想・喪・葬・相 17「阿澄、次の道を曲がると駐車場だよ」
「了解。って、結構車止まってるな」
「冬の花火大会なんて珍しいからね。阿澄は初めて?」
「ああ」
湖が凍るこの時期、冬期も観光客を呼び込もうと開催されるようになった花火大会。
初めの頃は瞬く間に終わってしまう程の規模だったが、今ではバスツアー客も訪れる程で中々に盛況なイベントになっている。
会場に入ると、打ち上げまで大分時間があるというのに、すでに家族連れやカップルで賑わっていた。湖を囲むように氷像や屋台も出ており、人々はその明るい灯に包まれている。
骨身に染みるような寒さであることには違いないが、ランタンの橙色の灯や、氷像内で反射して輝く蝋燭の火が、冷たさを幾らか和らげてくれていた。
「花火まで時間あるから端から見て回ろうか」
「そうだな。まずは温かい飲みものでも買わないと。マップ見せてくれ」
「はい、これ。ああ、すごいね。色んなお店が来てる。この間行ったワイナリーも出店してるよ」
「ブルワリーの屋台もあるな。ソーセージは食べたいけど、流石にこの寒さじゃビールは無理だな」
「そんなこと言って阿澄は結局両方買いそうだけどね」
「買ったら曦臣坊ちゃんにも一口やるよ」
「帰りの運転手がいなくなって極寒の下歩いて帰ることになるけど大丈夫?」
「ははっ、そりゃ地獄だな」
まずは江澄はホットワインを、曦臣はココアを片手に会場を見て回った。
近隣の店や商工会が出している屋台はメニューも様々だ。蕎麦の屋台が出汁の匂いのする湯気を漂わせている横で、ジビエ料理屋が芳ばしい肉の串焼き売っている。
二人とも手には何かしらの飲み物や食べ物を持っており、すっかり周囲の賑わいに溶け込んでいた。
ブルワリーの屋台の前に差し掛かると、江澄は曦臣から離れ、ソーセージとビールを持って帰ってきた。
「曦臣、屋台の人が穴場があるって教えてくれた」
「どこ?」
「マップだとこの辺りだな。途中まで道が暗いから、ランタン持ってった方がいいってよ」
見ると、江澄の腕にはランタンがかけられていた。
この寒さの中、売れ行きが悪かったビールを一パイント買ってくれたお礼らしい。
両手が塞がっている阿澄に替わり、曦臣がランタンを持って遊歩道を歩いて行く。
賑やかな会場からどんどん離れていく、細くて暗い道。
穴場があるという事前情報がなければ、まず通らない道だろう。
着いた場所は、やはり地元の人しか知らないようで、僅か数名だけがまばらに座っていた。
すぐ目の前には凍った湖しかなく、遮るものがない好立地でなので、座っていても花火がよく見えるだろう。
乾いた地面にマップを敷き、ランタンを間に置いて座った。
しばらくすると、大会委員長の短い開催の挨拶がアナウンスされ、終わると同時にオープニングのスターマインが派手に打ち上げられた。
ドーン…!ドーン…!ドーン…!パラパラパラッ…
音が響きわたると、冬の澄んだ夜空に花畑が出現した。
夏祭りのような賑わった声が聞こえないからなのか、静寂と暗闇の中、打上音だけを添えて花々が綻び散っていく光景は、どこか刹那的で胸に迫るものがあった。湖に届く前に輝く粒が消えてしまうことに、少しの寂しさを覚えるが、また音が響き新たな大輪の花が開花していく。
繰り返し繰り返し、いつか終わるその時間まで、極寒の闇に向かって進み、一瞬だけ唯一の輝きを放つ。
幻想的な夜空の花々に魅了され、二人とも言葉を交わすのを忘れていた。
しかし、突如ひゅぅっと刺すような風が吹いてランタンの灯りが揺れると、江澄が首をすくめた。
「花火、綺麗だね」
「だな。見応えがあって良いんだが、やっぱりすごく寒いな」
「阿澄は昔から特に寒がりだったからね」
「曦臣がおかしいんだろ。地元の人でもマフラーしてんのに、本当に寒くないのかよ」
曦臣は昔から真冬でもマフラーをしなかった。
多少寒くても耐えられない程ではないのだと言う。
都市部ではそういう人も珍しくはないが、流石にこの地方の寒さでもマフラーがいらないというのは希少だろう。
どういう身体の構造をしているんだと、江澄は揶揄った。
「叔父も弟も寒さには強いから、遺伝じゃないかな」
「いいよな。俺と違ってすぐに筋肉つく体質だし」
「お酒は飲めないけどね」
「そうだな。昔、洋酒入りのチョコ食べて顔真っ赤になっちゃったもんな。あの時は大変だった」
「阿澄、花火見てないと終わっちゃうよ」
曦臣の濃い蜜色の瞳が一瞬江澄に向けられた。だが、その眼差しはまたすぐに夜空へと吸い込まれていった。
白い首筋と横顔が、江澄の前に無防備に晒されている。
それを見ていた江澄は、何故か軽い目眩を覚えた。何か夢のようなあやふやな世界に入り込んだような浮遊感に、ぼんやりと目が離せなくなった。
(あれ…?前にもこんなことがあったような?曦臣の頬、触ったような気がする。何処で?いつ…?)
ふわふわした気持ちのまま、何かに導かれるように腕が上がる。無意識に手袋を脱いでいた指先が曦臣の方へ向かっていく。
そして、白い頬に指先が触れた。
(柔らかくて、すべすべしてて……あれ?やっぱり、触ったことが……)
ぱしんっ!!
一瞬何が起きたかわからなかった。
手の甲に熱さを感じた。
頬に触れられた曦臣が、江澄の手を叩き落とし、慌てて立ち上がったのだ。
丁度花火が連続して打ち上がり、辺りを照らした。
曦臣は驚きと、そして怯えた表情をしていた。
「あっ…、ごめん、阿澄。つい、びっくりしちゃって……」
「いや」
謝った曦臣は、ぎこちなく座り直した。先程までとは少し距離を置き、手が届かない場所にだ。
それを見た江澄は、ふつふつと怒りが込み上げた。
「曦臣、もう一度頬に触らせてくれないか」
「えっ?なんで」
「なんかさっき、変な感じだった。何か思い出せるかもしれない」
「そんなことはないと思うよ」
「でもっ!」
「阿澄、唇が青くなってる。ビールで冷えちゃったんだね。体を壊すと大変だから、そろそろ車に戻ろうか」
曦臣はランタンを持って立ち上がったが、江澄は考え込むように体育座りをしたままだった。
「阿澄、ほら。行こう」
促すように曦臣が呼びかけると、江澄は睨むような目をしてすっと立ち上がり、曦臣の正面に立った。
「なあ、曦臣。お前、俺に隠してることあるだろ」
「どうしたの、突然」
「再会した日から、お前ずっとおかしいんだよ。何、無理してるんだ」
「何のこと?無理なんてしてないよ」
「嘘吐くな。無理して仲良しのふりしてるってことくらい、ずっと一緒だったんだからわかる。本当は三年前にあったこと、まだ受け入れてないんだろ?俺のことが許せなくて、だから、そんな顔するんだろ」
「そんな…阿澄の勘違いだよ。それに三年前の話はもうしないでおこう。お互いのためにも」
「好きな人のことだからか」
「え?」
「俺達が喧嘩したことと、曦臣の好きな人、関係してるんだろ?俺が何かしちまって、それで曦臣はその人と一緒になれなかったのか?なあ、三年前本当は何があったんだよ。ちゃんと誤魔化さないで話せよ!」
「阿澄!」
曦臣の制止しようとする鋭い声に、江澄は一瞬身体を硬直させたが、すぐに怒りを滲ませた顔で胸倉を掴んだ。
「いつまでそんな顔してんだよ!腫物に触るように接しやがって!許してないなら許してないって言えよ!一緒にいるのが嫌ならそう言えばいいだろ!俺が自殺未遂したからって遠慮してんのか!?」
「な、なんで……そのことを」
「やっぱり知ってて黙ってたんだな!職場に電話した時にクソ上司が口を滑らせたんだよ。だけど、今はそんなことはどうでもいい。いいか、同情で俺につき合ってるんなら、そんなものはいらない。もう俺は大丈夫なんだからな!」
「確かに阿澄のことが心配だったけれど、でも幼馴染として一緒にいたかったのは本当だ。阿澄のことを許してないとか、嫌ってるとか、そんなことは絶対にない!」
「じゃあ、なんで三年前のことをそんなに隠すんだよ!なんで俺が思い出そうとするのを嫌がるんだよ!」
「それは…!言いたくない…」
「どうしてもか?」
「どうしても」
「それで曦臣は言いたいことを言わないで、本心を隠して、そんな遠慮した目で俺を見ながら好きな人を想い続けて生きていくのか!?」
「阿澄!もう、私の好きだった人のことには触れないで!知らない方がいいことだってあるって、阿澄にもわかるでしょう!?」
「っ!…そうか……ははっ……やっぱり…俺達は以前のようには戻れないんだな」
「阿澄?」
「曦臣、話しておきたいことがある。俺、転職することにしたんだ」
「転職?」
「元同僚が外国で結婚したんだ。それでパートナーと起業したから、こっちで一緒に働かないかって誘われてる」
ドーーン…!!
腹の底まで響くような轟音と共に、今宵一番大きな花火が打ち上がり、曦臣の絶望した顔が照らし出された。
「俺、今の会社辞めてそいつのところに行く。でも、勘違いするな。決めたのは曦臣のことが原因じゃない」
「なら何故っ!?」
「俺がここにいる意味はあるのかってずっと考えてた。友達は曦臣以外いないし、家族とだってあんまり連絡とってない。今の職場だって俺がいなきゃいけないってことは全然ないんだ。ここにいたら、ただ時間だけを浪費しちまう。だったらこんな俺でも必要としてくれる奴のところに行くのも悪くないって、そう思ったんだ」
次がフィナーレになるというアナウンスが流れた。
終わりの始まり、束の間の静けさ。
二人の少し乱れた呼吸がやけによく聞こえる。すぐに消えてしまう白い吐息だけが、ほんの微かな時間だけ交わっていた。
「……わかった」
「曦臣?」
「阿澄がそう望んでいるなら…応援するよ。私は何があっても阿澄の味方だから」
フィナーレの連続花火が打ち上がり始めた。
金色の糸菊のような花火が幾重にも夜空を埋め尽くし、申し訳なさと不安さから眉根を寄せた江澄の顔が露わになった。
江澄は一歩すすみ、曦臣との距離を詰めた。
そしてきゅっと結んだ口を、僅かに震わせながら開いた。
「曦臣、ごめんな」
声だけでなく瞳までもが、微かに震えている。
灰紫色の瞳に、琥珀色の輝きが映っては消えていく。
「何を謝るの」
「こんなタイミングで言うつもりじゃなかった。これじゃ、また喧嘩別れみたくなる」
「大丈夫。私は阿澄のことを嫌いになったりしないよ。絶対に」
江澄は小さく「俺もだ」と呟いた。