想・喪・葬・添 18話(結局、『ずっと一緒』だなんて無理だった
『好き』だけでは届かなかった
……けれど、どうしても届いてほしい想いだった)
花火大会の翌日、江澄は久しぶりに出社していった。
退職について話をつけてきたとのことで、夕刻スーパーの袋を下げて帰ってくるなり、「昼間は引継ぎがあるから出かけられないけど、なるべく定時で上がる。だから夕飯は一緒に用意しよう」と言ってくれた。
その提言通り、確かに江澄は定時で切り上げ帰ってきてくれた。けれど、夕食後は荷造りやら新しい仕事の勉強で忙しくしており、今までのような穏やかな時間が流れることは、ほとんどなかった。
江澄は昔から決断すると脇目も振らずに進む性格だった。
時には真っ直ぐ過ぎる言動に視野が狭いなどと他人から評されることもあったが、一生懸命で何かに一途でいられる姿はいつだって魅力的だった。
しかし、今は手放しでその凛とした目を好きだと言える自信がない。
今、江澄が見すえる先にあるのは、新しい世界だ。
容易には会いに行けないくらい遠く離れた異国の地だ。
離れていく準備を黙々とする江澄に、どう声をかければいいかわからず、ただ荷造りを手伝ったり、長々と皿洗いをするしかなかった。
江澄の声が仕事部屋から聞こえる。
元同僚、そしてこれからまた同僚になる彼と仕事の話をしているのだろう。二人が楽しげに話す声を聞きたくなくて、つい蛇口を捻って水を多めに出しながら洗い物をしてしまう。
だが、水音と硬質な音の隙間をぬうように江澄の声が耳に入り込む。
(きっと阿澄はもうこの国で暮らすつもりはないのだろう)
江澄が新天地での生活に真剣であればあるほど、気持ちが塞いでいった。
『こんな俺でも必要としてくれる奴のところに行く』
それが転職の理由だと言われた時、身体中を駆け巡った激情に駆られ、本音を吐き出してしまいそうになった。
「私はどうなるのだ!」と、そう叫んでしまいたかった。
「世界中の誰よりも阿澄を必要としているのは私なのに!その私を置いていくのか!」と。
そう素直に言っていたら、今も江澄はリビングで寛ぎながら明日二人で何をするか考えてくれただろうか。
しかし、泣き縋って同僚の誘いを断らせたら、江澄の人生はどうなるのだろう。
こんな男の側にいて、江澄は幸せになれるだろうか。かつて江澄を傷つけてきた自分が、新天地で新しい仕事に打ち込むという目標よりも幸せにしてやれるとでもいうのだろうか。
(阿澄と離れたくないという欲望のままに自由を奪うのでは、以前と何一つ変わらない)
もう過ちは繰り返さないと、あの病室で誓った。
だから「応援してる」と言う以外の選択肢などあるはずがなかった。
(どれ程辛いことであっても、この先の人生に光がさすことはないとわかっていても……それでも、もう阿澄を束縛してはいけない…私には阿澄を引き留める資格なんてないのだから)
洗い物が終わると手を拭き、ベランダに出た。
休職してからメールは何度かしていたが、電話は初めてだ。
「もしもし、私です」
『曦臣か』
「はい」
『どうしている』
「だいぶ冷静になりました。叔父上にも忘機にも、会社にもご迷惑をおかけしました。そろそろ復帰させていただきたいのです」
『…もう大丈夫なのか』
「はい。もうあのようなことは決していたしません。私がどうかしていました」
『ならばよい。いつ戻ってくる』
「来月にはそちらに戻ります」
『わかった。……そろそろ春だか、そちらはまだ寒いだろう。風邪をひかぬようにな、曦臣』
通話を切った後も部屋に戻る気にはなれなれず、ただ茫然と星空を見上げた。
出国の日が、今度こそ二人の人生の岐路になる。
結ばれない運命に屈するしかなかった悲哀が、ますます胸を締め付け、白い呼吸がどんどん細くなった。
とうとう訪れてしまった別離を、まだこの瞬間も受け入れきることは出来ない。
けれど、二人の関係性の終着点はもう見えている。
(これでよかったんだ。阿澄が私から遠く離れて、新しい場所で色々な人と巡り会って…いつか私のことを思い出すこともなくなっていって……そうすれば、阿澄の記憶が蘇る可能性はずっと低くなる。辛い想いを葬って、幸せな人生を歩める)
気持ちを整えようと、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出していく。
そうすれば、泥々した胸の澱みが少しでも消えてくれないだろうか。そう思いながら、暗闇に溶けていく白い吐息をぼんやりと見つめていた。
「曦臣、何してるんだ。寒いだろ、そこ」
「あぁ、星空が綺麗だから眺めていたんだよ。電話はいいの?」
「もう終わった。茶淹れたから早く入れ」
「うん」
「…なぁ、曦臣」
「何?」
「今日くらい泊まっていかないか?明後日、布団捨てるんだ。だから、最後くらい」
「ありがとう。でもお茶を飲んだら帰るよ」
「……そっか。そうだよな」
少し苦い茶を飲み終われば、もうこの場に居続ける理由がない。居心地の悪さがじわりと滲み出てくる前に帰ろうと、立ち上がったその時。
「曦臣、ちょっとここで待ってろ」
江澄がクローゼットを開け、透明なビニールに包まれた何かを取り出した。
「頼みがあるんだ。これ、曦臣が持っててくれないか」
差し出された包みは、紺色の衣服だった。
許しを得て広げてみると、見覚えのある刺繍が目に飛び込んだ。
母校の校章。それは、高校時代の制服だった。
あまりに懐かしい品が突如として現れたことに、驚きを隠せなかった。
「阿澄、これ…まだ持っていたの?」
「まぁ、そうらしいな。なんで持ってきたのか自分でもよくわからないが、元は曦臣の制服だったし何か思い入れがあったんだろ。実家に置いといたら捨てられちまうかもしれないし、かと言って海外に持ってくのもな。だから、曦臣に預けておきたくて」
「そう…」
「駄目か?」
「ううん。いいよ、私が大切に保管しておく」
「そんな大事にしておかなくていい。物置の片隅にでも捨て置いてくれ。もしどうしても邪魔だったら」
「邪魔じゃない!」
「曦臣?」
「あっ、ごめん……大丈夫、ちゃんと保管しておくよ。だから安心して」
「あ、ああ」
制服を大事な宝のように抱え、車内でも膝から降ろすことはしなかった。
薄く繊細なガラスでも扱うかのように、そっとホテルのベッドの上に広げ、ようやく手から離すことができた。
しかし、どうしても手の震えがおさまらず、縋るように制服に触れた。
淡い照明の光が紺色に微かな光沢を与えている。
大事に着てくれたのだろう。汚れも綻びもない制服。
かつての江澄の想いが詰まった思い出の品。
この制服をどんな気持ちで江澄が着ていたのか、そして今まで持っていてくれたのか。
考えれば考える程に後悔の念が波のように押し寄せる。
「私がずっと覚えておくよ、阿澄の想いを」
ゆっくりと、何度も何度も丁寧に撫で上げる。
「ごめんね」
堪らなくなり両手で持ち上げ、きつく抱きしめた。
「おかえりなさい、阿澄」