付き合いたての話 スマホを片手にうろうろ歩く。
地図アプリ?で表示された目的地はこの近くだし、それっぽい店はたくさんあるが、目当ての居酒屋までなかなか辿り着けなかった。堤からはビルの一階にあるからわかりやすいと言われていたけど、似たような外観の建物が多くてどの店もおなじに見える。三門市の繁華街を歩くのはひさしぶりだから、余計に店の区別がつかないのかもしれないが。そういや生身の体でこんなに歩いたのも十日ぶりだ。頭の中で想像する動きと実際の体の動きが伴っていなくて、こっちがホンモノなのにゲームのキャラを動かしてるような不自由な感覚があった。
「あ、太刀川。さっき帰ってきたばかりなのに呼び出して悪かったな」
ただ俺より先に堤の方が見つけてくれて、通り過ぎようとしていた店の前で声をかけられる。「おう」と俺も手をあげて応えようとしたところで、居酒屋の入り口の横に立つ堤が誰かを背負っているのに気がついた。
俺より背の高い堤より背の高いっぽい人物。薄茶色の髪。見覚えのある色と形のコート。高そうなシャンプーの香り。どっからどう見ても二宮だった──ぐでんぐでんに酔っ払って眠っているのを除けば。
「背中で寝てんの二宮か?」
「太刀川が迎えに来るあいだに寝オチしたんだよ」
近づいて覗き込むとやっぱり二宮だ。堤の肩に顔をうずめているせいで、普段は俺には見下ろせない後頭部のてっぺんを晒している。俺が三門市に戻ってすぐに二宮に電話をかけたとき。代わりに出た堤から大学の飲み会中に二宮が酔い潰れたとは聞いていたが、こいつ寝オチするくらい飲んだのか。いつもはまわりに勧められても絶対に酒を飲みすぎないし、どんなに場が盛り上がっても頑なに流されないやつだから、二宮が酔った姿を見るのははじめてだった。飲み会中になにが起きたのかはわからないけど、俺が離れているあいだも三門市は平和だったんだろう。
「そうだ」
呼び止めたタクシーの後部座席にふたりがかりで二宮を乗せたあと、ふと堤が思い出したように口にした。
「二宮が飲み会のあいだずっと太刀川の話をしていたぞ。太刀川が“研修旅行”に行ってるあいだ寂しかったんだろうな」
「マジか~。俺のこと褒めてたか?」
「いや、ずっと文句を言っていたよ」
めずらしく苦笑しながら返される。堤がこんな顔をするということは、きっとめちゃめちゃ俺の文句を言っていたんだろうな。そのせいで酒を飲み過ぎたのかもしれない。「せめて二宮が寂しがらないように、研修旅行中もメールや電話くらい出来ればいいんだろうけどな」と続けられて、「そうだなあ」と俺もあいまいにうなずいた。艇にスマホを持ち込んだことはないが、たぶん繋がらないんだろう。普通のメールや電話は無理のはずだ。ただ毎日本部と報告会議はしていたから、なんらかの通信手段はあるのかもしれない。今度冬島さんに聞いてみるか。
「二宮を任せたよ。太刀川も今夜はゆっくり休めよ」
「おう。俺もまた明日から大学に戻るわ」
居酒屋の前で堤と別れて、俺もタクシーの後部座席に乗り込む。そのとき生身の頬を刺すように吹いた冬の風よりも。暖房の効いた車内のあったかい空気や、タクシーのラジオから俺の知っている曲が流れたことや、運転手のおじさんから行き先を聞かれたときよりも。眠りこけている二宮の隣に座った瞬間、俺は三門市に帰って来たのを実感したのだった。
* * *
俺と二宮が付き合ってから二週間が経った。でも付き合って四日後には俺はボーダーの研修旅行──という名目の近界遠征に行っていて、半分以上を別れて過ごしていたからまだ恋人らしいことはしていない。しいていえば予定より一日早く三門市に帰って来て、二宮に電話したら代わりに堤が出て。酔い潰れた二宮を居酒屋まで迎えに行ったこれがはじめてした「恋人」っぽいことだ。
だからホントはこの機会に俺の家に二宮を連れて帰ってもいいんだろうけど、結局運転手のおじさんには二宮がひとり暮らしをしているマンションの住所を告げることにした。俺もひとり暮らしをしているし、どっちかというとここから俺の家の方が近いが、寝オチしているところを連れ込んだら二宮は嫌がるだろうと思ったのだ。アレだ、あの強そうな動物っぽい言葉。オクリオオカミ?ってやつで、こういうのはちゃんと本人の許可を取ってからの方がいいだろう。オツキアイってそういうもんだしな。
そんなことを考えながら、俺の右隣で眠っている二宮を眺める。振動が伝わって寝づらいだろうに、俺の肩じゃなくて窓ガラスに頭を預けていた。恋人になったんだからすこしくらい甘えてくれてもいいのに、こいつはとことんそういうやつなのだ。今回遠征に行く前も二宮の家に寄って顔を見に行ったら、「遅刻するからさっさと行け」といつもの仏頂面で追い出されたし。そのくせ俺がいないあいだ寂しがっていたらしいから、メンドーやつだよなと思う。外国の映画みたいにわかりやすくキスやハグをねだって来いとは言わないが。そういや二宮とまだ手も繋いだことがないんだよな──と気がついて、俺のすぐそばに投げ出されている二宮の左手になんとなく触れてみる。熱い。こいつでも酔って寝ているときは体温が上がるんだな。俺と手の大きさは変わらないけど、男の割には指が長いし細い。あと爪が丁寧に切られているのが二宮らしかった。
あったかい手を離すのが名残惜しくなって、そのまま二宮の左手に俺の右手を重ねる。窓から近界とは違う静かな夜空と、三門市のちいさな月を見ていると、ラジオからさっき聞いたのとおなじ曲が流れた。出水と国近からいま流行中の曲だと教わったけど、ホントに人気があるらしい。おもわず口ずさみながら右手の人さし指でリズムを取っていると、二宮がくすぐったそうに身じろぐ気配がした。あ、起こしたか。でも隣をうかがうとあいかわらず俺に顔を背けて眠っている。まあ俺と堤のふたりがかりでタクシーに乗せても起きなかったくらいだし、この程度の刺激じゃ目が覚めないんだろう。
右手を重ねたまま人さし指で二宮の左手をトントンつついたり、気まぐれになぞったりしていると、曲が終わる前にまだ見慣れないマンションに着いてしまった。
意外とあっという間だったな。ちょっともったいなく感じながら、料金を払うために二宮の左手から右手を離したとき。曲を最後まで聞けなかったことよりも、二宮にこれ以上触れられないのを残念に思っているのに気がついた。
「二宮。ほら、家に着いたぜ」
タクシーから二宮を引っ張り出す。さすがに起きたもののまだ寝ぼけてるっぽい二宮を支えて歩いて、俺が二宮のコートとジャケットのポケットを漁って鍵を探してやって。なんとか玄関のドアを開けて無事に押し込んだところで、今度は逆に俺が二宮に左手を引っ張られた。
「うわっ」
態勢を崩しかけておもわず声が漏れる。俺のうしろで玄関のドアが閉まって、ガチャンと勝手に鍵のかかる音がした。自動で照明のつく部屋みたいで、頭の上で花火が弾けるみたいに明かりがともる。慌てて壁に右手をついたおかげで転ばずに済んだが、間に合わなかったら二宮とふたりで廊下に倒れ込んでいたはずだ。いくら寝起きだからといってさすがにこれはダメだろ。
「危ないだろ」と文句を言おうとしたら二宮にはじめてキスされた。キス、といってもくちびるとくちびるが触れるだけの簡単なやつを。ちょっと驚いて反射的に身を引くと、さっきより強く押しつけられる。俺はこっちのキスも結構好きだけど、大事な書類にハンコを押すみたいに強くくちびるを押しつけられて、まったく気持ちよくなかった。むしろ歯があたって痛い。俺も経験豊富なわけじゃないがこんなに色気のないキスははじめてだ。ただ二宮もさんざんそっけない態度を取っておきながら、俺とこういうことをしたかったんだなというのは伝わってきた。
こんな拙いキスを仕掛けて、必死に俺を求めてしまうくらいに。
俺はくちびるを離して、目の前にある二宮の顔を見上げてふっと笑った。
「付き合ったばっかなのに手が早いな」
「……待たせやがって」
二宮が顔を背けて苛立ったように言う。
俺が近界遠征に行っていたことを指しているのか。それとも俺からいままで二宮にキスしなかったのを指しているのかあえて聞かないことにした。「悪かった」とささやいて、右手で二宮の左手に触れると、ビクリと逃げるように手をひっこめられた。あのとき起きていたんだなと思い至ったものの、俺は逃さないようにぎゅっと指と指を絡めて、まずはひとつずつ恋人としての距離をつめていくことにした。