想・喪・葬・相 16それからは、会っていなかった三年間を取り戻すかのように二人で過ごした。
「明日は何する?」
まだ今日が終わらないうちから、明日の予定を埋めることが当たり前になっていた。
(ここに来た時の俺が知ったら驚くような話しだな)
本社の出世争いと人間関係に疲れ切っていたのか、当初は酷い無気力状態だった。もう本社に戻る道はないだろうし、戻りたいとも思えなかったため、仕事にも身は入らなかった。
休日もぼんやり家で過ごしていたため、絶景スポットや洒落たカフェどころか、飲食店の一つも知らなかった。
しかし、曦臣と過ごすのにただ家の中でだらだらしているのはもったいない。そう思い調べてみれば、コンクリートジャングルで暮らす都会人が羨ましがるような絶景や美食がそこかしこに散らばっていた。
毎日車を走らせてはどこかに出かけ、夜は自宅に戻り買ってきた食材を料理して食べて飲んだ。ただその繰り返しの日々。だが、今までの人生で一番穏やかな時間だった。明日がくるのが待ち遠しかった。
曦臣が横にいてくれることで、昼間に見る景色だけでなく、殺風景な自宅ですら温かく綺麗なものに見えた。
(いつまでもこの日常が続けばいい。曦臣が帰らなければいいのに)
そう思っていても、藍家の長男である曦臣には無理な話だとわかっている。
彼には大事な会社がある。大切な家族も帰りを待っている。
いつか、この日常は日常でなくなる。
(わかっているからこそ、仕事に復帰するまで、そして曦臣が帰ってしまうまでの時間を大切にしないといけない。繋がりが切れてしまわないように、二人の思い出を少しでも増やしておかないといけない)
あちらに戻っても、曦臣がここでの日々を思い出して訪れてくれるように。
そんな思考に急かされ落ち着かないのは、間違いなく曦臣の態度のせいだ。
「曦臣、明日はどこに行く?」
「今日通った道の逆方向に行ってみる?道の駅があるから、色々売ってそう。もう少し進めば小さなワイナリーもあるみたいだし」
「いいな。あっ、ここ近くに温泉がある。なあ、温泉にも行きたい」
「うん、いいよ。でも私は温泉には入らないからね」
「何でだよ。この間もそう言ってたよな。前は一緒に温泉巡りしたのに、何で急に温泉に入らなくなったんだ」
「ちょっと色々あってね」
さらに追及しようとすれば、洗い物をしてくると逃げるように台所に行ってしまった。
曦臣の服を掴もうとした手が、行き場をなくして彷徨う。
(またその態度か)
自分達は仲直りし、元通りの親友になったはずだ。会話のテンポも習慣も前と変わっていない。
しかし、再会してからの曦臣の言動には、以前には感じられなかった違和感がそこかしこにあった。
一番は距離感だ。
以前は物理的にもっと距離が近かった。それが再会以降、二人の間にはどんな時も人一人分の隙間が空く。距離を詰めようとすると、すっと引かれてしまうので無意識ではないのだろう。
テレビを見ている時も以前は曦臣に凭れかかって見ていたのに、再会後は一切それをさせてくれない。
別にべたべたくっつきたいわけじゃないが、曦臣は姿勢がいいから凭れるのに丁度良かったのに。
「ホテル代もったいないし、狭い部屋でもよければ俺の家に泊まればいい」と提案しても、即座に断られてしまった。
「叔父とホテルで話がついているから、そうもいかない」のだと。
それならそれでもいいのだが、あの夜以来、一度も泊まらなくなったことには大いに苛立った。
何回「泊まれよ」と言っても、どんなに夜遅くになっても、頑なに誘いを断りホテルに帰ってしまう。
確かにこの家はホテルのスイートルームと比べればうさぎ小屋だと思うが、そんなに不便ではないはずだ。
「そんなに狭い部屋は嫌なのか!布団だって買ったのに!」と子供のように機嫌を悪くしても、困ったように笑うだけだ。
「嫌じゃないよ。ただ、ホテルとの関係も色々あるから」と、よくわからない事情を盾にしてくる。
他にも違和感は上げればきりがなかった。
何とか三年前のことを思い出せないかと、近場に専門医がいないか調べた時は、珍しく血相を変えていた。
「無理をしては駄目。今は未来のことだけ考えて」
こちらが心配になるくらい思い詰めた様子に、頷くしかなかった。
「曦臣に相談せずに一人でこういう事はしない」
そう約束した時、曦臣は安心したように微笑った。けれど、何故か深く落ち込んでいるように感じたのだ。
それ以来意識していると、ふとした時に悲しそうな暗い目をして微笑んでいることが何度かあった。
あの表情をされると、いつも心をぐちゃぐちゃにされる感覚に陥る。酷い時は身体中に痛みが走ることすらあった。
(何でそんな顔をするんだ。俺は何をしてしまったんだ)
面と向かって問いただしたい。実際、何度も口から出かけた。
けれど今の曦臣は間違いなくその理由を隠し、はぐらかす。そうなれば短気な自分は言葉を荒げ、また喧嘩してしまうかもしれない。
(もう曦臣を失うのは嫌だ)
臆病さが、数々の違和感の理由を問うことを許さなかった。
「じゃあ、明日また迎えにくるね。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
今夜も曦臣は帰ってしまった。
一晩眠ればまたすぐに会えるのに、車のランプが見えなくなるまで窓から眺めているなんて、まるで子供のすることだ。
「やっぱり、俺が原因なんだろうな」
一人きりになった部屋に冷たい布団を敷く。それも二組。
一度しか使われていない布団をじっと見ながら、溜息を吐いた。
嫌われてはいないと思う。嫌われていたら毎日顔を合わせたりしないはずだし、「明日は何をしようか」と言ってきたりはしないだろう。
けれど見え隠れする微妙な余所余所しさは、もう以前のような自分達には戻れないと告げているようで。
僅かに隙間風が吹く関係の原因は、間違いなく三年前の喧嘩だ。
(俺達の喧嘩の原因は、曦臣の好きな人と関係があるんじゃないのか)
そうとしか思えなかった。
曦臣とは、幼い頃からずっと一緒だった。
今までの彼女との出会いと別れ、見合い相手のことだって知っている。なのに曦臣があそこまで恋焦がれた人がいたなんてことは、全く知らなかった。
(それは知らなかったのではなく、記憶から消えているからではないのか。三年も仲違いをした程の喧嘩の原因はその女性と関係があるんじゃないのか。だとすれば、その女性はどんな人だったんだろう。今、その女性はどうしているんだ?)
曦臣の悲しさを孕んだ微笑みを見る度に、気になってどうにかなってしまいそうだった。
誰か知っている者はいないだろうかと、義兄と古くからの友人一人に探りを入れてみたが、求めていた情報は何一つ得られなかった。
「どうしたもんかな」
あの曦臣の状態は良くない気がする。
二人の隙間を埋めようとどこか必死な様子なのに、こちらから寄っていくとそっと距離をとる。
何かを取り繕っているような余裕のなさを感じるのだ。
(曦臣が何を考えているのかわからない。俺に何を求めているんだ)
頭を掻き布団に勢いよく寝転がると、隣の布団に向きを変えた。
片手を伸ばすと、冷んやりとした白い生地に皺が出来る。
「何か言ってくれよ、曦臣……俺達幼馴染だろ…」
深い溜息が溢れた。
すると、枕元のスマホが鳴った。
「誰だ、こんな時間に」
表示されたその名は異国にいるかつての相方だった。随分と懐かしい奴からの電話に、先程までの思考が霧散した。
『あ、江澄。久しぶり』
「ああ。どうした」
『いや、忙しくて中々電話できなかったからさ。江澄もあれ以来どうしてたかなって。今本社勤務じゃないって聞いたよ』
「別にどうもしない。田舎暮らしになったってだけだ。お前こそどうなんだ?」
『つい先日、結婚した』
「はあ!?なんだそれ!」
『そんなに驚くことなくない?理想の人と恋人になったんだから、そりゃいつかは結婚しようってなるでしょ』
「理想の恋人?何だそれ?聞いてないぞ」
『言ったよ!電話越しの江澄が二日酔いだからって要件だけ言ったの覚えてないの?』
「え?そんなことあったか?」
『ちょっと、江澄。大丈夫?たった三年くらい前のことだよ?ボケるのはまだ早いでしょ。それとも二日酔いが酷くて意識朦朧としてた?』
「…いや、もしかしたら記憶が消えてるのかも」
『はぁ?』
冗談だと思って笑っている元同僚に、つい最近冬の凍てついた川に落ちたこと、脳に異常はないはずだが思い出せない記憶があることを説明した。
『それはとんだ災難だったね。今は大丈夫なの?』
「大体のことは覚えてるし日常生活に支障はない。でも思い出せないことって想像以上に気持ち悪いんだな。なあ、その日の電話、他に何話したんだ?」
『何か江澄が焦ってるみたいな声出してたから、そんな大したことは話してないよ。今度江澄の恋話でも聴かせてねって言ったくらいかな』
「何で俺が恋話なんてするんだよ」
『え?だって聴きたいでしょ。江澄が好きな人とどうなったか』
「は?俺が好きな人?何だそれ?」
『それも忘れてるの?!見送りの日に言ってたじゃん。好きな人がいるって。冗談じゃなく、もう一度病院で検査受けた方がいいかもしれないよ』
「まぁ考えとく。で、要件はそれだけか」
『江澄、今結婚を考えてる人っている?』
「いねぇよ。茶化してんのか」
『そうじゃないよ。もう一つだけ。本社に戻りたいって思ってる?』
「いや、田舎暮らしもまぁまぁいい。でもしばらくしたら、便利な都会が懐かしくなるかもしれないから、その時は転職でもするかな」
『そう』
それからしばらく、部屋から灯は消えなかった。