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    フィガロに軟禁(精神的に)されている賢者様のお話

    #フィガ晶♂

    真夏の夜の夢「起きて……起きてよ、賢者様」

    優しく肩を揺さぶられて、卓袱台に突っ伏していた晶はゆっくりと面を上げた。
    重いまぶたをやっとのことで持ち上げて、晶は視界に映り込んだ人物の顔をぼんやりと見つめる。
    晶の視線を受け止めて、フィガロが照れ臭そうに頬をかく。

    「どうしたんだい?そんなに見つめて。俺の顔に何かついてる?」
    「フィガ、ロ…………?」

    寝起きのため喉は乾燥していて、晶が発した声はひどくかすれていた。
    晶が名前を呼ぶとフィガロの口元がほころんだ。眼差しを細めて、眩しいものを見るように、愛しいものを見るように、やわらかく笑み崩れる。

    「はい、賢者様のフィガロですよ」

    とても恥ずかしい台詞をさらりと吐いてみせるフィガロに、晶は眉を潜めて首を傾げる。――何かが変だ。

    「どうしてフィガロがここに? あなたがここにいるのはおかし、い?」

    言いさして晶はぱちぱちと瞬きをした。胸中に困惑と戸惑いが広がる。

    (どうして俺、フィガロがここにいるのがおかしいなんて思うんだ?)

    何もおかしいことなんてないはずなのに。
    一瞬だけ生まれた違和感は、あっという間にあやふやになって正体をつかめなくなってしまった。
    まるで陽光に照らされたお化けがさっと透明になって、見えなくなってしまったかのように。
    晶が自分の心の動きについていけないでいると、フィガロは呆れたような物言いで「やだなあ」とつぶやいた。

    「俺がここにいるのは、賢者様のおばあ様からきみの世話を頼まれたからだよ。あの子は昼頃まで目を覚さないだろうから、起こして昼食を食べさせてやってくれ、って」
    「っ…………!」

    おばあ様、とフィガロが口にした瞬間、晶の脳裏にぶわりと過去の記憶があふれた。走馬灯のように色々な映像が再生されては消えていく。

    (ああ――そうだった)

    ここに、田舎にある祖母の家にフィガロがいるのは、ちっともおかしくない。なぜなら彼をこの家に連れてきたのはほかの誰でもない自分なのだから。
    フィガロは晶が通っている大学の先輩で、海外からやって来た留学生だ。流暢な日本語を操り、容姿端麗。いつも笑みを絶やさず、やわらかな物腰で周囲の人々に接する彼は瞬く間に人気者になった。
    誰もがフィガロと友達になりたがり、プライベートな時間を共有したがる。
    そんなフィガロと晶はゼミを通して親しくなった。
    文学部歴史文化学科に籍を置く3年生と4年生はすべからく、どこかのゼミに入ることになっている。
    晶は日本の食文化と地域の関わりを研究テーマとするゼミに所属していて、そこにあとから加わったのがフィガロだった。
    今時の若者にしては珍しく日本の古い慣習に精通しており、郷土料理の再現に勤しむ晶の姿がフィガロの目には物珍しく映ったようだった。

    「今度、きみの手料理を食べさせてほしいな」

    ある日、フィガロのほうからそんなふうにいきなり声をかけられて、二人の交流は始まった。
    合う度に日本の逸話や民話の知識を披露していたら、フィガロは言った。「きみは物語に出てくる賢者のようだね」と。

    「からかわないでくださいよ、俺はそんな博識じゃありません」

    賢者だなんてあまりにも恐れ多い。自分はしがない学生に過ぎず、そんな大した人物ではない。晶は遠回しに賢者と呼ぶのはやめてくれと訴えたが、フィガロは聞く耳を持たなかった。
    人は慣れる生き物だ。何度も呼ばれる内にいつの間にか恥ずかしさは消え、晶はすっかり賢者様というニックネームを受け入れてしまった。
    何を気に入ったのか知らないが、フィガロは晶の姿を見かけると集団の輪から抜け出して、近付いてくるようになった。
    何も用事がなくても一緒にいる時間が増えていき、今ではすっかり周囲からニコイチ扱いをされている。
    夏休みを目前に控え、フィガロは故郷に里帰りするものとばかり思っていた晶だったが、彼にはそんなつもりは更々なかったらしい。
    予定を訊かれ、夏休みはフィールドワークも兼ねて田舎にある祖母の家に滞在するつもりだと晶が話したところ、フィガロは腹の底が読めない謎めいた微笑を浮べてこうのたまった。「賢者様、俺も一緒に行っていい?」と。
    フィガロは昔ながらの民家でいかにも日本らしい夏休みを体験してみたいのだと晶に切々と訴えてきた。
    そういうことなら、特に断る理由もない。せっかく遠い異国の地からはるばる日本に来てくれたのだから、できる限りは彼の望みを叶える手助けをしたい。そして日本のいいところをたくさん知ってくれたら嬉しい。
    晶は祖母にコンタクトを取り、了承を得て、夏休みの間はフィガロと一緒に祖母の家に世話になることを決めたのだった。
    レポート課題や期末テストの類を必死にこなし、夏休み初日に晶はフィガロを連れて意気揚々と新幹線に乗り込み、のどかな田園風景に囲まれたこの家に辿り着いたのだった。

    「もしかして賢者様は俺を追い出したいのかな? だからそんな意地悪を言うんでしょう?」

    フィガロが眉を下げて悲しそうな顔をする。まるで捨てられた子犬のような悲愴感あふれる眼差しを向けられ、晶は慌てて首を横に振った。

    「ち、違います! ちょっと寝ぼけてしまっただけなんです!」
    「いくら寝起きだからって、俺がここにいる理由を忘れたりしないでしょう普通は。悲しいなあ。賢者様と俺は仲良しだと思っていたのに」
    「うぐ……本当にすみません。でもフィガロは俺の大切な友達ですよ。そうじゃなかったら、フィガロをばあちゃんの家に連れて来たりはしません。だから機嫌を直してください。ね?」

    卓袱台から身を起こした晶は畳に片膝をついて自分を見下ろしているフィガロにずいっと顔を近付けた。フィガロのほうが背丈が大きいので、自然と上目遣いになる。するとフィガロの瞳がわずかに大きくなったような気がした。

    「賢者様」
    「はい、なんでしょう」
    「それ、わざとやってるの? それとも無意識?」
    「…………何がですか?」
    「うーん、天然。まあいいや。俺は怒ってないよ。さっきのは冗談さ。賢者様の困り顔はかわいいからつい」
    「またそういうことを……」

    外国人だからなのか。それとも元からの性格なのか。フィガロはしょっちゅう恥ずかしげもなく晶に歯の浮くような台詞を言ってくる。別に気を悪くしたりはしないけれど、嬉しくもない。
    甘くてふわふわしている誉め言葉は彼女に言ってあげればいいのに、と晶は常々思っている。けれどフィガロは恋愛には興味がないようで、自分に告白してくる女の子を片っ端から袖にしているのだ。

    「かわいいなんて言われても俺は嬉しくありません。褒めたって何も出てこないですよ」
    「そうかい? 何かは出てくるんじゃないかな?」
    「……たとえば?」
    「美味しいお昼ご飯とか」

    フィガロがにこにこしながら言う。途端、グギュルルルと晶の腹の虫が盛大に鳴いた。なるほど。確かにこれは食事を出さざるをえない。
    晶は両手をあげて降参の意を示した。



    フィガロに急かされるまま台所に立った晶は、少しだけ考え込みすったてうどんを作ることにした。
    すったてうどんとは、胡麻や味噌などの調味料と、大葉、胡瓜、茗荷などの夏野菜を混ぜてすり潰し、冷水で溶いてつけ汁を作り、うどんを浸して食べる郷土料理だ。
    野菜は近所に住んでいる人がくれた採れ立てのものを使う。
    すり鉢を抱えてゴリゴリとすりこぎを動かしながら、コンロでお湯を沸騰させてうどんを煮る。
    ゴリゴリ、グツグツ、ゴリゴリ、グツグツ。
    どこか懐かしい、優しくてまろい音が鼓膜を震わせる。楽しい。この音を聞くのは久しぶりだ。

    「きみがそんなに楽しそうにしている姿、初めて見たなあ」

    昼食を作るのに集中していた晶は、フィガロが自嘲の笑みを浮かべてつぶやきを漏らしたのには気付かなかった。
    すったてうどんは30分もかからずに出来上がった。二人分の椀につけ汁をそそいで、うどんは大皿の上にざるを敷いて盛り付ける。
    卓袱台を挟んでフィガロと向い合わせになって座る。二人は手を合わせて声を揃えた。

    「いただきます」
    「いただきます」

    箸を右手に持ち、左手を椀に添えて、うどんをすくう。汁に麺をつけて口に含む。うん、美味しい。上出来だ。晶は口をもぐもぐ動かしながら胸の内で自画自賛した。
    口の中にあるものを飲み込んで、そっと正面にいるフィガロの顔を盗み見る。さて、彼はどのような反応をするだろう。
    わずかな苦みと酸味が味噌に溶け、複雑で豊かな味わいになっているうどんを晶は美味しいと感じるけれど、フィガロも同じとは限らない。

    (すったてうどんが駄目だったら、別のものを作ってあげないと)

    さて冷蔵庫には他にどのような具材が残っていただろうか。晶が記憶を反芻していると、視界の端でフィガロの喉仏が上下した。ごくん、と最初の一口を飲み込んだフィガロがうっとりと目を細める。口の端が持ち上がって、彼は星がきらめくように笑ってみせた。

    「うーん美味しい……。賢者様は料理を作るのが本当に上手だね」
    「よかった」

    フィガロから褒められて晶はほっと胸を撫で下ろした。ズズ、とうどんをすすり、口内を空にしてから晶は言う。

    「口に合わなかったらどうしようかと思いました」
    「賢者様の料理ならなんでも喜んでいただくよ」
    「いや、それはさすがに言い過ぎじゃないですか? フィガロにだって好き嫌いはあるでしょう?」
    「まあ、そうだけど」
    「そういえば聞いたことなかったですけど、フィガロが一番好きな料理はなんですか?」
    「うーん、一番と聞かれると迷ってしまうね……。あっ、以前にきみが食べさせてくれた鮮魚のカルパッチョは美味しかったよ」
    「鮮魚のカルパッチョ……ですか?」
    「そう」

    晶はフイガロを見つめて途方に暮れた。なんとも言えずじっと黙り込んでいると、フィガロが「ん?」と首を傾げた。

    「俺、フィガロにカルパッチョ作ったことありましたっけ…………?」

    色々と日本の家庭料理を振る舞った記憶はあるけれど、フィガロにカルパッチョを作ったことはないはずだ。もしかして、自分が忘れてしまっているだけなのだろうか。フィガロがあまりにもはっきり「食べさせてくれた」と言ったので、晶は当惑せざるをえなかった。
    澱がゆっくりと降り積もって、心の底が濁っていくような感覚を晶は覚えた。心細くて、頼りない。何かが決定的に間違っている。そんな気がする。

    「…………あー、うん、そうか、そうだね、うん」

    晶が不安を隠せないでいると、フィガロは顎に手を当てて黙考する素振りを見せたのちに「ごめんごめん」と謝罪をしてきた。

    「俺の記憶違いだ。俺にカルパッチョを作ってくれたのは、賢者様じゃなくて別の人だった」
    「そう、ですか」
    「なんだか情けない顔をしているねえ賢者様。もしかして自分が若年性認知症なんじゃないかって疑っちゃった?」
    「そこまでは思ってないですけど…………ここに来てからすごく変な感じなんです。とても大切なことを忘れてしまっているような」
    「…………へえ」

    ――その声を聞いた瞬間、背筋がぞくりと震えて、肌が粟立った。

    「フィガ、ロ?」

    晶は顔を青くてフィガロを見る。およそフィガロらしからぬ凍てついた刃のように冷たく鋭い声が彼の口からこぼれた事実が信じられなくて、晶は自分の耳を疑った。
    けれど。
    フィガロの表情を見て、聞き間違いではないのだと晶は悟った。フィガロはさきほど彼がこぼした声音と同じくらい、恐ろしく温度のない表情で晶を見つめていた。
    口元は笑っているけれど、瞳の奥は笑っていない。酷薄で残忍な光をたたえた眼差しが晶を射抜く。
    怖い、と思った。いつも優しくて穏やかなフィガロはここにはいない。まるで人が変わってしまったかのようで、晶は恐ろしくてたまらなかった。

    「あなたは、誰……?」

    歯の根をがたがた鳴らしながら晶はなけなしの勇気をかき集めて尋ねる。彼は醒めた目をしたまま唇を動かした。

    「ポッシデオ」
    「あっ…………」

    フィガロが小さくつぶやいた途端、頭がずんと重たくなった。感覚が鈍くなって、思考がゆっくりと麻痺していく。頭にもやがかかり、澱が沈殿して、何もかもを覆い尽くす。

    「俺はフィガロ・ガルシア。ただの留学生ですよ、賢者様」
    「ただの、留学生」
    「そしてきみはただの大学生」
    「ただの……大学生?」
    「その通り。そしてここはきみの祖母宅。俺はフィールドワークをするために、きみにくっついてこの家にやって来た。きみにとって大切なのは、俺とここで夏休みを満喫すること。そうだろう?」

    噛んで含めるように諭されて、晶はぼんやりしながら頷いた。そうだ。フィガロの言う通りだ。自分たちは昔ながらの夏を楽しむために、何もない田舎にやって来た。何も忘れてなんかいないし、ほかにするべきこともない。
    何もない。何も。

    「ほら、うどんを食べてしまわないとどんどん乾いてしまうよ」

    パチンと指を鳴らされて、晶はハッと我に返った。さっきまで何かを考えていたような気がするのだけれど、すっかり忘れてしまった。

    「やっぱり賢者様の手作りは格別に美味しいね。今夜の夕食も期待してるよ」

    ズルズルとうどんをすすりながら、フィガロが茶目っ気たっぷりに片目をつむる。晶はにこりと笑って「頑張ります」と答えた。
    畑仕事に出ている祖母はまだ帰ってこず。縁側に吊るしてある風鈴がチリンチリンと涼やかな音を奏でた。



    少し遅めの昼食を終えたあと、晶とフィガロは居間でひたすらだらだらした。甲子園を見ながらかき氷を作って食べ、サマーウォーズを見て感想を語り合った。
    日が傾いて外の気温が下がってくると、散歩がてら近くの無人販売所まで食料の買い出しに行った。
    田んぼに囲まれたあぜ道を歩いていると、カナカナカナ……とどこか遠くでヒグラシが鳴いているのが聞こえた。赤トンボが目の前をすーっと横切っていく。赤トンボの行方を目で追いながら、晶はフィガロに話しかけた。

    「そういえば、大学の友達に赤トンボを一度も見たことないって人がいるんですよね」
    「その子は都会育ちなのかな?」
    「ずっと新宿に住んでるらしいです。だから、タヌキとかカワセミとかも写真でしか知らないって。ネズミには何度も遭遇するけどって、笑ってました」
    「ああ、まあ、そうだよね。ネズミは餌の多いところに集まってくる生き物だから」
    「子供時代に川でザリガニ釣りをしたり、ホタルを見に行ったり、セミを捕ったり。自分が当たり前だと思っていたことが、そうじゃなかったってことに話をして気付きました。だから今フィガロがここにいてくれるのが、俺はすごく嬉しいんです」
    「…………」
    「ばあちゃんの家で俺は思い出っていう宝物をたくさんもらいました。だから今度は俺がフィガロにあげる番です。したいことがあったら、なんでも言ってくださいね」

    フィガロを見上げて晶は微笑む。燃えるような夕焼けの中、彼は切なげに眉根を寄せた。笑っているはずなのに、なんだか今にも泣き出してしまいそうだ。

    「手を、」
    「はい?」
    「家に着くまで手をつないでほしいな。……離さないで。何があっても、決して」

    吐息のようにささやきがこぼれる。体は自然と動いていた。フィガロの左手をやわくつかむ。汗ばんだ手の平がしっかりとくっついて、熱いはずなのに、じんわりと温もりが伝わってくるのが心地よかった。
    手をつないだまま二人は静かに帰路を歩いた。
    日が落ちて辺りがすっかり暗くなると、晶はぼたん鍋を作った。夕食に祖母の姿はなかった。晶とフィガロが帰宅すると、卓袱台に今日は疲れてしまったので先に寝ます、と書き置きが残してあった。

    「いやあ、真夏に食べるお鍋は最高だねえ。汗をかけばかくほど、体から毒素が出ていくのがわかるよ」

    熱々のイノシシ肉をはふはふ頬張りながら、いかにも日本人らしいことを言うフィガロに晶は思わず噴き出してしまった。
    夕食を終えてしまえば、あとは風呂に入って寝るだけだ。晶はホストであるので、快く一番風呂をフィガロに譲ることにした。

    「悪いねえ、賢者様。なるべく早く済ませるから」
    「いえいえ。俺のことは気にせず、ゆっくり入ってきてください」

    風呂場に消えていくフィガロの背中を見送って、晶はふう、と嘆息した。さて、すっかり手持無沙汰になってしまった。フィガロが戻ってくるまで、何をして過ごそうか。
    居間の畳に寝転び、二つ折りにした座布団を枕にしてスマフォをのぞく。メッセンジャーを介して届いていたメッセージを一つずつ確認していると、ピコン、と軽やかな音と共に新着のメッセージが表示される。差出人はフィガロだった。

    ――シャンプーが切れてるみたいなんだけど、どうしたらいいかな?

    メッセージを読んで、晶は「あ」と声を漏らした。そうだった。朝方気付いて補充しようと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。

    ――今そっちに行きます。

    手早く返信を打って晶はさっと立ち上がった。台所に赴き、床下収納の蓋を持ち上げて、ぽっかり空いた穴に手を突っ込む。

    「あった、あった」

    調味料や保存食、カセットコンロのガス缶などがぎっしりと詰まっている中から、詰め替え用シャンプーを発見して拾い上げる。
    つるつるした手触りの袋をしっかりと抱き締めて、晶は風呂場へと向かった。

    「フィガロ、入っても大丈夫ですか?」

    コンコンと控えめに風呂場の引き戸をノックすると、すぐに「大丈夫だよー」と間延びした返事が返ってきた。引き戸に指をかけて力をこめる。
    晶が脱衣所に踏み込むと、奥にある折れ戸が開いて、浴室からフィガロが顔をのぞかせた。

    「シャンプー持ってきたので、開けて使ってください」
    「どうもありがとう、賢者様」

    フィガロが破顔して、折れ戸を大きく開く。晶は大きく目を見開いて硬直した。
    いつもは隠されているフィガロの素肌が、否応なく視界に飛び込んでくる。さすがに腰にタオルを巻いていたけれど、真夏の猛暑日でも長袖を着込んでいるフィガロの無防備な姿はいささか刺激が強すぎた。
    肌が予想以上に白くて。腹筋はほどよく引き締まっていて。腰は細く、手足が長い。スマートさとセクシーさを兼ね備えた男の爽やかな色香に、頬と耳が熱くなる。
    もっとも晶を驚かせたのは、あばらの辺りにあるタトゥーだった。何かの花を模したような形のタトゥーが、白い肌に映えてくっきりと存在を主張している。

    「フィガロ、それって……」
    「ん? ああ、これ? ‘ここ’に来る前にちょっと、ね……。かっこいいだろう?」

    フィガロが誇らしげに胸を張る。自然と上を向いた桜色の乳首から、晶はそっと目を逸らした。

    「ちょっと……びっくりしました」
    「どうして?」
    「なんていうか、ほら、タトゥーってやっぱり、いかついというか、怖そうなイメージがあるので。いつものフィガロからはあんまり想像できないなあって」
    「いつもの俺は優しい人間だって?」
    「そう、だと思いますけど……。だってフィガロは誰にでも気さくで親切じゃないですか。みんなからも頼りにされてますし」
    「ふふ……きみは本当にかわいいなあ」

    フィガロが色素の薄い唇からくすくすと忍び笑いをこぼす。晶は途方に暮れて眉尻を下げた。今の会話のどこに笑う要素があったのかさっぱりわからない。

    「本当に善良な人間っていうのは、きみたちみたいな人のことだよ、賢者様。俺はただの偽物。まあ、定義は人それぞれだけどね。……俺のタトゥー、触ってみる?」

    晶がタトゥーから目を離せないでいると、バスチェアに腰かけていたフィガロがすっと立ち上がった。髪をかき上げながら、はしばみ色の瞳をいたずらっぽく細める。その様子があまりにもなまめかしくて、くらくらと目眩がした。

    「し、失礼します……」
    「どうぞ」

    どきどきしながら男の人の体に触れるなんて変態っぽい。そんな思考が頭をかすめたけれど、好奇心には逆らえなかった。触ってみたらどんな感じがするのか、気になって仕方がない。
    おそるおそる指を伸ばして、真っ黒な花びらに触れたその瞬間――。

    「あっ…………!」

    体が燃えるように熱くなって、心臓がドクン! と大きく脈打った。血流が一気に速くなって、ボコボコと沸騰する。煮えたぎる。

    「うぁあ…………っ!」
    「賢者様!?」

    目の奥がちかちかして、無数の星が弾ける。フィガロが焦燥をにじませて晶を呼ぶ。その声を最後に晶の意識はぶつりと途切れた。



    「賢者」
    「賢者よ」
    「そろそろ目を覚ましてくれんかのう」
    「目を覚まさんといたずらしちゃうぞ」
    「んん……」

    鈴を転がしたような笑い声。ビョウビョウと吹き荒れる風の音。ザアン、ザアン、と唸りを上げて渦巻く波の音。バタバタと服の裾がはためく音。
    いろんな音が混ざり合って、空気を震わせている。それらに邪魔をされて、うとうととまどろんでいた晶は重たいまぶたを持ち上げた。

    「え――?」

    目を開けて呆然とする。晶は見覚えのない景色の中にぽつねんと立ち尽くしていた。目と鼻の先には広大な海が広がっている。
    海といえば一般的には夏の輝かしいイメージを想像するだろう。けれど、晶の視界に映る海の風景は、まぶしい太陽や、透き通る青空や、きらきらと輝く砂浜とはほど遠いものだった。
    頭上は鉛色の雲に覆われていて、海はどこまでも深く暗い群青色に染まっている。
    砂浜の色はくすんでいて、どこまでも物寂しい冬の海が晶の目の前に広がっていた。

    (あれ……? この場所を俺は知ってる……?)

    見覚えがないはずなのに。こんなところには来たことがないはずなのに。なぜか知っているような気がする。不思議だ。晶がうーんと腕組みをして考え込んでいると、背後から「きゃっきゃ」とかわいらしいソプラノボイスが聞こえてきた。

    「我らを無視するとはよい度胸じゃのう」
    「よい度胸じゃ」
    「っ……!」

    自分以外には誰もいないと思っていた晶は、びくっと肩を揺らした。弾かれたように振り返る。晶の背後には姿かたちが瓜二つな二人の少年が立っていた。半ズボンからのぞく膝小僧が寒々しくて、晶は無意識に両腕をさする。
    さらさらの黒髪に、はちみつを垂らしたような黄金の瞳。双子と思しき少年たちは無邪気に微笑んではいるけれど、得体の知れないものを感じて晶は一歩後ずさる。

    「きみたちは誰……?」
    「賢者ちゃん、それはひどいぞ!」
    「激おこぷんぷん丸だぞ!」
    「わああ」

    ほぼ同じタイミングでぷくーっと頬をふくらませ、肩をいからせる少年たちのシンクロ率に晶は感嘆した。見事なミラーリングである。思わず拍手をすると少年たちは、んもう! と腰に手を当てて唇をとがらせた。

    「我ら、わざわざそなたを助けに来てやったというのに」
    「超がつくほど心配しておったというのに」
    「と言われても……俺、きみたちが誰かも知らないし。助けに来たってどういうこと?」

    まるで慣れ親しんだ友達のような態度で話しかけてくる少年たちに晶は困惑せざるをえない。見た目は10歳くらいに見えるのに、口調は老人そのもので、そのギャップも晶の戸惑いを加速させる。
    晶がどうしていいかわからずまごついていると、二人はしばし見つめ合い、ひたと視線を据えてきた。黄金の双眸が弓のように引き絞られる。

    「本当に我らが誰かわからぬか?」
    「己が立場も忘れてしもうたか?」
    「この紋章の意味すら覚えておらぬと?」
    「世界の虚構と真実を見分けられぬと?」
    「賢者」
    「賢者よ」

    少年たちが襟元をくつろげて首筋をさらす。そこにはフィガロのあばらに刻まれていたのと同じタトゥーがあった。
    黄金の眼差しを怪しげに光らせて、少年たちがさえずるように言の葉を紡ぐ。自身が何者であるかを思い出せと無言の圧をかけてくる。

    「どれ、少しだけ手助けをしてやろうかの」
    「フィガロちゃんの記憶操作はちと厄介じゃからの」
    「「ノスコムニア!」」

    少年たちが不思議な響きを持つ言葉を放ったその瞬間。晶の脳裏に様々な情景が浮かんでは消えていった。さながら走馬灯のごとく。

    ――お会いできて光栄です。愛しい賢者様。
    ――あんたが新しい賢者様か?
    ――東の国の魔法使い、ヒースクリフです。
    ――すまんの、賢者よ。我らは双子じゃ。孤独をよく知らん。
    ――かわいそうに……。家に帰りたいじゃろう。

    耳の奥で様々な人の声が蘇る。ときに厳しく。ときに優しく。ときに冷たく。ときに悲しく。ときに寂しく。賢者、と晶に呼びかける彼らの声。魔法使いたちの声。21人しかいない賢者の魔法使いたちの声。
    万華鏡のようにくるくると回っていた景色が収束して、やがて視界がクリアになっていく。晶は深く息を吸って吐いた。深呼吸を3回ほど繰り返し、へなへなと頭を抱えてうずくまる。

    「あ、あ、ああぁあ~~~。うわあ、もう、うわあ、えぇ、嘘だ、何これ、ちょっと信じられないです、うわあ……」
    「お、ちゃんと元に戻ったようじゃの」
    「無理やり叩き起こしてすまなかったのう」

    賢者、と愉快そうにスノウとホワイトが晶に呼びかけてくる。晶はぺこぺこと頭を下げながら謝り倒した。

    「お手数おかけしてすみませんでした……。自分が不甲斐なさすぎて、もう……穴があったら入りたい」
    「よいよい。我らが手助けできるのはここまでじゃ」
    「あとはそなたが自分でなんとかするのじゃ」
    「ここが男の見せどころじゃ」
    「ここが正念場というものじゃ」
    「よいか?」
    「よいな?」
    「はい、ありがとうございます……。明日になったらフィガロを説得します。できるだけ早く、あそこから抜け出せるように頑張ります」

    晶の返答を聞いて双子は満足そうに微笑んだ。

    「では我らはそろそろ消えるとするかのう」
    「そなたの検討を祈っておるぞ」
    「「ばいばーい」」

    ひらりと晶に手を振って、スノウとホワイトはいなくなった。晶は暗い空と猛々しい海がまじわるところを見つめて考え込む。どうしたらフィガロのいる場所まで戻れるのか、聞くのをすっかり忘れていた。

    (ええーっと、気絶して覚醒したらここにいたってことは、だ)

    もう一度意識を失って、‘あそこ’で目を覚ませばいいのだろう。多分。おそらく。
    上手くいかなかったら、そのときはそのときだ。
    晶は砂浜に横たわり、そっとまぶたを下ろした。



    気が付くと晶は祖母の家の和室に寝転がり、木目の天井を見上げていた。太い梁と天井の間に蜘蛛が巣を作っていて、あとで箒で払わないと、などということを考えて晶はふっと苦笑をこぼした。
    雨戸の外はすっかり明るくなっていて、白い陽光が燦々と差し込んでいる。
    頭が妙にすっきりしていて、心は晴れやかだった。全身に活力がみなぎっていて、なんだってできそうな気がする。今なら空だって飛べそうだ。
    布団から起き上がり、ぼさぼさ頭のまま晶は廊下に出た。ミシミシと軋む床板を踏みしめて居間へと向かう。居間にはもうフィガロがいて、卓袱台に頬杖をつき、テレビから流れる朝の天気予報を眺めていた。

    「おはようございます、フィガロ」
    「……、……おはよう」

    晶が声をかけると、ひと呼吸置いてからフィガロは振り返った。一瞬だけ探るような眼差しが晶を射抜く。けれど瞬きの間に晶の顔色をうかがうような素振りは消えて、フィガロはすぐに人畜無害そうな微笑みを浮べてみせた。

    (本当に、この人は……)

    他人を欺くのが上手い。ずるい大人だ。

    「体調はどうだい、賢者様。昨日はいきなり倒れるからびっくりしたよ。軽く触診させてもらったけれど体に異常はなさそうだ。俺の見立てでは軽い貧血ってところかな」
    「そう、なんですね。特におかしなところとかはなさそうです。布団まで運んでくれて、ありがとうございました。心配させてしまってすみません」

    フィガロの白々しい嘘を晶は信じる振りをした。文学部の学生が触診の技能を備えているとはとても思えないが、‘ここ’は彼の領域だ。晶が気付いていることが露呈しなければ、ゆがみはそのまま捨て置かれる。

    「朝ご飯、ささっと作っちゃいますね。トーストとお米、どちらがいいですか?」
    「そうだねえ。和食もいいけど、今日はトーストの気分だな。目玉焼きとハムを乗せてくれるかい?」
    「はい、了解です」
    「楽しみだなあ」

    晶がキッチンに立つと、フィガロがふんふんと鼻歌を歌うのが聞こえてきた。窓から吹き込む生ぬるい風がレースのカーテンを揺らして、セミは命を燃やしながら鳴き続けている。
    今日もいい天気になりそうだ。
    目玉焼きとハムをトッピングしたトーストとコーヒーというお手軽な朝食を済ませたあと、晶とフィガロは魚を釣りに行くことにした。
    祖母の家の近くには自然豊かな山があり、中腹には天然水が湧き出す沢がある。その沢では驚くほどたくさんのイワナが釣れる。地元の人間だけが知る隠れた名所だ。
    土がならされて木製の階段などがきちんと整備されている山道を黙々と登っていき、途中で横道に逸れる。横道はほとんど人の手が入っていない獣道だが、歩けないことはない。
    生い茂っている枝葉に腕や足をひっかかれながら、えっちらおっちら前進していく。20分ほど歩いていくと、ちょろちょろと水の流れる音が優しく鼓膜を叩いた。
    視界が急に開けて岩場に囲まれた沢が現れる。晶の後ろにいたフィガロが「へえ」と感心したような声をあげた。

    「いいところじゃないか」
    「でしょう? 俺のお気に入りの場所です」

    しゃがんで澄みきった水面をのぞき込めば、いくつかの魚影が見える。うん、と晶は頷いた。これなら何匹かは釣れそうだ。
    イワナ釣りのいろはをフィガロに簡単にレクチャーして、晶はてきぱきと準備をした。釣り針に餌をセットして、竿を一本フィガロに手渡す。

    「釣り糸をそっと垂らしてください。イワナは警戒心が強いので、人間の気配を感じると逃げてしまうんです。竿をゆっくり動かしながら、食いつくのを待ちます」
    「こんな感じかな?」
    「そうそう。上手ですよ、フイガロ」

    岸辺から突き出ている手頃な大きさの岩に腰かけて、二人はイワナが引っかかるのをじっと待った。靴と靴下を脱いで素足を水に浸すと冷たくて気持ちがよかった。爽やかな風が肌を撫でて、飛び石を渡るかのごとく木漏れ日が跳ねて躍る。
    どこまでも穏やかでのんびりとした時間が流れていく。幸せだった。これ以上ないほどに幸せで、胸は満ち足りている。だからもう終わりにしなければ。

    「フィガロ」
    「なんだい、賢者様」

    竿の先端をじっと見つめながら晶はフィガロに話しかけた。

    「俺、あなたとここでこんなふうに過ごせるのがとても楽しいです。でも少しだけ寂しくなってきました」
    「……賢者様?」

    フィガロが怪訝そうな眼差しを向けてくる。晶は努めてやわらかく微笑んでみせた。彼をいたずらに刺激しないように。

    「だから帰りましょう。俺はもう大丈夫。フィガロのお陰で元気になれましたから。……守ってくれて、ありがとうございました。もう泣いたりしません。帰りたいとも思いません。だから――俺にかけた魔法を解いてくれますか?」

    お願いします。晶は深々と頭を下げてこいねがう。しばらくの間を置いて、頭上から「あーあ」と重いため息が降ってきた。

    「俺の洗脳は完璧だったはずなんだけどなあ。どうして気付いたんだい? この世界は幻だって」
    「昨日、夢の中で双子に会いました。それでヒントをもらいました」
    「なるほどね。紋章を媒介にされたってところかな。俺らしくない失態だ。真っ赤な賢者様をからかうのが楽しくて、調子に乗ったのが裏目に出たね」
    「裏目に出たって……俺が気付かなかったら、どうするつもりだったんですか」
    「んー? ずっときみの夢の中にいようと思ってたよ? ……ここはとても居心地のいい場所だったから」
    「ルチルとミチルが泣きますよ」
    「そう言われると、悪いことをしたような気になるな。ねえ、賢者様」
    「はい?」
    「本当に魔法を解いてしまって構わないのかい?」
    「…………」

    念を押すように問われて、晶は目の前の風景を見渡した。子供の頃に何度も訪れた祖母の家。何度も遊んだお気に入りの場所。ここには苦しみも悲しみも何もない。優しくて温かい。
    けれど――ここにいたら晶は何も成し遂げられない。ここにいたら、せっかく出会った素敵な人たちと素敵な世界が守れない。賢者である自分には彼らを守る力があるのに。

    「はい」

    フィガロの顔を真正面から見据えて晶はきっぱりと答えた。

    「……わかったよ。俺の負けだ。……きみの時間を奪ってしまって、すまなかったね」

    フィガロが晶の耳元に唇を寄せて、吐息混じりのささやきをこぼす。バキッと何かが割れる音がして、視界がぐにゃりとゆがんだ。そして何もかもが溶けて消えた。



    特に何かがあったわけではない。いつもなら笑って流してしまえる小さな不幸がたまたま重なっただけだ。魔法舎でお気に入りの服にインクをこぼしてしまったり、料理を焦がしてしまったり、靴の底が急にはがれたり、図書室で読みたかった本が見つからなかったり。
    そんなちょっとした不運が続いて、気が滅入っていたのは事実だ。本当なら耐えられるはずだった。落ち込んでもすぐに立ち直れるはずだった。けれど駄目だった。
    引き鉄となったのはおそらくスマホだ。久しぶりに休みをもらえて部屋の掃除をしている最中に、ふとそれらのことを思い出した。
    魔法の世界に呼ばれたとき、自分が持っていたリュックや洋服はどこにやってしまったのだろうと。
    無性に気になって探したところ、晶の私物はきちんとクローゼットの中に収納されていた。

    「なんだか懐かしいな…………」

    リュックの中に自分は何を入れていたのだろう。こちらの世界に来てから怒涛のように毎日が過ぎていき、最近ではあちらの世界に思いを馳せることも少なくなってきている。

    「俺って薄情なのかな」

    いきなりいなくなった自分を家族や友人たちは心配しているかもしれないのに。まあ、なんとかなるだろう。そんなふうに能天気に生きている自分がいると彼らが知ったら、怒髪天を衝く勢いで責められるかもしれない。

    「俺だって好きでここにいるわけじゃないんですよー」

    嫌々賢者をやっているわけではないけれど。<大いなる厄災>を退けるために全力を尽くすと決めているけれど。一方的に巻き込まれたのは事実だ。
    言い訳めいた台詞を口にしながら晶はリュックを開け、口元をほころばせる。リュックの中には賢者ではなく、日本在住の大学生である真木晶を証明するものがちゃんと存在していた。
    読みかけの本と、財布、サーフェイス。それからスマホ。

    「……みんな、元気でやってるといいけど」

    おもむろに晶はスマホの電源ボタンを押した。内臓されている写真や音楽を見て気晴らしができれば、と思った。けれどいくら長押ししてもスマホの画面は明るくならなかった。――電池が切れている。

    「…………っ!」

    思わず手が震えた。信じたくなかった。目の前が真っ暗になって、どうしようもなく寂しくて、悲しくて、気付けば晶は部屋を飛び出していた。

    (どうして、なんで……っ!!)

    こんなに頑張っているのに嫌なことばかり起きるのだろう。束の間の安らぎさえ指の間からすり抜けていくのだろう。毎日背伸びをして、無理をして、精一杯賢者らしく振る舞っているのに、どうしてこんなにも報われないのだろう。
    魔法使いたちはこんな自分にも良くしてくれるのに。古くからの友人のように笑いかけてくれるのに、胸がこんなにも苦しい。そんな自分が嫌で嫌で仕方がない。惨めで、浅ましくて、今すぐ消えてしまいたい。

    「う、ひっく、うぅう……っ!」

    泣きながら走って階段を駆け下りる。魔法舎の地下にあるワイン貯蔵庫に辿り着き、晶は膝を抱えてうずくまった。
    家族や友人たちの顔はもうおぼろげではっきりと思い出せない。彼らがどんな声をしていたかも忘れてしまった。これからも忘れ続けていくのだろうか。そんなのは嫌だ。忘れたくない。

    「疲れたなあ…………」

    だらだら鼻水を垂れ流しながら、晶は体勢を崩した。床に寝転がってぼんやりと天井を見上げる。
    ずっと、とはいわない。たまに、でいい。たまにでいいからただの真木晶に戻りたい。賢者ではない自分を知る人に会いたい。一人になりたい。休みたい。

    「ばあちゃん家に行けたらな」

    夏休みが来ると泊まりに行った祖母の家だけは、今でも鮮明に思い出せる。山と田んぼに囲まれていて、近くには小川も流れていて、どこまでも広い。自由気ままに遊び回れるあの家が晶は大好きだった。

    「……日本に帰りたい」
    「――そのお願い僕が叶えてあげるよ、賢者様」
    「え?」

    不意に誰かの声が聞こえてきて、晶は弾かれたように飛び起きた。ワイン貯蔵庫の入り口に長身痩躯のシルエットが見える。顔は逆光になっていてよく見えない。

    「だから、一人で泣くのはやめなさい」

    哀れむようなテノールが聞こえて、吐き気がするほど甘ったるい匂いが蔵の中に充満した。脳の奥が痺れて、意識が急速にかすんでいく。こうして晶は泥のように深い眠りへと強制的に引きずり込まれたのだった。



    夢の中にある祖母の家、ではなく。魔法舎で目覚めた晶が最初に見たのは、真剣な眼差しをしたファウストとオズの姿だった。
    ぱちぱちと瞬きをして、晶はすぐに自分が置かれた状況を把握した。彼らがここにいるのは、自分の身を案じてのことだろう。

    「無事に帰ってこられたみたいですね……」

    おはようございます。晶が寝起きのかすれた声で言うと、ファウストの眉間のしわが消えて、厳しかった面持ちがゆるんだ。
    オズが指を振る。と、窓辺に置いてあった水差しがふよふよと宙を漂い晶の手の中に納まった。

    「ありがとうございます」

    ゆっくりと身を起こし、水で乾いていた喉を潤す。水差しをサイドテーブルに置いて、晶はヘッドボードにもたれかった。

    「えっと、それで……結局、俺はどうなったんでしょう? 夢の中で洗脳されてた? 記憶をいじられていた? のはわかるんですけど……」

    晶が問いかけると、オズとファウストはほぼ同時に盛大なため息を吐き出した。

    「フィガロは夢の森の毒を利用して、きみに呪いをかけていたんだ」
    「魂を縛り、幻影を見せる呪いだ。タチが悪いにもほどがある」

    苦虫を噛み潰したような顔をして、ファウストとオズが代わる代わる説明をしてくれる。途中で挟まれる悪態に晶は苦笑を隠せなかった。

    「フィガロはなんて?」
    「賢者様が疲れているようだから、夢の中で息抜きをさせてあげているだけだと」
    「この部屋に強固な結界まで施すという用意周到ぶりだった」
    「それで二人がここにいるのは俺を助けようとしてくれたから? ですか?」
    「いや。僕たちはフィガロを見張っていただけだ。彼が何を仕出かすかわからなかったから」
    「し、信用ないな、フィガロ……」

    吐き捨てるように言うファウストに晶は思わず内心を吐露してしまう。晶の台詞を耳にして、オズがフンと鼻を鳴らした。

    「あの男ならば賢者の魂の破壊すらやりかねん」
    「で、でも、見張っていただけってことは、フィガロと揉めたりはしなかったってことですよね?」
    「スノウ様とホワイト様に止められたからね。賢者のメンタルをケアするのも医者である自分の役目だと、そう主張したらしい」
    「フィガロの言い分を双子が認めた以上、私たちは傍観するしかなかった」
    「だからずっと見張っていたんだ。フィガロがきみを利用して、悪事を働かないかどうかを。僕らの懸念は杞憂に過ぎなかったようだが、それでも賢者の魔法使いが賢者に呪いをかけるなんて前代未聞だ」

    ファウストとオズの話をかいつまむと、つまりこういうことらしい。泣いている賢者と廊下ですれ違ったフィガロは、気になって彼の足取りを追った。
    するとワイン貯蔵庫で賢者が泣きながら「日本に帰りたい」とつぶやくのが聞こえた。
    賢者のストレスが限界に達しているのを察したフィガロは、荒療治を決断した。
    夢の森で採取した毒で作った薬と自分の魔法を使って、フィガロは賢者に呪いをかけた。夢の中で本人の望みを叶え、幻惑し、永遠に眠り続ける呪いを。
    もしも呪いが解けなければ、賢者の身も心もフィガロのものとなっていた。
    それを危惧した各国の指南役たちは、入れ代わり立ち代わり賢者の寝室を訪れ、不寝番を務めていたのだという。
    ちなみにこの事実を知っているのは北の双子、オズ、ファウスト、シャイロック、当事者であるフィガロの六人のみらしい。
    若い魔法使いたちには賢者は体調不良で寝込んでおり、しばらく休養する必要があると説明しているのだとか。

    「なんというか、本当にすみません……。俺が至らないせいで大事になってしまって……」

    ファウストとオズはフィガロばかり責めているけれど、呪いにかかってしまったのは晶の心に隙があったせいでもある。その結果、彼らの時間を無駄にして、余計な気苦労を強いてしまった。心苦しいことこの上ない。
    きっと自分は歴代の賢者の中でも出来が悪いほうに違いない。晶が自分の不甲斐なさを恥じていると、不意にオズの手が伸びてきて頭をそっと撫でていった。

    「え、え……?」

    晶が目を白黒させていると、不意にファウストの指先がおとがいに触れた。顎をすくわれ、目を伏せていた晶は自然とファウストを見上げる形になった。ファウストは驚くほど優しい顔をしていた。

    「ここのところきみは働き通しで、休む暇もなかっただろう? 疲労が溜まるのは当たり前だ。今回の件はきみが我慢をしていることに気付かなかった我々の失態だ」

    春の雨垂れにも似た声がほとほとと降り注ぐ。惜しみなく。絶え間なく。晶の心に染み込んでくる。

    「なぜ……爆発する前に私たちに言わなかった」
    「と、オズはこんなふうに言っているが、きみが僕たちに甘えを見せられなかった理由もある程度はわかっている。賢者ではない、ありのままのきみが必要だとは僕たちは口が裂けても言えない。だがこれだけは肝に銘じておくことだ。少なくとも僕は……きみが背負っている重荷を軽くする手伝いを拒むつもりはない。きみには借りがあるからな」
    「お前がいなければ、こいつもアーサーも救えなかった」
    「いいか? 僕たちの現在はきみが自らの意思で選択した道の上に成り立っているものだ」
    「お前は賢者に選ばれ、私たちは賢者の魔法使いに選ばれた。だが……お前個人に価値がないとは言っていない」
    「始まりがどうであれ、きみはもう僕たちの戦友であり、同胞なんだ。それだけの信頼を勝ち得ている。――ここまで言えばもう十分だろう?」
    「……いや、あの、もう、お腹いっぱいです。恥ずかしいのでもう終わりにしてください……」

    普段は辛辣で手厳しいファウストとオズから威力のありすぎる言葉の数々を投げつけられ、晶の思考は完全にショートしてしまった。なんだかものすごいことをたくさん言われたような気がする。戦友だとか、同胞だとか、色々。
    彼らの言葉を聞いて晶はようやく理解した。
    賢者の魔法使いたちは大なり小なり真木晶という人間の資質を認めてくれている。どうして報われないなんて思ってしまったのだろう。彼らは自分の頑張りをきちんと評価してくれていたのに。

    「今度からはもう無理だ―って思ったら、すぐに相談することにします。心配してくれて、ありがとうございました」

    きっと彼らなら面倒くさがらず、馬鹿にせず、晶の話を聞いてくれる。落ち込んでいる晶を慰めて、元気になるまで付き合ってくれる。今なら心からそう信じられる。
    晶が照れ臭くなってへらりと笑うと、ファウストとオズは顔を見合わせて満足げに頷いたのだった。



    賢者の仕事を再開するのは明日からでいい。今日はゆっくり休めとファウストから厳命された晶は、ありがたく彼らの好意を受け入れることにした。
    中庭にある噴水に腰かけて、雲ひとつない青空を見上げていると急に影が差して視界が陰った。

    「ん?」

    目線を上げれば、いつの間にかフィガロが正面に立っていた。彼は興味深そうな表情を浮かべて、晶を見下ろしている。

    「あー、えーっと……」

    何を言うべきか迷ったが、晶が彼に伝えるべきはひとつだった。

    「ありがとうございました。俺の息抜きに付き合ってくれて」

    ぺこりと頭を下げるのと同時に「ブハッ!」と噴き出す音が聞こえる。晶が下げた頭を元に戻すと、フィガロは腹を抱えて笑っていた。

    「あはははっ、さすがは賢者様だ。寛容にもほどがあるよ。それとも何も知らないだけかい?」

    フィガロが目尻に涙を浮かべて晶をからかってくる。それが腹立たしく、晶はむっと唇をとがらせた。

    「詳細はファウストとオズから聞きました。その上で俺はあなたに感謝しています。あなたの思惑がどうであれ――夢の中で懐かしい場所に行けて、気持ちが楽になったのは確かですから」
    「きみを俺の傀儡にしようと企んでいたのにかい?」
    「そんなこと、フィガロはしないと思いますよ」
    「へえ。それはどうして?」

    フィガロが愉快そうに口角を持ち上げる。いじわるく目を細めるフィガロに、晶はにっこりと笑ってみせた。

    「傀儡になった俺を籠絡しても面白くないでしょう? それにフィガロが俺に呪いをかけたのは、俺を元気づけたいと思ってくれたからでしょう?」
    「……なんだかずいぶん回りくどい言い方をするねえ、賢者様」
    「じゃあ、はっきり言いますね。泣いている俺を可哀想だと思って、なんとかしてあげたいと思って、フィガロが呪いをかけてくれたなら……それは愛情以外の何物でもないですよ」
    「は……、……え?」
    「親愛とか慈愛とかそういう類のものだと思うんです。必要もないのに夢の中で俺とずっと一緒にいてくれたのは、心配で放っておけなかったからじゃないですか?」

    常々愛がわからないと言っている男に、ずいぶん勝手な意見をぶつけている自覚はある。けれど考えれば考えるほど、そうなのだとしか思えない。だって彼は孤独を知っている。
    独りぼっちがどれだけ辛いか、晶がどれだけ寂しいか、フィガロには手に取るようにわかったはずだ。
    彼がそういう感情を忘れてしまっているとしても。
    晶はおそるおそるフィガロの顔色をうかがい、驚愕に目を見開いた。

    「え…………?」
    「あー、どうしようか。これは……参ったね……久しぶりに心臓がちゃんと動いた気がするよ……」

    フィガロは頬を真っ赤に染めていた。頬だけではなく、首にも耳にも朱色が差している。晶は顎が外れそうなほど口を開けて呆然とした。いつも飄々とした笑みをたたえている男が、子供のように素直に照れている。感情を駄々漏れにして狼狽えている。
    その様子があまりにもかわいらしくて、愛しくて、晶は「やっぱり」と笑いながら言った。

    「俺ってフィガロに愛されてますよね。ね、フィガロ!」
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