想・喪・葬・相 15その後の診察でも心身ともに異常が見つからななかったため、退院はすぐだった。
自動扉を通り抜け、二人並んで駐車場を歩いていく。
「迷惑かけたな」
「そんなことないよ」
冷たい風と舞う粉雪から逃れるように、車内に入る。エンジンをかけると、助手席に座った江澄が慣れた手付きでカーナビを操作し始めた。
画面に映る地図の上を指先が滑る。
「今日は特に予定ないんだよな?」
「うん。阿澄を送ったらホテルに戻るよ」
「そうか。だったら夕飯作るから家に来い」
「いや、それは……病み上がりなんだし、無理しないでゆっくり休んだほうがいいんじゃない」
身体の負担を考え、夕食ならどこかに食べに行こうと提案した。だが、江澄は視線をカーナビから曦臣に移すと、不機嫌さを少しも隠さない拗ねた表情をした。
「もう、うんざりする程休んだ。久しぶりに曦臣と飯食いたかったのに…やっぱり嫌なのか」
「嫌じゃないよ!阿澄が疲れてると思っただけで…」
「なら決まりだな。何食べたい?和食でも中華でもイタリアンでも、曦臣の好きなもの作ってやる」
への字に曲がった唇があっという間に弧を描き、指先がスーパーを目的地に設定した。
それからは車中でもスーパーでも、江澄は終始機嫌が良かった。
少し買い過ぎではないかと思う程に、肉も魚も野菜も菓子も次々とカートに入れていく。
ビールをケース買いするのに、さらにワインまでカートに積み始めた。
お目当ての商品を見つける度に「曦臣、曦臣」と呼び寄せる姿は、少しはしゃいでいるようにも見える。
三年前の憂い顔の影はもう何処にもなかった。
(今、目の前で笑っている阿澄は間違いなく幸せなんだ)
少し先を歩く江澄の背を見て、ほっと息を吐く。
江澄の幸せは、この三年間ずっと抱き続けた何よりの願いだった。今やその願いは叶ったのだ。
江澄が、長年抱え続けた想いと苦しみ悩んだ日々を記憶から葬ったことで。
(このままの日々が続けば大丈夫。『幼馴染』の私が『親友』の阿澄を守っていけばいい)
「あっ、曦臣!次の信号右折してくれ。ホームセンターにも寄らないと」
「いいよ、何を買うの?」
「土鍋とか食器。それに布団一式も買っておかないと」
「布団?」
「今日泊まってくだろう?俺の家、自分の分しか寝具ないから。歯ブラシと下着も買わなきゃな。家の近くにコンビニあるから、そこにも寄ってくれ」
以前は、月に何回かは当たり前のようにどちらかの家で夕食を食べ、映画や録画したドラマを見て過ごしていた。だから、お互いの家には当然のように歯ブラシやら愛用の剃刀やら、下着まで置いてあった。
(また阿澄の家に私物を置けるなんて)
アパートの階段を上がる度に、コンビニの袋が揺れる。心臓が高鳴り、笑みが滲み出た。完全に浮ついていたのだ。
玄関の扉が開く音が、思考を呼び戻すまでは。
(阿澄の家に入るのは今でも私だけだろうか?)
玄関は以前とは違う香りがした。
古びた木の香り、知らない空間、別れてからの歳月。
そもそも家が違うのだから香りが違うのは当たり前のことで。なのに、浮かんだ疑念は高揚した気持ちを一気に萎ませた。
「荷物はその辺に適当に置いてくれ」
数日空けていた部屋は外と変わらないくらい寒い。必要最低限のものしか置いていない殺風景さが、より寒々しさを強調していた。
冷たいフローリングを足裏に感じながら、買ってきた物を台所に置いた。
棚を見ると、食器も箸も一人分しかないようだった。食材を詰め込んでいる最中に見えた冷蔵庫も、中身はほとんど入っていない様子。洗面所にも歯ブラシは一本だけ。
何を見ても、江澄が誰かとこの家に住んでいた形跡がないかを確認していた。そして、そのことに一々ほっとしている自分が、どうにも汚らわしく思えて仕方なかった。
「阿澄、手伝うよ」
「ああ。じゃあ、買ってきた食器を洗ってくれ」
いつかのように二人並んで台所に並び、黙々と作業をした。
特段会話がなくても不思議と気まずさはなかった。
フツフツと鍋が煮える音、小気味よく響く包丁の音、冷蔵庫の扉がパタパタと開閉する音。
江澄の料理の手際の良さは変わっていないらしい。
江澄がたてる音が、料理の湯気と食欲を誘う匂いが、少しずつ強張った気持ちを解してくれる。
料理が出来上がるに連れて会話も増えていった。料理は一人用のちゃぶ台には乗り切らず、アイロン台にタオルを敷いて置いた。が、それでも乗り切らない。
仕方なく鍋はガスコンロを机から下ろし、近くに座る江澄がよそうことになった。
「曦臣と鍋食うの久しぶりだな」
「そうだね。阿澄、退院おめでとう」
「ああ、心配かけたな」
「もうお酒飲んでも大丈夫なの?」
「大丈夫だろ、結局何処も悪くなかったんだし。病院食の前で退院した日にビール飲むって誓ってたんだよ。曦臣との再会に乾杯」
「乾杯」
食べ合わせは考えず、食べたいものが並んだ食卓。海鮮鍋、牡蠣と舞茸のアヒージョ、豚の角煮、鰤の照り焼き、野菜スティックにバーニャカウダソース、南瓜の煮付け。
江澄の料理の味つけも少しも変わっていなかった。どれを食べても懐かしい味が口の中に広がり、ついつい食べることに夢中になってしまう。
そんな自分を、江澄は満足げな笑みを浮かべ眺めている。
「美味いか?」
「とっても」
「もっと食え。よそってやるからお椀出せ」
食べ終わった後にだらける江澄。料理のお礼に後片付けをするという暗黙の了解。そんなところも、幼馴染だった日々とまるっきり一緒だった。
心地良いものがこの部屋には溢れていた。
美味しい手料理、遠慮がない会話、二人の笑い声、無防備に寛ぐ江澄。
喪失して戻るはずがなかった時間が、確かに存在している。
今、この場所には足りないものは何もなかった。
「曦臣、見たいテレビ番組ないなら、ドラマ見てもいいか?」
洗い物をする背中越しに話しかけられ、意識を向けた。
「いいよ、どんなドラマ?」
「うーん、まぁ恋愛ドラマだ」
「阿澄が?恋愛ドラマ見てるの?」
「入院中にちょっと宣伝してたのを見てな。別にストーリーには興味ないんだが、出てる女優が可愛いんだ」
「えっ?」
聞いたことのない言葉に、危うく泡だらけのグラスを落とすところだった。
「ああ、この子だ。ほら、可愛いだろ?」
近くまで寄って来た自分をちらりと見ると、画面に映る女性を指さした。
ふわふわした茶髪に大きな垂れ目。白く華奢な女性で、小動物を思わせる可愛らしい見た目をしている。
後頭部を不意打ちで殴られた気がした。
これまで江澄が特定の女性を可愛い等言ったことはなかった。ドラマでも恋愛ものはほとんど見たことがないはずだ。
動揺して何も言えず佇んだ。すると、下からぐいぐいと手を引っ張られた。
江澄が下から見上げている。やけに幼い無防備な顔だった。
「曦臣、洗い物終わったんなら一緒に見よう」
半ば強引に隣に座らせられる。
テレビを見ている江澄の頬が僅かに紅潮しているように見えるのは酒のせいだろうか。
肩が触れる程近くで見つめているというのに、江澄の視線は女優を追っていて、少しもこちらを向かない。
「相手役の男が羨ましい。こんな場所じゃ出会いもないしな。そう言えば、曦臣はここ三年間彼女いたのか?」
「いなかったよ」
「一人も?それじゃ、今も藍叔父さんに急かされてるんだな」
陽気なCMの音が響くと、ようやくにやりとした顔がこちらを向いた。
「どうなんだよ?曦臣」
ふっと江澄が悪戯っ子のように笑った。
その瞬間、感じたのは紛れもない空虚さだった。
自分一人だけが前に進めず置いていかれる寂しさ。
温かく満たされた空間に、自分だけが異質であるという疎外感。
江澄と自分の想いが最早同じではなくなったことへの喪失感。
それらは願いを叶え続けるために、この先ずっと抱えていかなければならない感情だった。
(この気持ちを否定することも、誤魔化すことも、まして失くすことも出来ない。ただ阿澄に知られないよう、隠し続けるしかない。もちろん、隠し続ける。けれど、ただこれだけは…、最愛の人に知っていてほしい)
小さく震えるような呼吸をし、微笑みかける。
「もう見合いはしない。恋人もつくらない」
「…どうした。何があった?」
「好きな人がいるんだ」
「そうなのか!曦臣にそこまで言わせるなんてどんな女だ?写真見せろよ」
「ない」
「ないってなんだよ。もう告白はしたのか?」
「一緒になるわけにはいかない人でね。でも、その人以外を好きになるなんて無理だから、結婚はもう諦めたんだ」
「そっ…か……無神経だったな。悪い」
「いいんだ。でも阿澄は大事な親友だから話しておく。私はね、その人のことが好きだったのに、その気持ちに気づかなかった。それだけじゃない。その人の優しさにすらずっと気づいてあげなかった。挙句、酷く傷つけてしまってね。でも…、今でもその人だけを想ってる」
「その人とはやり直せないのか?謝って…それだけじゃないのかもしれないが、何とかならないのか?」
「謝ったらね、その人は余計に傷ついてしまったんだ。自分自身を責めていた。いっそ、私を罵ればよかったのにね。私が全部悪かったのに、最後まで私を責めようとしなかった。本当に、どうしようもないくらい優しい人だった」
長いCMが終わり、ドラマが始まった。
しかし、江澄はテレビを見てはいなかった。信じられないという顔で見つめている。
純粋に幼馴染を心配し揺れている目。何かを口にしたいのに声にならずに半開きのままの唇。
憐憫の目線から逃れたくて、テレビを見た。
江澄のお気に入りの女優のシーンだ。彼氏とは別の男に言い寄られ、困惑している。
「もう湿っぽい話は終わり!ありがとう、阿澄に話したらすっきりした。ほら、見てないとストーリーがわからなくなるよ」
「あ…あぁ」
釈然としないけれど、もうこれ以上踏み込まない方がいい。そう幼馴染は判断してくれた。
そのことに心から安心した。なのに、江澄の視線が再び女優に独占されたことで、胸に棘が刺さったような痛みを覚えた。
「お風呂、ありがとう。……お布団くっつけて寝るの?」
「お前ん家みたく部屋広くないんだから仕方ないだろ」
「私はリビングで寝るよ」
「何でだよ。こっちの部屋の方が暖かい。リビングで寝たら風邪ひくぞ。それに修学旅行みたいでこういうのもいいだろ?」
そう言いながら買ってきたばかりの布団に皺ひとつつけないように綺麗にシーツを敷いている。
「リモコン、ここに置いとく。寒かったら勝手に温度上げてくれ」
「うん。じゃあ、おやすみなさい」
「もう寝るのか!?」
「阿澄はまだ眠くないの?」
「いや、寝るけど。その……曦臣はいつまでこっちにいられるんだ?」
「うーん、まだ決めてないんだ。叔父に頭が冷えるまで帰ってくるなって言われてるから」
「何だそれ!?何したんだよ!?」
「見合いの件で叔父と揉めてしまって」
「そ、そうか。じゃあ、当分は俺と遊ぶか」
「阿澄は仕事復帰はいつなの?」
「それが入院のこともあったから職場に電話したら、クソ上司がしばらく休養しててくれって頼んできたんだよ。仕事は一段落してるから溜まってる有給を使ってくれってさ。そんなわけで少なくとも今月は休み」
「ふふっ、お互い人生の冬休みだね」
「そうだな、明日何するかな」
江澄はようやく部屋の灯を消した。といっても真っ暗闇で寝るのが好きではないので、小さなテーブルランプの灯が部屋の片隅を照らしている。
「……なあ、曦臣」
「ん?」
江澄が寝返りをうってこちらに向きを変えた。
「ここは冬は観光シーズンじゃないから寒くて寂しい場所なんだけど」
こちらも横を向いた。
睡魔に誘われているのだろう、幾分か眠そうな表情をしている。
目が合うと、江澄はとろんとした目で微笑んだ。
「明日から曦臣と一緒にいられるの、何か楽しいな」
「…っ」
喉がひりつき、手が震える。
必死に保っていた理性を揺さぶられるのが怖い。
恋慕とは言えない程に執着と欲で汚れた想い。それに『幼馴染』という、キラキラしたメッキを塗ったばかりだというのに。江澄は必死に塗ったメッキをいともたやすく剥がしてしまう。
(『幼馴染』として側にいられれば幸せだなんて、酷い嘘だ)
本当は、今すぐ目の前の江澄を抱きしめ口づけて、腕の中にしまい込んでしまいたい。そのまま、想い人は江澄なのだと伝えたい。この三年どれ程恋しく想っていたのか、そのしなやかな身体に染みこませ教え込みたい。
そうして、今の言葉をもう一度言ってくれと懇願したい。
(阿澄のために絶対にこの想いは表に出してはいけない。今度こそ阿澄が幸せに生きられるようにと、そう誓ったのだから)
江澄の頬に手が伸びてしまわないよう、冷たくなった両手を握りしめて耐えた。
「そうだね」
声は掠れていた。表情も上手く取り繕えた気がしない。
微睡に流され始めた江澄が気にしていないことを祈るばかりだった。