きつねのよめいり 青空の割合が多い空が、ぽつり、ぽつり、雨粒を落とす。一滴ずつ汲み上げたスポイトで地面に水を垂らしているようだった斑点は次第に勢いを増し、高低差のある肩まで湿らせる。
小松は反射的に、腕が回りきらない体幹に抱きつく。肩を抱かれる感触があったが、引き寄せるのではなく、引き離す方向へ力が働いていた。
じっとり汗ばむ気温の中、身を寄せられたのが嫌だったのだろうか。小松が顔を上げると、満更でもない困り眉のココと目が合った。
「今日は雨を防ぐマントが無いんだ。料理人とハントに行くんじゃなくて、恋人とデートに行くつもりで服を選んだからね……」
ココの服装は、血流を抑えるために手首などを締めた上下黒の装いにマントを被ったものではなく、堅苦し過ぎないジャケットスタイルである。
「すみません、つい癖で……」
「ふふ、気にしてないさ。とりあえず、あそこで雨宿りするとしようか」
「ハイ! 急ぎましょう!」
小松は全力疾走で、その少し後ろをぴったり着いていくココは歩幅を長くとった余力のある小走りで、緩やかなカーブを描く石畳の五〇メートルほど先に建つ四阿へ駆け込む。ぜいぜい肩を上下させてベンチにどっかり尻を置いた小松の隣に、息ひとつ乱れていないココが静かに座った。
「少し濡れてしまったね。ハンカチ貸そうか?」
持ってきてるので大丈夫です。唾を飲んで言葉の滑りをよくしようとして噎せ込む。
「落ち着いてからでいいよ」
背中をさすってもらいながら、小松は湿気って重たい油粘土のにおいを口いっぱい吸う。痛む気道が治まると、ようやく「持ってきてるので大丈夫です」と答えた。
見頃をとうに過ぎた、花を咲かせる樹々の硬い濃い緑の葉に、さわさわ水が降りそそぐ。
「急に降ってきましたね。すぐ近くに休憩所があって助かりました」
「そうだね……この近くで狐が結婚式でもしてるのかな」
「かもしれませんね」
持参していたハンカチで肩や髪の表面を拭きながら、小松は上にある顔をチラ見する。
きれいな顔をほころばせたココがおとぎ話めいたことを言うと、紋付き袴や白無垢を着て祝言を挙げている狐の空想に真実味が宿るように思われた。
小松の広い交友関係から探しても、同じ文言を口にしてそのように思わされそうな人間はココの他にいない。信頼する相棒たるトリコが言ったとしたら……小松はゾッと寒イボが立つ上腕をさすった。
「小松くん、寒いのかい?」
背中を丸めることで自ら身長差分を埋め、心配そうに覗き込んできたきれいな顔面に、小松は「あ、いえ、大丈夫です!」と距離感にそぐわない声量で言った。
「そんなに大きな声出さなくたっていいのに」
ココが身を引いたことで視界が開けた。小松は一安心して、日差しが照りつける雨降り花園を眺める。散り終わって蕾もついていない樹々を目的に来る客は少なく、人とすれ違った覚えがなければ、天気予報になかった雨に惑う人の姿は当然ながら見当たらない。騒ぐのは葉を日傘にしていたカエルくらいなものだ。
「狐の嫁入りって、なんで狐の嫁入りっていうんでしょうね」
「嫁入り行列を人間の目から隠すために偽の雨を降らせてる、だったかな。そんな話を聞いた気がするよ」
「雨降らせてまで隠したいお嫁さんかぁ……きっと、ものすごい美人なんでしょうね」
「ふふ、そうだね」
あまい空気を含んだココの返事が鼓膜をまろやかに震わせる。小松は唐突に自分で言ったことが小っ恥ずかしくなって隣を見た。
ココは開いた己の手のひらに視線を落としている。
「でもさ、本当に隠したいんなら下策じゃない? こんな晴れてるのに雨なんか降らせてちゃ……現に、何か隠してるに違いないって疑われてしまっているじゃないか。ボクならもっとうまくやるね」
話す最中に、じわりと紫色の塊が生成される。おおまかにスズメほどの大きさの鳥の形になったそれは、みるみる間に黒い羽毛が生え揃い、嗄れた鳴き声で小松に挨拶した。
「ちっちゃい……キッス、ですか?」
「うん。キッスの毒人形だよ」
ココが放り投げるように腕を振ると、小鳥サイズのキッスが飛び立つ。二、三度、軒下を旋回してココの手に戻った。親指にすり寄って甘えるキッスの愛くるしさに、小松は思わず人差し指を近付ける。あと少しで触れるといったところで、ココの左手がキッスを覆って隠してしまった。
次に手が開かれると、現れたのはココと全く同じ顔、同じ服装の人型。
手乗りココは腕を伸ばして小松の人差し指を捕まえ、小さな唇で指先に口付けた。そのまま艶っぽく微笑まれては、とても直視していられない。
ココの毒から作られたこの生命体が、たとえ小さくともココと何ひとつ変わらないものだと知らしめられ赤面する小松と反対に、それを見下ろすココの表情は冷たい。
手の上のものを叩き潰すように左手が被さる。
ゆっくり開かれた手には、先程と同じく人型がいたが、顔も服装もまるっきり変わっている。慌ただしく首を左右に回して、巨大な人差し指に気がつくや「わぁーっ!? なんだぁー!?」と腰を抜かして叫び出した。
「ボクってこんなですか?」
「限りなく忠実に再現しているつもりだよ」
ココは手を持ち上げ、手乗りサイズの小松にくちづけをいくつも落とす。
「ボクの力ってさ、人を隠すのにうってつけだと思うんだ。見た目はもちろん心までまったく同じ生物が作れるんだから、すり替えたって誰も気が付かない。サニーの直観にもゼブラの耳にも引っかからず、日常が回るだろう。トリコの鼻を誤魔化せるかは未知数だけど……」
デカい同じ顔を意識しながら、自分と全く同じ顔した生物が恥じらう。先程と違う意味で居た堪れない。
ひるがえしたシーツのようにやわらかく左手が被さる。
「ボクがお嫁さんを隠す狐だったら、晴天に雨を降らすなんて目立つことはしない。隠したという事実すら、周囲に気付かせやしないさ」
次に開かれたココの手には何も無かった。
「抵抗されたらどうするんですか?」
「忘れたの? ボクは毒人間……叫ばれる前に眠らせよう。なんなら、今ここで試してみようか」
ベンチに手を付いて被さる優男の貌に視界が覆われる。目そのものが弱い光を発しているかに思われる見応えのある昏い微笑みに隠された、見応えのない花園から漂ってくる湿った土のにおいが、まだ雨が降っていることを知らせた。
小松は顔を動かさず、毒を扱ったばかりの無骨な手の甲を手探りでさがし当てて握った。
「ココさんは、きっとそれをしません」
「どうしてそう言い切れるんだい? ……いいや、そうだとも。ボクはきっと、そうしない」
なぜなら、そんなことをする必要がないから。
気持ちが筒抜けだと思うと面映ゆいが、見抜かれているなら臆面もなく言ってしまえる。たくさん息を吸った。
「だって、目移りする暇なんかないくらいボクがココさんのこと好きなんだってことくらい、電磁波を視れば分かっちゃいますよね」
「だって、そんなことしたら小松くん、きっと怒るだろう? やさしい人だっていう信用を損ねてキミに嫌われたら、ボクはもう」
第一声が被る。各々ひと息に吐ききった言葉は混ざって正確に聞き取れず、お互い見つめ合ったまま「なんだって?」と首を同じ角度に傾けた。
「いや、いやいやいやっ、ボクがココさんを嫌う? そんなことあるわけないじゃないですか!」
「隠したお嫁さんは誰にも会わせないで、日付や時間、天気すらボクが教えてあげなきゃ知ることができないようにするつもりだって言っても?」
「だから、そんなことしなくたってボクはココさんのこと愛してます! 目移りする暇なんかないって言いましたけど、そもそもココさんがそんな暇を与えてくれないんですからね!?」
ココは面食らったように目を見開くと、ハンカチで手のひらを念入りに拭い、無言のまま小松の頭に両手を置いた。撫でるというより形を確かめることを目的にしている手付きである。
「ココさん、なにをしてるんですか?」
「ん……ああ……キミがあんまりボクに都合のいいことばっかり言うからさ、狐に化かされてるんじゃないかと思って」
「狐の耳が生えてないか、確かめてるんですね」
「うん」
明るくなった表情が冗談であることを伝えてくれるが、捉えようによっては、愛してますとまでなりふり構わず叫んだ言葉を疑われているようでもあった。
もどかしくなった小松はココの両手首を掴んだ。
「そんなにボクの言うことが信じられないんなら、分かりました。どうぞボクの体を隅々まで確かめてください」
「……本当に、いいの?」
「ハイ。それでココさんの気が済むなら」
するりと頭の形に沿って滑り落ちてきた指が耳介をなぞった。
「小松くんって、意外と男前だよね。人が少ないとはいえ、誰かに見られない確証はないのに……」
フッ、と側面から息を吹きかけられて背中が粟立つ。やわく耳たぶを食まれたあたりで、化かされたのはこっちだったかと軽く後悔する。しかし、小松も引き下がれない。
肉感のある唇の熱さを耳全体に教え込まれていく。情けない声が出そうになるのを、膝の上で爪先が白くなるほど拳を握りしめてこらえる。健気な努力はいとも簡単に舌で抉り取られてしまった。
「んひぃっ……」
ぴたりと密着する舌が耳の凹凸をくまなく擦り、穴へと侵入。ぐちゅり、やけに卑猥な水音が強制的に背筋を引っ張り上げる。耳掃除してきてよかったなという思考に逃げることすら、湿らせた唇から鳴るリップ音が許さない。
「耳、出てこないね」
「っふぅ……はっ……あ、たり前です。気は済みましたか」
「うーん……まだかな。こっちも確かめなくちゃ」
愉悦を滲ませたココの唇が、未だ手付かずにもかかわらず真っ赤に染まったもう片方の耳に食らいつく。
拳だけでなく瞼も固く瞑った小松は、反った背筋を撫で下ろす手に気が付かなかった。発覚したのはベルトが緩められ、それでも狭いズボンと下着、素肌の隙間への侵入を許してようやく。
尾てい骨付近を撫で、割れ目に沈み込んできたのは中指だろうか。小松がベンチから腰を浮かせたのをいいことに、尻たぶをわし掴みにされた。
「コっ、ココさん!? これ以上はちょっと……」
「確かめろって言ったのはキミだろ。これ以上もなにもないのに……なにかして欲しかったの? 小松くん」
唇が触れるほどの距離で囁やきかけられる。微かな振動が濡れそぼった耳たぶにはくすぐったい。小さな羽虫が耳のすぐ横に飛んできたときなど、くすぐったいと感じたことはあったが、それとは似て非なるものだ。脊髄伝い脳天へせりあがっていく微弱な電流を伴うくすぐったさなど、今の歳になるまで小松は知らなかった。
もとより見頃を過ぎた、食えもしない花の木に風情を見出す感性などありはしない。そうでなくたって、歩幅を合わせてくれる美しい狐に寄り添われて歩き回るのは無理そうだった。
背骨が抜かれてしまったような気がして、小松はココの肩に額をうずめた。
「すみませんココさん……デート続けるの、無理っぽいです……」
「じゃあ、ちょっと早いけど戻ろうか。今日は家に帰してあげられそうにないけど、いいかな」
「隠すのは、ナシですからね?」
「ふふ、安心して。狐の嫁入り行事はもうとっくに終わったみたいだから」
ベルトを締めなおされた後、ココに手を引かれて四阿から出た。
いっときは静まった蝉が盛り返し、照りつける日の下にぬるい風が吹く。水をまかれたはずの石畳や常緑の葉に濡れた跡はみつからない。