遍歴『一斗、もういい。もう十分だから……』
正式にパートナー契約を交わし直し、支配欲を抑えることなく兄を慈しむようになった二十歳の頃。Domの愛執を一身に受けた兄は、羞恥と苦悩の混じった表情を見せることが多くなった。
"幸せ過ぎて怖い"と、より貪欲になっていく己の第二の性を恐れ、兄は涙を流した。しかし、長年その思いを押し殺してきた一斗にとって、そんな理由で手を止められるはずもなく、一斗は己の欲求に導かれるままに兄を甘やかし続けた。
『一斗は本当に僕を甘やかすのが好きだね。いい加減嫌にならないのかい?』
甘やかされることに慣れ始めた21歳の頃。兄は度々呆れながらそう笑った。この頃の兄は一斗からの奉仕に素直に喜んでくれるものの、未だにそれを享受することに躊躇する素振りも見せた。
いつかきっと、一斗が自分に飽きる日が来る。そんな下らない怯えが滲み出た兄の疑念を掻き消すように、一斗は兄を甘やかし続けた。
「かずとー、髪乾かして」
そして、22歳を迎えた今。甘やかされることに慣れ切った兄は、一斗を振り回すかのような我がままを平然と口にする様になった。
(……ちょっと甘やかしすぎたかもしれない)
ドライヤー片手に水滴を散らしながらリビングに現れた兄を見て、一斗はソファに沈み込みつつ己の所業を省みた。
自らのSub性を歪なものと捉え続けて来た兄は、心に幾つもの傷を抱えていた。自信家で、堂々と己の道を歩む兄が、ダイナミクスに纏わる話になるといつも己を自虐し「弟を巻き込む酷いSubだ」と自嘲気味に笑った。その姿が嫌で、一斗は兄のSub性を肯定するように、言葉で、態度で、兄に語り続けて来た。
告げる度に、尽くすたびに。兄は瞳の奥を潤ませて柔く微笑んでくれた。その笑顔が見たくて、もっと笑って欲しくて。一斗は兄が少しでも己のSub性を受け入れられるように、尽くし続けて来たのだ。
「ねえ、一斗ってばあ」
その結果がこれである。あの頃の憂いを帯びた微笑みは影も形も無くなり、甘やかしてもらえると信じ切った無垢な瞳が一斗を見つめる。この自分の我がままが必ず通ると信じ切った振る舞いをたしなめ無くて良いのか疑問がよぎるが、自分から甘えられなかったあの頃と比べると、この変化も成長なのだろうと小言を飲み込む。
「……髪乾かしたり歯磨いたりするのは自分でやりたいんじゃなかったっけ」
「いつもはね。でも今日は乾かしてほしい」
「……駄目かい?」と兄は不安気な表情を浮かべシュンと眉を下げる。
(あーーー、可愛い……)
そのあざとい迄の甘え振りに、一斗の心は見事に揺れ動く。我がままに振り回されている自覚はありつつも、兄の可愛さに負けた一斗は「こっちにおいで」と呼び寄せる。すると兄はぱあっと顔を輝かせ、一斗の目の前に背を向けて座り込んだ。兄からドライヤーを手渡され、手近の電源タップにコンセントを挿す。そして水気をたっぷり含んだ髪に温風を浴びせる。
「~~~♪」
髪を乾かされている最中、兄は上機嫌で鼻歌を歌う。風の音で良く聞こえないが、兄が好きなアニメの主題歌であることは何となく聞き取れた。
(それにしても。本当に甘え上手になったなあ)
かつてはDomに己の弱みを見せる事を恐れていた兄が、今ではこうして満足げに鼻歌を歌っている。これも十年強に渡る長い年月の末に、兄が自分の事を信頼してくれた証拠なのかもしれない。そんな感慨深い思いで手を動かしていると、次第に髪の水気は消えていき、気付けば兄の髪はふんわりとした触り心地に変わっていた。
「兄貴、終わったよ」
「有難う一斗。うん、たまにはこう言う甘やかされ方も良いね」
「はいはい、良かったね。……それにしても、何で急に髪を乾かして欲しいなんて言い出したの?」
足取り軽くリビングから立ち去ろうとする兄に、一斗は尋ね損なっていた疑問を投げかける。すると兄は少し迷ったように視線を空に向け、「あまり深く考えずに聞いて欲しいんだけど」と兄にしては珍しく前置きを据えてこう話し始めた。
「高校生の頃は、一斗が僕の髪を乾かしてくれただろう?プレイを終えて、僕の意識が朦朧とした状態でさ」
軽やかな口調で語られたのはSub性に呑まれ、兄が人として振る舞えなかったあの頃の話。兄の方から当時の話を持ち出されるとは思っておらず、一斗が少し体を強張らせる。しかし兄は「あの時さ」と何て事の無い話を口にする様にこう続けた。
「髪を乾かされている時にいつも"落ち着くな"って思っていたんだ。当時はあの時間に癒しを見出す余裕は無かったけど、今になってまたされたいなって思ったんだよ」
そう言って兄は少し照れくさそうに微笑む。大事な記憶を思い起こしているかのような、柔らかく無垢な笑み。そのあまりの穏やかさに、一斗は拍子抜けしたように言葉を失う。
「……そんな理由で?」
「そうだよ。それともまさか、僕が一斗に髪を乾かして貰うには、もっと大層な理由が必要だというのかい?」
「別にそういう訳じゃないけど」
「ならいいじゃ無いか。それじゃ、僕は先に寝させてもらうよ。一斗も早く風呂に入りな」
「っあ、……」
そう言い残して兄はリビングから颯爽と立ち去ってしまった。今日はリアタイしたいアニメがあると話していたから、その為の仮眠を取りに行ったのだろう。一人残された一斗は、天井を見上げながら小さく息を吐いた。
(……兄貴、あんな風に思ってくれてたんだ)
高校生のあの頃。兄が望んだ事とはいえ、一斗の元を訪ねてくるたびにボロボロになる兄の姿を、一斗は痛ましい思いでケアをしていた。ただ兄が少しでも安らげるようにと必死だった。
その想いが、確かに兄に届いていたのだと思うと胸の奥がじんわりと熱くなる。
(もっと頼りになるDomになりたい)
当時と違い、今の兄は自由気ままに一人で笑うことが出来ると一斗自身理解している。一斗が気にかけなくとも、Domに甘やかされたくなったら兄自ら今日みたいに我儘を言ってくるのだろう。それでも、より一層気軽に、思うがままに我儘を口にし存分に甘えられる環境を作ってやりたい。そう強く思った。
(兄貴に"必要だ"と思ってもらえるDomにならなきゃ)
自分という存在が、兄にとって不可欠な物であって欲しい。そんなエゴも孕みながら、一斗はそう誓うのだった。