かけおちの話 その日、太刀川さんはやけにおおきな鞄を持ってきていた。
黒色のボストンバッグはおれも知っているブランドのもので、アウトドアや旅行用として有名だった。実際に太刀川さんが三門市立大学のゼミ合宿から帰ってきたとき、おなじ鞄を肩にかけて作戦室にあらわれたのを覚えている。中からはおれたちへのおみやげやジョーカーが足りないトランプや食べかけのお菓子が出てきて、太刀川さんのジャケットのポケットの中みたいにめちゃめちゃだった。大切なものにかぎって雑にポケットに放り込む人なのだ。鞄にも四次元ポケットみたいにいろいろ詰まっているのが察せられたけど、破れたり壊れたりはしていなかったから頑丈だし物もいいんだろう。ただおおきいから普段使いには向かなくて、太刀川さんが持ってきたのもその一度きりだった。
「太刀川さん、鞄の中になに入ってるんすか?」
だからおれが聞いたのは単純な好奇心からだ。遠征前の最後のチーム練習。このあと遠征当日までの四十八時間は自由行動で、防衛任務も待機任務も入っていない。トリオン消費を抑えるためだ。おれたちもそれがわかっているから体を休ませるようにしていて、みんなそれぞれ家でくつろいだり寝たりといつもの休日よりのんびり過ごしている。学校も特別休暇扱いになっているから出席する必要はなくて、わざわざ大荷物をもって作戦室にくる理由なんてないのだ。これから小旅行に行くならともかく。
太刀川さんは俺の言葉に「ん?」と顔をあげた。柚宇さんと唯我を見送ったあと。鞄をテーブルにのせて中をゴソゴソと漁ったまま、向かい合ってソファに座るおれへ手を止めずに言う。
「なにって、着替えの服とか歯ブラシとかスマホの充電器とかだぞ」
「そのわりには鞄が重そうですけど」
「餅が入ってるからなー。あとはお菓子とか、読みかけの漫画とか、国近から借りてるゲーム機とか。あれだな、ヒツジュヒンってやつだ!」
ヒツジュヒン。
後者のものが本当に必要かはともかく、子どもが手当たり次第にリュックサックに詰め込んだようなラインナップだな、と思った。まるでいまから家出するみたいに。おれがそのまま伝えると、太刀川さんは「あー近いかもな」とうなずきながら言う。
「家出ってわけじゃないが、これから二宮とかけおちをするんだよ」
「…………え?」
「加古がいい旅館を見つけてくれてさ。ちょうどいい機会だからかけおちがてらふたりで温泉旅行に行こうと思って」
「は!?」
「だから荷物もでかくなっちまったんだよな」
「あの、太刀川さん……」
「なんだ。どうした出水?」
「かけおちの言葉の意味をわかって言ってます?」
「あれだろ、付き合ってるやつがするトーヒコウだろ」
我ながら失礼な質問だったけど、ちゃんとかけおちがなにかわかっているらしい。
かけおち。
太刀川さんと二宮さんが付き合っているのはおれも知っている。よく子どもみたいな喧嘩をしているふたりがどうして恋人になったのかはわからないし、きっと本人たちもわかってないんだろう。恋人になるにはきっかけは必要だけど理由なんていらないのだ──とねえちゃんから借りた少女漫画でも主人公が言っていたし。ただふたりの交際が上手くいっているのはおれもわかっていて、些細なやりとりからお互いへ向ける愛情と信頼がのぞくようになった。おれもだてにふたりの部下と師匠をやっているわけじゃないのだ。
だからこそおれは太刀川さんの言葉になにも言えなかった。
A級一位隊長とB級一位隊長としての太刀川さんと二宮さんならともかく。恋人同士の太刀川さんと二宮さんなら、かけおちしてもおかしくないってわかっているから。
「出水を連れていってやれなくて悪いけど、おみやげに温泉まんじゅうを買ってくるから」
黙ったおれをどう誤解したのか、太刀川さんがなだめるように口にした。普通に温泉旅行に行くようなセリフ。やっぱり太刀川さんはかけおちや逃避行の意味を誤解していて、単にカップル旅行くらいのノリで言ってるんだろうか?
おれがどう受け止めるか悩んでいると、旅行鞄のファスナーを閉めた太刀川さんが、「そうだ」と良いことを思いついたように口にする。
「出水に預けとくわ」
そう言って太刀川さんがおれの手に握らせたのは、命より重くて家の鍵より軽いトリガーホルダーだった。おれが口をひらくより先に太刀川さんが鞄を持って立ち上がる。
「じゃあそろそろ二宮との待ち合わせの時間だから行くわ。おまえもはやく帰ってしっかり休めよ」
最後に太刀川さんはおれの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜて作戦室から出て行った。
コンビニにでも買い出しに行くような気軽さで。これから逃亡するなんて思えないのんきな顔で告げてから。
そうやって太刀川さんはおれの前から消えて、二宮さんとかけおち旅行に出かけたのだった。