、そんなまぎらわしいことを?」
不審げに眉を顰めるクロードに、イングリットは薄っすら頬を染めながら理由を口にする。
「あなたは『クロード』と呼ばれたほうがしっくりくるとのことですが……。私としては『カリード』でもしっくりくるようになって欲しいのです。本当の名前のあなたともっと親密になりたい、といいますか」
これは自分の気持ちの問題でもあるかもしれない。名前が違っても彼は彼だ。どちらの名前で呼んでも実際のところ変わりはないだろう。それでも、イングリットの中でなんの違和感もなく彼の本名を呼ぶことが出来るようになった時、より彼との関係が深まるのではないかと思った。しかしクロードはそんなイングリットの言葉に対し、少し気まずそうな顔で意外なことを口にした。
「本名で呼ばれるの、実は少し落ち着かないんだよな」
「えっ……嫌なのですか?」
「いや、お前にそう呼ばれるのは嬉しいんだが……今まで俺の名前を呼ぶのは俺を憎んでる奴らばかりだったからさ。ああ……親やナデルとか一部の家臣は別だが。だから余計に『クロード』の名前が気にいってるのかもな」
「クロード……」
クロードがフォドラとパルミラの混血ゆえに随分と辛い幼少を過ごしていたのだという事情はこちらに来てから知ったことだ。それなら2人の時はせめて『クロード』と呼ぶべきなのか。
(でもそれでは……)
迷ったのは一瞬だった。すっと背筋を伸ばし、真っすぐな瞳でクロードを見つめる。
「カリード!」
「うおっ!なんだよいきなり」
突然、勢いよく本名を呼ばれたクロードがびくっと、たじろぐ素振りを見せる。
「それなら、私がこれからたくさん『カリード』と呼ぶようにしますから。お義父様とお義母様から貰った大事な名前でしょう?これまでの嫌な思い出が完全にではなくとも払拭できるように……そうですね、日替わりで、と言いましたが3日のうち2日は『カリード』にしましょう」
「ははっ……なんだよ、それは」
クロードは面食らった表情を浮かべるも、すぐにその相好を崩した。
「そうだな。お前がこれから、その名前を呼び続けてくれるなら……」
クロードがイングリットの腰に腕を回し、彼の側へと引き寄せる。互いの視線がかち合い、どちらからともなく口付けを交わした。
「ありがとうな、イングリット。改めて『カリード』をよろしく頼む」
「勿論です……カリード、愛しています」
愛おしさを一杯に込めイングリットはその名前を口にした。