出られない部屋──テニス部の部室の扉を開けるとそこは何も無い真っ白な部屋だった。
真田弦一郎はぱちぱちと瞬きをすると今しがた開けたばかりの扉をもう一度閉めようとして、既にそれが消え去っていることに気付いた。
これは一体どうした事だろうと、後ろを振り返れど扉はなくただ白い壁があるだけ。
真田は祖父からもらった大事な黒いキャップを被り直すとフーっと大きく息を吐き出した。帽子の中に収まりきれなかった真直な黒髪がパサリと揺れる。
「真田副部長〜」
その時なんとも情けない声がした。声の持ち主は見ずとも分かる。
「赤也か」
真田が声のした方を見れば先程は誰も居なかった筈の部屋の壁に寄りかかり項垂れている、黒い癖っ毛の少年がいた。同じテニス部で真田の一年後輩の切原赤也だ。赤也も学校の制服を着ているところをみると、真田と同じ様に部室に入ろうとして此処に来たのだろうか。
「赤也、これはどういう事なのだ!?」
誰かのいたずらにしては扉が消えるなど不思議な点もある。しかし真田より先にいた赤也なら何か知っているかもしれないと真田は疑問を投げかけた。
赤也はため息をつくとゆらりと立ち上がった。
「真田副部長〜、アレを見てくださいよ」
アレ、と赤也が指した場所には何か文字が書いてあった。真田が近づいて見てみると『キスしないと出られない部屋』と書いてある。
「どういった意味だ?」
「どういったも何も、そのまんまっス。キスしないとここから出られないんスよ〜」
それでも余りピンときていない様子の真田に赤也が説明をする。
「俺SNSで見た事があるんスけど……これ『◯◯しないと出られない部屋』っていって……」
聞けば、何でもこういった部屋に二人、若しくは二人以上が突然閉じ込められ部屋に書いてある指示どおりに行動しなければ部屋から出られずずっと閉じ込められたままになるらしい。
赤也は真田より少し前にこの部屋に閉じ込められたようでひと通り出口が無いか探したがアリ一匹通る隙間もなく、しかもキスする相手も居ないので自分はもうここから出られないのかと嘆いていたという。
「副部長が来てくれて、その良かったつーか、なんつーか……」
良かった、と言う割にはちっとも嬉しくなさそうな引き攣った顔で赤也は言う。
「何だ?どうした?」
「だって、副部長っスよー!?俺、副部長とキスしなきゃなんないんスけど!」
来てくれるなら女子が良かったー!と叫ぶ赤也に真田は少々呆れたが、それは真田も同じだ。
「とりあえずもう一度この部屋を確かめる必要はあるな」
赤也の事だから何かを見落としている可能性もある。真田は若干涙目の赤也を放って一人で壁と向き合った──が、四方の壁の隅から隅まで見ても床や天井を確かめてみても、赤也の言っていたとおり隙間一つ見つける事は出来なかった。
どこまでも白に囲まれていると気がおかしくなりそうだ。
「どうです?何かありました?」
「いや、無かった」
「ほらぁやっぱり!」
絶望的だと言わんばかりに赤也が喚く。
真田は再び黒い帽子をしっかりと被り直した。
「赤也、本当に接吻しないと出られないのだな?」
「せっぷん?……あ、キスの事っスか。そぉっス」
真田が赤也の肩に手を置く。
「では犬に噛まれたと思って諦めるんだな」
「うわ〜っ!!最悪だ〜!!」
「往生際が悪いぞ、観念して接吻せんかぁーー!!」
嫌だ嫌だと叫ぶ赤也の両肩を逃げられぬようがっしり掴んで真田は唇を突き出す。徐々に近づく真田の顔から赤也は仰け反って暴れて、何とか離れる事に成功すると部屋の隅に逃げ込んだ。
「赤也ァ!」
「だって、だって!俺、ファーストキスなんスよ!それがこんな……!」
こめかみに青筋を立て仁王立ちする真田に赤也は僅かに震えながらも反論する。
「初めては好きな女子としてーんスよ!」
「なに!?相手はいるのか」
「いや今んとこいねぇっス……」
話にならないと真田は頭を振る。しかし嫌がる赤也を追いかけ回してキスするのも憚られた。
「わかった。好きにすれば良い。時間の無駄だ。俺は筋トレをする」
「!」
「だが見ての通りこの部屋には何もない。喉が乾いても腹が空いても我慢するしかあるまい。このままこの部屋に居ればいずれは餓死するだろうな」
赤也が消え入りそうな声で「わかってます」と言った。
「何よりここから出られなければテニスも出来ないだろう。それに部の仲間、家族や友人も心配する」
言外に貴様はそれでも良いのかと告げて、真田は赤也から少し離れた場所に移動するとウォーミングアップを始めた。
「真田副部長……」
黙々と体を動かす真田を見て赤也は先程の自分の行動を反省した。真田だってここから出られないのは嫌だろう。それはわかってる。わかってはいるのだけど、突然こんな部屋に連れてこられて真田とキスしなければならないなんて何の罰ゲームだ、とも思う。
「真田副部長は嫌じゃないんですか?」
「なんだ?」
グッ、グッ、と脚の筋を伸ばしながら真田が答える。
「副部長だって、最初は好きな人と、とか思うっしょ?」
「ああ、そんな事か」
真田は今度は両腕をクロスさせ肩のストレッチをしながら何でもない事のようにさらりと言った。
「まあ既に初めての接吻は済ませてしまったからな」
「はあ!?ウソでしょ?真田副部長が!??」
「なんだ失礼な奴め」
そういう真田の声は怒ってはいない。真田は元々理不尽な理由なしに怒ることは滅多にないのだが、これが経験者の余裕なのかと未だ呆然とする赤也に真田はストレッチする手を止めて懐かしそうに語りだした。
「あれは確か小5の頃だったろうか」
「えっ、早っ!」
「ああ、かなり情熱的に迫られてな、抱きつかれていたのと思いのほか力が強く、逃げようにも逃げられず」
「うわ〜その子スゲー積極的っスね……」
真田のファーストキス事情など聞きたくはないが、真田がこんな話をする事など滅多にないだろうし実際に続きが気になる。
赤也は複雑な気持ちで話を聞いていた。
「そう、思いっきりされたのだ。左助くんに」
「は?」
まさに開いた口が塞がらないとはこういう事をいうのだろう。赤也はしばらくポカンと開けていた口をようやく閉じると真田に質問をした。
「あのぅ、左助くんって前に真田副部長んち行った時に会ったことのある、あの左助くんっスよね?」
「そうだが?」
「えっと……今いくつでしたっけ?」
「6歳だ」
「ええーっと、そうなると当時は……」
「1、2歳だな」
「赤ちゃんじゃないっスか!」
「そうだな。あの頃は俺にもよく懐いてくれていたのでな」
義姉には勿論、祖父や母にもよく抱きついては接吻をしていたものだ、今ではすっかり生意気になってしまって、と遠い目をして真田は続けた。
赤也は思いっきり脱力すると力なく笑った。
「なんだぁ、そんなのノーカンっスよ。ノーカン。しかも相手が男ならなおさらっしょ」
「何ィ!?そうなのか!?……ならば赤也、お前も俺としたところでノーカンなのではないか?」
「ぅ゙っ」
痛いところを突かれてしまった。その上「良かったなファーストキッスが守られて」と真田自身に言ったのか赤也に言ったのかよくわからない慰めの言葉までかけられてしまう始末。
「ハイハイ、分かりましたよ!しますよ、キス。すりゃーいいんスよね!」
こうなればもうヤケクソだ。赤也は真田の真正面に立った。
「よく言った。では」
早速、と顔を近づけてくる真田に赤也は慌てて止める。
「ちょっ待ってください!その、口突き出すのはやめてくださいよ」
「ではどうすれば良いんだ?」
「もー、俺からしますんで副部長は黙って目ぇ瞑っててください」
「全く。仕方のない奴だな」
真田はやれやれと言わんばかりにため息をつくと瞼を閉じた。
「んじゃいきますよ~」
赤也は真田の両肩に手を添えてゆっくりと顔を近づけていく。赤也より真田の方が10cm程身長が高いので背伸びをしたが微妙に届かない。
「あー……副部長、ちょっとしゃがんでもらっていいっスか?」
「なんだ届かないのか」
そう言いながら真田は素直にその場にしゃがみ込む。
「あざっス」
赤也より低くなった姿勢に今度こそ、と顔を近づけたのだが。
「ぶっ、ははっ」
「ちょっと、なんで笑うんスか!」
「いやなに。お前も口を尖らせてると思ってな」
確かにそんな顔で迫られてはかなわんな、と真田は肩を震わせて笑っている。
赤也は耳がカァッと熱くなるのを感じた。
「目ぇ開けないでくださいよ!」
「わかった」
余程おかしかったのか真田は目を瞑るも、唇が弧を描いている。
赤也は恥ずかしさで顔を赤く染めながら滅多に見ることのない真田の笑顔に、いつもそんな風に笑っていれば良いのに、と考えていた。……いや、そんな事より今は。
赤也はもう一度真田の肩に手を添える。帽子と鼻にぶつからないよう顔を少し傾けて、口を尖らせないように注意しながら、ついでに息を止めて真田と唇をくっつけた。
「……副部長、しましたよ」
やはり少し恥ずかしくて真田の顔を見る事が出来ず、ぶっきらぼうな言い方になってしまう。だから赤也は気が付かなかった。真田もまた赤也の顔を見られずにいた事を。
「む、これで部屋から出られるのか?」
「だと思います。……あっ、あそこにドアが!」
「おおっ!やったな!」
真田と赤也は扉に向かって走り寄るとドアノブを掴んで勢いよく開けた──
「うぃーっす」
テニス部のレギュラーメンバーの声が聞こえた。着替えをしている部員の姿も見える。
「部室?」
呟く赤也に「二人ともなーにボサっと突っ立ってんだ?早く着替えろよ」と声をかけながら次々とテニスコートに向かっていく部員達。真田も赤也も互いに目を合わせた。
「どうやら戻ってこれたようだな」
「あーっ!見てくださいよ!時間もまだ4時前っスよ!」
「と言う事は、あの部屋に入ってからそんなに時間が過ぎてないという事か?」
二人とも変な夢を見ていたのではないかと疑ったが、互いに話が合っている事を考えてもあれは現実の出来事だったのだろうと思う。きっと時間の概念などない不思議な空間に取り込まれてしまったのだ、と何とか納得させて部活に参加する為急いでロッカーを開け着替えを始めた。
「ではな赤也、俺は先に行くぞ」
「うわっ、早くないっスか!?」
ささっと着替えを済ませた真田が先に部室を出ていく。
次いで着替えを終えた赤也もすぐに部室を出ようとして、ふと振り返り真田のロッカーを見つめた。
「……すげー柔らかかったな……」
無意識に指で自分の唇に触れ、もう一度してみたい、と考えたところで慌てて頭をブルブルっと振って両頬をパンパンと叩く。
「うっし、練習行くか!」
赤也は誰にともなく気合を入れてそう言うと真田の後を追うように部室を後にした。
終