想・喪・葬・添 最終話別れの日は雲一つない晴天だった。
まるで天が江澄の新しい門出を祝福しているかのように、清々しい風まで吹いている。
旅行に行く人々の顔は期待で輝いているし、出張に行く人でさえ曦臣程心を曇らせている者はいないだろう。
隣には無二の親友がいるというのに、ただ一人この空間に溶け込めなかった。
何を話せばいいかわからないまま、あっという間に保安検査場の前まで着いてしまった。
「忘れ物はない?」
「ああ、見送りありがとう。向こうに着いたら連絡する」
「うん。待ってる」
「偶には帰国するから、そうしたらまた飯行こうな」
「うん。それも待ってる」
曦臣はいつも通りの穏やかな顔をしている。
しかし、仮面の様に貼り付けた笑顔であることに、江澄はとっくに気が付いていた。
「…なあ、曦臣。元気でやれよ」
曦臣が小首を傾げるのを見て、江澄は溜息を吐きながら、片手で頭を掻いた。
「自殺未遂した奴が言う言葉じゃないが、俺は曦臣が心配だ。今回のことを決めてからも、やっぱり一緒にいた方がいいのかもって少し……いや何度も悩んだ。でも、曦臣なら俺と少し会えなくても大丈夫だよな?」
「うん、大丈夫だよ。だから、私のことは心配しないで」
「そうだよな」
「ね、阿澄」
「なんだ?」
「どうか…阿澄は幸せになって」
「は?突然なんだよ。そんなの当然だろ」
怪訝な顔をしたと思ったら、少し吹き出すように笑った。
その表情を曦臣はただ見つめることしか出来なかった。
(当然…か、よかった。これで、もう阿澄は大丈夫。私がいなくても、阿澄は幸せになってくれる。私の役割はもう、これで……本当に終わり)
曦臣の身体から少しずつ力が抜けていく。同時に、どうしようもなく鼻の奥がつんとして、視界がみるみる歪んでいった。
「ど、どうした!?曦臣、泣いてるのか?」
「ううん、泣いてない」
「いや、泣いてるだろ!どうしたんだよ、いきなり…」
「どうもしないよ」
「隠し事ばっかりだな……なあ、最後にこれだけ言っておく。俺は曦臣のことが大事だ。連絡しなかった三年間だって、一日だって曦臣のこと忘れてなかったって断言できる。だって、病室に入って来る前に足音だけで曦臣だってわかったんだ」
困ったように笑う顔を、曦臣は涙を忘れて見つめた。
不思議だよな、と江澄は話を続ける。
病室の扉を開けて曦臣が入って来た時、子供のように喜びそうになって慌てて表情を取り繕ったのだと。
あんまり嬉しくて涙が出そうになったのを、恥ずかしいから咄嗟に口内を噛んで耐えたのだと、そう打ち明けた。
江澄の唇の動きに目が離せなかった。
江澄の声が耳から脳、そして身体を巡り指先まで支配していった。
少し間が空いて、江澄の唇が想いを紡ぐ。
そんなふうになるくらい…
「俺、本当はずっと曦臣を待ってた」
考えるより先に、足が動いた。
江澄のもとへ踏み出し、気がつけば温かい身体を抱き寄せ口づけていた。
理性も誓いも、今この瞬間、頭の中から吹き飛んでしまっていた。
覚えのある柔らかな感触。
心の次に柔らかな部分。
本当は心にも触れたかったと、込み上げる想いに体中が引き裂かれるように痛い。けれど、もう何もかもが止まらなかった。
「し…曦臣?」
「ごめん…本当に……ごめんなさい」
秘めておかなければいけないのに何をしているのだと、一拍置いて蘇った理性が叱りつけている。
心臓がばくばくと鳴り、脳内に様々な想いが渦巻く。
(離さなければ…
終わりにしなければ…
もう、解放してあげなければ…
わかっている…
わかっているのにっ…!)
なのに、腕の中の温かさが離れるのがどうしても辛かった。
この温もりを手放すこと以上の後悔も苦しみも、きっともう訪れはしない。
人生最大の後悔を前に、埋葬すべきだった想いが溢れ落ちていく。
「好きだった…阿澄以外を好きになることなんてもうできない程に……愛してた」
「な…んで…?じゃあ、曦臣の好きな人って…」
「私も、本当はずっと阿澄に逢いたかった。心から、阿澄を…阿澄だけを求めていた」
曦臣の視界に江澄の手が目に映った。
無理矢理に拘束してしまった手、頬に触れてくれた愛しい手、そして放してしまった手。
愛しい、愛しい、愛しくて仕方ない江澄の手。
その手を両手で包み、祈る様に顔の前に持っていく。
江澄は驚いた顔のまま、硬直しされるがままだ。
「ごめんね、阿澄」
涙がまた一つ頬をつたった。江澄は慌てた様子で濡れた頬に触り涙を拭った。
困り顔をしている江澄が何かを言おうと口を開いた、その時。
『出発便のご案内をいたします。
SO航空、ニューヨーク行き、12時30分発、88便をご利用のお客様は保安検査場をお通りになり、B2番搭乗口よりご搭乗ください』
搭乗のアナウンスが、二人を別離の現実へと連れ戻した。
曦臣はふっと息を吐き、江澄の手を一撫でしてから放した。
(阿澄が迷わず進んでいけるように、せめて最後は笑顔で送らないと)
「いってらっしゃい…元気で」
柔らかな朝の光のような笑顔、桜の花弁を揺らす様な声。
それだけを残し、曦臣は江澄に背を向け、歩き出した。
(何が何やら訳がわからない)
結局、曦臣はこちらを一度も振り返らずに去ってしまった。どうすることもできず、保安検査場を通過し待合ロビーで一呼吸してからも、頭はこんがらがったままだ。
(曦臣が俺のことを恋愛対象として好きだった)
再会してからの曦臣が変だったのはそのせいだったことだけは、何とか自分の中で整理し結論を出せた。
しかし、それは新たな疑問を無限に湧かせることになった。
(そもそも、いつから曦臣は俺のことをそういう目で見てたんだ?)
だって曦臣は自分にそんな感情を向けていたようには全く見えなかったのだ。少なくとも学生時代はないだろう。社会人になってから毎週のように会っていたが、そんな素振りはなかった。
ということは、記憶が抜けている三年前ということになるのだろうか。
(いや、今更思い出したって意味ないだろ。曦臣も言ってたじゃないか、知らない方がいいこともあるって…そうか、あれはそういうことだったのか)
もう自分は出国するのだ。
思い出せないことを気にするより、向こうでの生活を考えなければならない。
(一先ず曦臣のことは着いてから考えるとして、仕事のことを考えないと)
そう思い込もうとしているのに、どうも胸にチクチクと刺さる何かが邪魔をし、曦臣の事以外を考えることが出来ない。
(三年前、曦臣の想いに気づいた自分が曦臣を傷つけるような何かを言ったんじゃないか。それなら、お互いに連絡しなかったことにも説明がつく……いや、でもそうなると、再会した時に嫌悪感じゃなくて、ただただ嬉しかったことの説明がつかないんじゃ…)
考えても考えても、答えがわからず、どうにもすっきりしなかった。
一つ仮定を出しても、全てがカチリとあるべきところに収まってくれない気持ち悪さ。
三年前を思い出そうとしても、何も思い浮かばず、搭乗というタイムリミットはすぐそこまで迫っていた。
(クソッ!もうお手上げだ!何も思い出せない!取り合えず向こうに着いたら一度曦臣に電話しよう)
顔にかかるさらさらとした黒髪が邪魔でやや乱雑にかき上げた。
目の前に広がる窓の外はあんなにも明るいと言うのに、心は嵐の前のように澱んでいる。まるで生暖かくて気持ち悪い風が吹き荒れているように落ち着かない。
(それにしても今日は本当に綺麗に晴れてるな。あいつが出国した日もそうだった。そういえばあいつも出国前に俺に告白したよな。空港って告白したくなるような何かでもあるのか?俺は誰かを好きになったことがないから、わからないが)
ズキンッ…!
頭に何かを刺したような衝撃が走った。突然の異変に身体が硬直する。だが、一拍して呼吸が、そして次の一拍で痛覚が復活する。
突然の激痛に耐えきれず、思わず呻いてしまった。隣の席の女性がこちらを訝し気に見ている。その視線から逃れるように身体の向きを少し変え、もう一度窓の方を向くと、眉間に皺が寄った自分の顔と目が合った。
『好きになったことがない…?本当に?誰も?』
声が頭の中で響いた。誰の声なのかわからない。響く度に頭の中を刺激され、思考を纏める暇を与えられず、感情を掻き乱される。
同僚の声、自分の声。いや、曦臣の声かもしれない。
激しい頭痛で判別がつかない。どんどん痛みが酷くなり、視界がぼやけていく。
『ずっと阿澄のことが好きだったんだ』
ズキンッ…!
(もう勘弁してくれ…飛行機の時間が…)
ズキンッ…!
『お前の気持ちに応えられない。俺も好きな人がいるから』
ズキンッ…!
今度は間違いなく自分の声だ。
認識した瞬間霞が晴れ、あの日の光景が急に蘇った。
確かに「好きな人がいる」と言って断ったのだ。
(そうだ…あの日、確か展望デッキで告白されて、キスされて……好きな人?「好きな人」って誰だったんだ?かつての俺は誰を好きだったというんだ)
ズキンッ…!!
さらなる頭痛が襲った。
あまりの苦痛に、隣の女性に頼み医者を呼んでもらおうかと、本気で思う程だった。
思い出そうとする度に頭に釘でも打たれているかのように痛みが走る。その痛みに、思い出すのはやめろと理性が命じている。
(駄目だ!思い出すのはっ…曦臣のことは、また後ででも…今は、飛行機に乗らないとっ…!)
しかしそう決めようと思えば思うほどに、今思い出せなければとんでもない喪失に陥るような恐怖と焦りが湧き上がる。
未知の痛み、知らない記憶。
身体中から冷や汗が吹き出るのを感じる。
怖くて心細かった。誰かに側にいて欲しかった。
(誰か…曦臣…曦臣!!)
心の中でその名を何度も呼んだ。
そんなことをしても無駄だけれど、せめて声だけでも聞きたくて、携帯に手をかけた。
その拍子に目線を上げると、窓に映る自分と目が合った。
苦し気に眉根を寄せ、涙目になっている自分。かつて、こんな顔をしていた気がする。
(あれは、いつのことだったのだろう?
どうして、そんな表情をしていた?
その時、誰がいた?何をしていた?)
ズキンッ…!ズキンッ…!
頭痛の間隔がどんどん狭くなり、それにつられて呼吸も浅くなっていく。
少しでも気を抜けば呻き声が漏れそうで、必死に掌で口を覆った。
すると自然、唇に指が押し付けられる。
唇に何かが押し当てられる感触に、何か引っ掛かるものを感じた。
先程の口づけではない。あんな壊れ物に触るような感触ではなかった。むしろ今の押し付けられるような感じだった。
奪うような、呼吸も許してくれないような、終わりが見えない支配されるような。それなのに、行為の終わりには許しを乞うような口づけをしてきた。
その相手は…
(そうだ……曦臣に抱かれたんだ…俺がそうさせた…)
記憶の奥深くに沈んでいた光景の断片達が浮上する。抜け落ちていた記憶が集まり、今までの疑問の答えが明示されていく。
割れるように痛んだ頭は忘れていた記憶の処理に忙しく、その代わりなのか今度は身体が軋むように痛み出し、息をするのも辛い程に胸が締め付けられる。
閉じていた目を開くと、窓に映る自分がこちらに向かって目を細めた気がした。
『藍曦臣…俺がずっとずっと想い続けた人』
ついに全てを思い出した。
その目に誰よりも映っていたくて、けれど想いはいつも叶わなかったこと。それでも、せめて幼馴染として側にいたかったこと。その願いを自分の嘘が叩き壊したこと。二度と交差することのない人生に疲弊し、ついには曦臣への想いと一緒に消えようとしたこと。
(どうしてこんな大きすぎる想いを忘れてしまえたのだろう)
頬に触れた時の曦臣の顔が、脳内で映画のフィルムのように流れていく。
一度目は車内で、大好きな笑顔だった。
二度目は花火の下で、何かに怯えたような顔だった。
そして最後は、…泣いていた。
(曦臣…どうして何も言わなかった?今までどんな気持ちで俺の側にいたんだ?)
最初は自殺未遂をした幼馴染を放っておけないのだろうと思っていた。
けれど、そうではなかった。
曦臣への想いを喪失した自分を、嘘を吐いてでも守ろうとしてくれたのだ。
あれは、そういうどうしようもない優しさを持っている男だ。その優しさが己の首を絞め続け、苦しみと添うことになるとわかっていただろうに。
(これから俺がいなくなるのに…またそうやって一人で苦しむのか?)
曦臣がどんな想いで見送ったのか想像するだけで、胸が潰れるようだった。口を覆っている手が小刻みに揺れ、目の奥が熱くなる。
『幸せになって』
(それが曦臣の想いなんだな……だったら俺は…俺のすべきことは…)
⌘
江澄を乗せた飛行機が飛び立った。
さっきまで地面を走っていたのに、あっという間に青天へ飲み込まれていく。
展望デッキの柵に手をかけ、まるで渡鳥のような姿になるまで遠くに飛んでいったのを見送ると、ベンチに力なく腰かけた。
もう空を仰ぎ見る気持ちは失せ果て、コンクリートと自分の革靴をぼんやりと眺めた。
幼馴染と思っていた男に口づけをされ告白されれば、これを期に疎遠になることは十分に考えられる。もう連絡もしてもらえなくなるかもしれない。
(私は何て駄目な人間なのだろう)
最後まで『幼馴染』として見送り、死ぬまでその関係を続けるつもりだった。寄り添って生きることは叶わなくても、せめて『友人』として関わっていたかった。細い糸かもしれないが、それでも僅かな繋がりがあれば十分だと言い聞かせてきた。
…だというのに、最後の最後で失敗した。
『本当はずっと曦臣を待っていた』
あの一言に、あの笑顔に、一瞬にして虚偽の心は打ち負かされてしまった。
「本当は、私も逢いたかった…ずっと触れたかった…ずっと恋しくて、どうしようもなかった。愛していた、誰よりも……愛していたのに…」
「阿澄」と心の中で呼ぶと、コンクリートに一粒の雫が垂れて色が変わった。
また一粒、また一粒。
心の中で名をよぶたびに、コンクリートの色が変わる。
他人は藍曦臣を何でも持っている人だと言う。
家柄、資産、学歴、容姿、人望。誰もが欲し羨ましがられる資質を持ち合わせている。そういった面だけを見ている人は、選ばれた人間だと称したりもする。
だが今やそれらは何の価値もなかった。
(欲しいものはたった一つだけだったのに。それを二度も手放してしまった)
ここにいるのは、過ちを重ねた人間だ。
世界で一番愛しい人を自分の手では幸せにしてやれない、どうしようもない無力な人間だ。
何を犠牲にしてでも守りたい想いと、自分だけのものにしてしまいたい想いは、この瞬間も鬩ぎ合っている。
江澄への想いは苦しいだけで、己の平穏さを奪っていくばかりなのに、それでも捨ててしまうことはできない。
江澄がいない明日を生きるために、せめてこの想いだけでも残り香のように纏っていたかった。
だから、この痛みと生涯連れ添っていく。
(それだけが…いやそれこそが、私ができる最後の愛し方だから)
「阿澄、どうか…幸せに…」
絞り出すような声で祈った。
どれほどそうしていただろう。
すっかり染みが消えたコンクリートに影が過った。どうやら、日が傾くまで居座ってしまったらしい。
動きたくないが、いつかは帰宅しないといけない。家族が待つ家に。社会人としての自分に戻るために。
重い頭をのっそりと上げた。そうすれば灰色のコンクリートから、飛行場の景色が映る……はずだった。
しかし、顔を上げると何故か目の前に人が立っていた。
予想外のことに、強制的に目のピントが定まる。ぼんやりした視界が、くっきりとその輪郭を捉えた。
「……え?」
どうしたことだろう。
息切れした江澄が自分を見下ろしているではないか。
夢でも見ているのか、それともとうとう気が触れてしまったのか。
言葉が出ない。
身体が動かない。
瞬きすら出来ない。
そうしてただ固まっていると、雷のような怒声が降ってきた。
「こんなところにいた!なんで!?なんで電話に出ないんだよ!」
「阿澄?え……本当に?何故ここに?」
「探したんだぞ!何度電話しても出ないから、空港中を走り回って!アナウンスまでしてもらったのに!なのにっ…!」
どうやら、本物の江澄らしい。
何か忘れ物でもあったのだろうか。飛行機に乗れない程の何かがあったというのだろうか。
呆然としていると、腕を掴まれ無理矢理立たされた。そして、どんっという鈍音とともに江澄に抱きつかれた。
「あ…阿澄?」
肩口に江澄が顔を埋めているせいで、さらさらとした黒髪が頬に触れ、シャンプーに交じった江澄の香りが鼻をくすぐる。
何が起きたのかまるでわからない。
「どうしたの?大事な要件でもあった?」
「曦臣は、どうもしないのかよ!俺と離れても、何とも思わないのか!?」
「本当にどうしてしまったの、阿澄。少し落ち着こうか」
「真面目に応えろ!俺は真剣なんだ。頼むから、ちゃんと本当のことを言ってくれ。どんなことだって、俺は受け入れる。有耶無耶なまま離れ離れになるのは嫌だ」
(ああ、やはりあの告白は阿澄の邪魔になってしまった)
自分で自分の頬を思い切り叩いてやりたい。
幼馴染だと思っていた男に告白されて、動揺してしまったのだろう。申し訳ない気持ちがどっと押し寄せる。
「阿澄と離れるのは辛いよ。でも、阿澄が選んだ道を邪魔することはしたくない」
「じゃあ、俺がやっぱり行かない方を選んだら、曦臣は俺の側にいてくれるのか!?」
「それは…っ!転職したい、ここに残っても意味がないって言ったのは阿澄でしょう!」
「曦臣は、俺と一緒にいたいって思わないのか!」
「私の想いで阿澄の自由を奪うわけにいかないでしょう?向こうでもきっと良い巡り合いがある……ね、だから私は応援してるよ」
「っ…!またそうやって、俺を突き放すのか!?三年前のあの日と同じ様に!!」
「なっ…!?」
一番恐れていた事態に青褪めた。
無意識に距離を取ろうとしたのだろう、曦臣のふらついた足が後ろへ動く。しかし、江澄は逃さないとばかりに胸倉を掴み顔を近づけてきた。江澄の顔が至近距離にあり、吐息が顔にかかる。
「何が『こんな最低な男のことで思い悩まないで』だ!何が『阿澄は素晴らしい人と巡り合える』だ!曦臣に俺の何がわかるっていうんだ!!」
江澄は顔を真っ赤にしながら、あふれる涙を拭うこともせず、抱えていた想いをぶつけた。
「俺はっ…!俺はもう曦臣以外を好きになれないんだよ!ずっとそうだったんだ!どんな人と巡り会ったって、どんな場所に行ったって、そこに曦臣がいなかったら何の意味もないんだよ!曦臣がどんな人間だったとしても一緒に悩んでいたいんだよ!……曦臣の側でっ…好きな人の側で……ずっと…一緒にっ……何でわからないんだよ…っ」
江澄の激情が薄まるにつれ声は頼りなく揺れ、最後は掠れるようにやっと曦臣の耳に届いた。力が抜けそうな足になんとか力を入れ、小刻みに震える身体を支えている。その震えが少しでも落ち着けばいいと肩を抱くと、それに甘えるように江澄は曦臣の胸を力ない手で叩き、その手で縋るように曦臣の上着をくしゃりと握った。
「曦臣…頼むから隠さないで言ってくれ……俺と一緒にいるのは嫌か?」
「嫌なわけない!私だって…阿澄しかいないっ…」
「……本当に?恨んでないのか?嘘ついて曦臣の人生を狂わせたのに?許せないって思わないのか?俺さえいなければ、普通に結婚して家庭を持てたんだぞ?」
「恨むなんてあり得ない。阿澄がいなかったら私は生きてても生きる意味が何一つ見出せない…阿澄がいないなら…」
江澄の震えごと全てを飲み込みたい。
地獄に堕ちてでも、ただこの瞬間だけはこの温もりを全身で感じていたかった。
「阿澄がいないなら…私は死んだほうがましだった。阿澄を想わない日なんて一日もなかった。でも阿澄にしたことを思うと申し訳なくて…別れを切り出した私が連絡なんて出来なくて…阿澄の幸せを祈ることをよすがに生きようとした。……でも駄目なんだ…阿澄がいなければ……私には阿澄しかいないのに…」
これ以上力を込めたら江澄の背骨が折れてしまうかもしれない。意識して力を緩めようとしているのに、江澄はそんな気持ちがわからないのか、このまま死んでもいいとばかりに曦臣の身体に腕をまわして身体を密着させた。
「俺なんかでいいのか、曦臣?誰も俺たちを祝福してくれない……馬鹿みたいな嘘ついて振り回して、素直じゃなくて面倒くさい奴なんだぞ?曦臣なしじゃ生きていけないような駄目な奴なんだぞ?……曦臣の側にいたって何の役にも立たない、困らせてばっかりな奴なんだ…」
「阿澄こそいいの?こんな勝手な男を選んで後悔しないの?選んだら、もう一生……阿澄がどんなに嫌がっても離してあげられない」
江澄が顔を上げた。磨き上げたばかりのような紫水晶の瞳に曦臣が映った。
「曦臣がいい…俺にはずっと曦臣しかいない…死ぬまでずっとだ」
曦臣が江澄の手を取り口付けをした。感謝、懺悔、慕情。伝えきれない程のそれらを抱えながら、最愛の人へ誓いを立てる。
「私も、阿澄しかいない。阿澄、愛してる…死んでも、ずっと」
ようやく二つの想いが寄り添い、一つの形になった瞬間だった。青天がそれを祝福するように、眩い光が二人を照らす中、柔らかな風が吹いた。
「あっ…」
「桜の花びらだね」
「何処から舞ってきたんだ?近くに桜の木でもあるのか?」
「かもしれないね…」
もしくは、長い片想いと失恋の始まりを知っていた桜が、二人の幸せの始まりを告げに舞い降りたのかもしれない。