灰とジギタリス 灰色の雲から堪えきれなくなったように、しとしとと雨が降り始めた。大通りを歩いていたまばらな人々は、駆け足気味に石畳を走っていく。大通りから脇道に逸れたところにある小さな店が、ランプをつけた。通りに面した大きな窓からオレンジの光が差して、そこだけが柔らかく色づく。
「やっぱりネロさんの料理が一番美味しいなあ」
「はは……、そんなこと言われても何もまけねえよ」
「いやいや、お世辞抜きにだよ。この魚のスープなんて絶品!」
ランチタイムを外した店内は客が一人。カウンターに座ってパンをスープに浸しながら絶賛してくる客に、ネロは少し笑って鍋の中身をゆっくりと混ぜた。
「今度は何作ってるんだい?」
「コンソメスープだな。肉と野菜を煮込みまくってる途中だ」
「ほー、そりゃあ美味しそうだね。今度メニューにのっけるのかい」
「いやあ……、どうかな」
歯切れの悪い返答の理由を客は追及しなかった。代わりに黙ってスープを飲んだ。
人が皆、自分の周りに円を描いているとしたら、この街の住人は、その円に触れないように生きている。ここは誰かが傷つく可能性を、限界まで排除して作り上げられた街。不自然を規則で可能にした街は、衝突もなければ和解もない。決して重ならない雨の波紋のような街だ。
「……雨が止まないね」
「あぁ。けど、まあ、すぐに止むんじゃねえかな。そんな感じの曇り空だ」
「なら良かった。傘を持ってきてないから助かるよ」
鍋から離れて、キッチン側の小窓のカーテンをめくって、空模様を見ていたネロは戻って、鍋の火を弱めた。あっちは大丈夫そうだな、と判断した。
客の皿に残ったスープは半分ほど。パンはもう残っていない。雨足を聞く限り、客が食べ終える頃に雨が止んでいるかどうか、微妙なところだった。ネロは少しだけ迷ってから、やかんを取り出した。棚から茶葉の入った缶を取って、音を立てないように台に置いた。
「ーーふぅ、美味しかった。お腹いっぱいだよ。これ、代金ね。ぴったりあると思うけど、確認しとくれ」
「どうも。料理人冥利につきるよ。ありがとさん」
「やれやれ、まだ雨が振ってるねえ。いやだいやだ……」
客が憂鬱そうに独り言を呟いて、ため息をつく。ぴったりの代金を受け取って、食べ終えた皿を回収していたネロが「あー……」と、はっきりしない声を出した。
「茶でも飲んでいくか?雨が止むまで……」
「……いいのかい?」
「ああ。あんた、美味そうにメシ食ってくれたからさ」
客が浮かせていた腰を落ち着けた。出来れば手をつけたくないと思っていた問題が、やってみればあっさり終わった。ネロはそんな拍子抜けしたような安心したような気持ちになった。
やかんに水を入れ火にかける。少量の水は魔法を使わずともすぐに沸く。ティーポットに茶葉を入れて、湯を注いで数分蒸らす。
「ん、出来た」
「ありがとう」
マグカップを両手で受け取った客は、ふうふうと息を茶に吹きかけた。雨に濡れて帰らなければいけないと、内心項垂れていた気持ちが少し前を向く。客がしみじみと茶を味わっているのを横目に見ながら、ネロは手を動かした。皿を洗う水の音と、雨の音が心地いい。皿を綺麗に拭き終えたタイミングで、客がふと口を開いた。
「そういえば、今日は晶ちゃんはいないのかい?」
「おつかい頼んでんだ。もう少ししたら帰ってくんじゃねえかな」
「迎えにいかなくていいのかい?」
「大丈夫さ。一人で行かせてるわけじゃねえから」
「ふぅん」
晶は今日、ファウストが採れすぎた果実をお裾分けしてくれるというので、それを受け取りにいっていた。ちょうど街に用事があって立ち寄るそうなので、そのついでに。今頃、どこかでファウストと雨宿りでもしてるだろう。ネロはあいにく、店番があるので同行出来なかったのだが。
「来週は二年に一度のお祭りだね。ネロさんは出店でもやんのかい」
「やらねえよ。そもそも祭りの日は休店の予定だしな」
「へえ、なんでまた。稼ぎ時だろう?」
「……その日は嫁の誕生日だからな」
客に背を向けたネロが、皿を元の場所に戻している。客はネロの声が柔らかくなったのを聞き逃さなかった。じっくりと慎重に煮込んでいるコンソメスープが誰のためのものなのか、うっすらと勘づいて口元を隠すように茶を飲んだ。
「ーーそりゃいい。きっと喜ぶよ」
「いや、まあ、うん……。ありがとさん」
気まずそうな雰囲気が、シャツ越しの背中から漂う。皿を下の位置に戻すだけのことに、時間がかかりすぎているのに、客は若いなあと心の中で呟いた。今になって、じわじわと恥ずかしさが追い上げてきているらしい。若い頃の自分を見出して眩しいくらいだと目を細めて、思い込みではないと気づく。
「雨、止んだみてえだな」
「本当だ。ネロさんの言った通りだな」
どうやら通り雨だったらしい。二人が目を向けた通りに面する窓からは、日光が気持ちいいくらいに飛び込んできていた。不要になったランプの灯りをネロが落とす。窓のふちの鉢植えの植物の葉が、生き生きとした緑色をしていた。
「じゃあ俺はここらでお暇するよ。助かったよ、ネロさん」
「ああ、じゃあ……。またのご来店、お待ちしてるよ」
笑って手を振って、客は店を出た。道路を挟んだ斜め向かいの花屋が、店内に引っ込めていた花を外に出している。ジギタリスの花の色が、無愛想な灰色の石畳の通りによく似合っていた。
通りを歩く人々は片手を少し前に突き出したり、青空を見上げて、雨が止んだかを確認している。みんながみんな、同じ行動をしているものだから、客は少しおかしくなった。
花でも買って帰ろうか、と靴を鳴らす。店の扉を次に開けるのが、彼の嫁さんでありますようにと、少し願いながら。