出られない部屋2 時刻は午後8時55分。
切原赤也は悩んでいた。大好きなゲームをする気にもなれず、かといって宿題に手を着ける事もなく自室のベッドでゴロリと仰向けに寝転び白い天井を見つめていた。
白──白いあの部屋。
「……◯◯しないと出られない部屋……か」
ただの噂か、誰かの創った話程度に思っていた部屋が実在していた事には驚いたが、今赤也の頭の大半を占めているのは、赤也の通う立海大付属中学校のテニス部の副部長である真田弦一郎と、先日あの不思議な部屋の中でキスをしてしまった事だ。思い出すと自然と手が唇に触れてしまう。
端的に言えば、またキスをしたくて堪らないというのが赤也の悩みだった。
中学2年生。初めてのキスは瑞々しい果実のように甘く魅惑的で、もう一度、いや出来ればこの先何度でも味わいたいと思えるような素晴らしい体験だった。
相手が真田である事を除けば。
「いや、だからあれはノーカンだって!」
と言い訳めいたところで初めてのキスには変わりない。もういっそのこと誰でも良いと思わないでもなかったが、流石に理性がそれを押し止めた。キスは普通に好きな人としたい。
ただ……もしあの時部屋に来たのが全く会ったことのない知らない女子や男だったり、それどころか顔見知りだったとしても今と同じような気持ちになっていたのだろうか、との疑問も出る。
もう一度味わいたいと思っているあの温かくて柔らかな感触が真田の唇だったから、という可能性が全くないとは言えなかった。なにしろ比べる対象がいないのだ。
そこで赤也はそれまで特に気にもしていなかった他人の唇を観察してみたところ色んな形がある事に気が付いた。それは男女関係なく小さいもの、大きいもの、薄いもの、厚いもの、中には上唇は薄く下唇はふっくらしているものなど、挙げたらきりがないくらいの形が存在していたのだった。
それから真田の唇はどうだっただろうとテニス部の練習の合間に遠くからさり気なく真田を見ていて改めて気が付いた事があった。
部長である幸村が長い闘病生活を経て部活に戻ってきてからというもの、真田は肩の荷が降りたのか笑う事が増えていた。それに伴い部内の雰囲気も以前より随分と柔らかくなった、と思う。
観察をしているとたまに真田と目が合う事もあったが少々気まずい赤也とは逆に、真田は何故か満足気に頷いてきて赤也にはさっぱり意味が分からなかった。
そういえば最近は真田に怒られる事も少なくなったような気がする。
まさかとは思うが、キスをしてから好感度が上がったのだろうか。困った事に赤也にはそれ位しか理由が思い当たらなかった。なら真田にもう一度キスがしたいとお願いすれば案外簡単に出来るのでは……しかし冗談は通じない相手だ。本気になられても……いやいやいや、そもそも何故また真田とキスをしようという流れになってるのか。思考がぐるぐると廻る。
「あーっ!クソッ!」
赤也は大声で叫んで癖のある髪をわしゃわしゃと掻きむしり、うつ伏せになると枕にボフッと顔を埋めた。
「ゔ〜〜〜〜っ」
欲求不満な夜は続く──
──と思われたが。
「え?なんで」
枕から顔を上げると、そこは何もない真っ白な部屋の中だった。
いつの間にか赤也の家のベッドも枕も無くなっている。ガバっと勢いよくその場で立ち上がった。
「赤也か?」
その声に振り向けばそこには薄墨色の寝間着を身につけた真田が立っていた。
「真田副部長!?」
「今回はどうなっているのだ?」
「いや、それが俺も今来たばっかりで……」
「そうか……」
真田はふあっと欠伸をして眠そうに目を擦っている。
「あ、もしかして寝るところでした?」
「うむ。9時になったのでな、布団に入りいざ寝ようとしたら再びここに来ていたのだ」
前回は部室に入ろうとしてドアを開けた所でこの白い部屋に来たのでてっきり『ドアを開ける』行為が異次元に迷い込む切っ掛けになっていたのではないかと思っていたがどうやら関係ないらしい。それにしても眠くて頭が回らないのか早くも真田はこの状況を受け入れている。
「んじゃ俺、今回はなんて書いてあるか見て来るっス」
「ん、そうか。では頼んだ」
赤也は、もしかすると再びキスが出来るのではないかと逸る気持ちを抑えて部屋を眺める。それ程広くはない部屋の中、すぐに文字が書かれている箇所を見つけた。
「えっと……『30分ハグをしないと出られない部屋』……?」
「ふむ。抱擁か」
「……は」
期待していただけに赤也の落ち込みようは相当なものだった。
「抱擁ならば試合後に健闘を称え合いする事も多い。先日のものより簡単ではないか?」
「ぐっ……」
「赤也?ぼんやりしてどうした?」
「あっ……いや、何でもねっス」
「お前も眠いのか?俺も眠い。さっさと済ませてしまおう」
「そっスね……」
打ちひしがれていたが、よく考えれば相手は真田なのだからこれで良かったのだと赤也はなんとか気持ちを持ち直した。そうとなればちゃっちゃと終わらせてしまうに限る。
「じゃあ」
お互いに向かい合うと腕を広げぎゅっと抱きしめ合った。真田の肩の上に少し上を向けた赤也の顔が乗る。真田の寝間着からいつか訪れた事のある真田の家の匂いがする。落ち着く匂いだと赤也は思った。でもほんのちょっとソワソワもしてしまう。
「……」
「……」
しばらくそのままの姿勢でいたが長時間この体勢は案外キツいかもしれない。
「そういえば30分はどのように計るのだ?」
「あ!どうなんスかね」
二人ともきょろきょろと周りを見たところ、先程の文字が書いてある場所の横に数字が現れていた。『00:02:37』とある。右側の数字が刻々と増えていくのをみるとハグしてる時間を計っているようだ。
「あれっスね」
「そのようだな」
赤也が数字に向かって指を差すと真田から僅かに体が離れた。途端に数字が止まり、次の瞬間には全て0になってしまった。
「はぁっ!?これってやり直しって事かよ!?」
「……少しでも離れると駄目なようだな」
ふわぁと欠伸をしながら真田が言う。
「ちょ、真田副部長、立ったまま寝ないでくださいよ?」
「む、気を付けよう……」
だが真田は大分眠そうだ。このまま真田に寄りかかられては赤也には支えきれないかもしれない。
「真田副部長、座ってやりましょうよ。その方が楽じゃないスか?」
「ん?そうだな……」
真田は2人から数字が見える位置に座りその場であぐらをかく。
「んじゃ失礼します……」
赤也は真田に向かい合い真田の足の上に座ると真田の肩の上から腕を回し抱きしめた。壁の数字が動き出す。密着度は増してしまったが目線は真田より赤也の方が数センチ高くなった。これなら立ったままでいた時より体勢は苦しくないし、万が一真田が寝てしまっても耐えられそうだ。ただ先程とは逆に真田の顔が赤也の肩の辺りにある。
「真田副部長、苦しくないっスか?」
「まあ、30分程度ならどうにかなるだろう」
真田も赤也の背中に腕を回した。先程より真田の体温が熱く感じる。
「……」
「……」
暫く無言が続いた。真田は寝てしまったのだろうか。赤也はそっと真田を窺い見る。そういえば真田は学校にいる時は殆ど帽子をかぶっているのでこの角度から真田の顔を見るのはレアかもしれない。
まず真田の黒髪から覗く耳が見えた。それから下ろされた前髪の隙間からキリリとした眉毛、高い鼻筋が目に入り、赤也の唇に触れてしまいそうなその頬の近さに驚いた。もう少し下を向けば真田の唇が見えるはずなのだが赤也の肩に隠れて見ることが出来ない。どうにか見えないものかと赤也は腕の位置を多少ずらしてみる。
真田は目を伏せていたが赤也が僅かに動いた事でゆっくりと瞼を開いた。赤也は真田に見つかる前に急いで顔を前に向き直す。
「……しかしこうしていると前に左助くんを抱っこしていた事を思い出すな」
ふいに真田が話し出した。
「ちょ、また左助くんっスか?あんなガキ……じゃなくて小さな子と一緒にしないでくださいよ」
前回も真田の甥の話が出たばかりでまた比べられるのかと赤也がむくれた。
「ふっ、そうだな。お前の方がだいぶ体が大きい」
「えぇ〜?体の大きさだけっスか?」
「寧ろ、左助くんの方がお前よりしっかりしている。……だが近頃はお前も2年生として下級生の手本となる自覚がようやく出てきたか。朝練にも遅刻せず練習にも気合が入っている。感心なことだ」
「あー……」
そういえば赤也はこのところ夜にゲームをせず考え事をしながら寝落ちてるお陰で、いつもより早く起きられるようになり朝練に遅刻する事がなくなっていた。また、テニスをしている時は集中して余計なことを考えなくて済む為、傍からは以前より練習にも熱が入っているように見えたのだろう。それと同時に真田と目が合った時に満足そうに頷いていた理由もわかった。考えていたのとは違っていたが確かに好感度は上がっていたようで、これは勘違いしてもらったままの方が良さそうだ、と赤也の頭の中で打算が働く。
「へへっ!そうっスよ!それにアンタらは俺がぜってぇ倒すんで!負けてらんねえっス!!」
「おい、あまり耳元で大声を出すな」
真田が顔をしかめる。赤也は慌てて真田に向かって謝った。
「す、すんません……」
「……っ!耳元で喋るな」
「ええ〜っ?今度は小さい声で言ったのに……ってもしかして」
赤也はにやりと笑うと真田の耳に向けてふうっと息を吹いた。
「やめんかっ!」
真田が赤也の肩口に顔をうずめる。赤也がお構いなしに真田の耳に息を吹きかけ続けると真田は必死に顔を背けた。
「……っん、こそばゆい、やめろっ」
だがお互いに抱き合っているので真田が赤也の息から逃れるのにも限界があった。赤也が面白がってしつこく真田の耳を狙ってくる事にとうとう我慢出来なくなったのか真田が赤也の背中に回していた腕を離し、赤也の肩を押そうともがいた。
「おっ、と。離れないでください、よ」
赤也が慌てて真田の体を強く引き寄せる。が、真田の力の方が強くバランスを崩してそのまま真田の上に覆いかぶさるように倒れてしまった。赤也の腕や手が床と真田の間に押し潰されて少し痛い。だが顔面を打ち付けなかっただけでもマシだろう。
「いてて……、すんません調子に乗り過ぎました……」
「はぁ……はぁ……全く貴様という奴は……」
「あっ真田副部長、頭ぶつけてないっスか?」
「……お前の手があったので直撃は免れたがな」
と言うことは多少は打ったのかもしれない。赤也はもう一度謝ろうと、腕を解き両手を床に付けて起き上がろうとしたのだが。
「馬鹿者、離れてはならん」
今度は真田が赤也の背中に回した腕にきゅっと力を込めた。
「お前がさっきそう言ったばかりではないか」
「あ……」
「それにもうすぐで30分だ。大人しくしていろ」
「……っス」
赤也は少し顔を動かして壁の数字を確認した。あと5分程だ。赤也は体勢を整えるため片腕を真田の首と床の隙間に回し入れ、もう片方を真田の頭の上に添えるように置くと、真田が言うように大人しくする事にした。
「……」
「……」
無言でいると急に時が経つのが遅くなったような気がしてくる。赤也は手持ち無沙汰でつい指に触れた真田の髪の毛を弄ってしまった。すくい取った髪は赤也の指の間を滑るようにパサリと落ちていく。
「真田副部長の髪、真っ直ぐでいいな〜」
「……俺はお前の髪も悪くないと思っているが……」
「マジっスか?結構整えるの大変なんスよ」
「……そうか」
真田が赤也の背中に回していた腕を片方解いて赤也の頭を撫でるように髪に触れる。
「だがお前らしくて良いと思うぞ……」
「そ、そっスか……?」
そう言われると悪い気はしない。頭を撫でられている事もあって赤也は途端に上機嫌になる。しばらく撫でられるままにしていたが真田の手の動きが段々と遅くなり、そのうちぱたりと止まった。
そういえば時間は、と赤也が壁を見ると『00:32:56』となっていた。
「副部長、30分過ぎましたよ」
「ん……」
赤也が体を起こして真田を見ると真田の目は閉じていた。赤也の声に反応し一瞬瞼を開いて赤也の顔を確認したように思えたが、すぐにまた閉じてしまった。
ずっと眠そうにしていたのでとうとう限界を迎えてしまったのだろう。しかし、真田をこのまま寝かせておくわけにもいかない。
「真田副部長、起きてください」
「……」
赤也は真田の肩を揺すったが一向に起きる気配がない。
「起きてくださいよ……」
赤也のすぐ目の前には真田の顔があり視線を落とすとそこには血色の良い弾力のありそうな唇があった。それは赤也を誘うように薄っすらと開いている。赤也の喉がなる。
「真田副部長……起きないと……」
起きないと、キスしてしまいそうだ。
ずっと欲しいと思っていたものが目の前にあるのに我慢する事など赤也にはとても出来そうになかった。真田は眠っている。絶好のチャンスではないか。
理性なんてものはとっくに何処かへ飛んでいった。赤也は真田に吸い寄せられるように顔を近づける。もう焦点が合わない。赤也もそっと目を瞑る。
「真田副部長……」
赤也の唇が真田の唇に重な──
「んぶっ!?」
赤也が顔を上げると目の前には枕があった。体を起こして周りを見渡すとそこは赤也の自室でベッドの上だった。
「へ?……ぇ゙っ!?もしかして今の夢!!?」
部屋の明かりはいつものように付けっぱなしだった。赤也はベッドサイドの時計を見る。時刻は午前4時を指していた。
まだ4時。しかし真田が起きる頃だろう。赤也は二度寝しても良いかと考えたが妙に頭も体もすっきりしている。カーテンの隙間から見える空は青く今日も1日絶好のテニス日和になるだろう。こんな日は誰よりも早く朝練に参加するのも良いかもしれない。
赤也はぐぐっと伸びをした。
それに。
きっとさっきのは夢じゃない。そんな気がしている。真田に会ったらちゃんと確認しよう。赤也はそう決めてベッドから勢いよく降りた。
終