きみは永遠のつくりかたを知る「はぁ……」
宮廷画家のため息は重い。若くして宮廷画家の地位を与えられた青年は、絵筆を一本一本、ケースから取り出して、同じ位置にしまい直す。それを何度も何度も繰り返している。もう四往復はしただろうか。青年は床につくほど長い布のかけられたキャンバスに目をやって、深く項垂れた。
ーーこんなことになるなら、宮廷画家の地位など断れば良かった。
代々、優れた芸術家を輩出してきた家の人間として、決して許されないことだと分かってはいるが。
大きな窓から差し込む朝日で、黒髪と頭皮がじりじりと焼けて暑い。位置をずらそうと頭を動かすと、胸元のポケットからかすかな音がした。青年はポケットの中を探って、くしゃくしゃの四つ折りの紙を取り出した。丁寧に開いて、少し迷ってからーー紙に顔を埋める。鉛筆の黒鉛と粘土の匂いが、鼻の奥をツンと刺す。慣れ親しんだ匂いに、徐々に落ち着きを取り戻す。
紙には何度も描き直したらしき線のあとが、消しきれずに残っていた。人らしきおぼろげな線が誰を意識して描いたのか、それを思うと落ち着きは土砂のように流されてしまう。鼻の頭にかいた汗が、虫のように感じられて不快だった。
「先生、そろそろ時間です」
「あっ、ああ」
突然背後からかけられた弟子の声に、青年は慌てて振り向いた。青年の奇妙な行動は、幸いにも目撃されていないようだった。驚いた拍子に紙を握りつぶしてしまったことに狼狽える青年を、弟子が怪訝な目で見つめた。
「どうされたんですか?」
「い、いや、なんでも……」
青年は見られないように立ち上がり、机の方へいそいそと向かった。忙しない挙動を、弟子は深く追求しなかった。
新国王夫妻を描く大任は、さぞや重いことだろう。加えて、妃は異界から来たりし人間で、新王は中央の国建国以来初の魔法使いともなれば、その絵の歴史的な価値や意味は計り知れない。そっとしておこう。そう納得したらしかった。
青年は机の引き出しに、ゴミと見分けがつかなくなった紙を放り込んだ。机に地層のように重なった、資料や描きかけのスケッチブックの隙間から、なんとか鍵を探し出す。鍵をかけて、ようやく一息つけたと思ったら、弟子がキャンバスを運ぼうとしているのが目に入る。布が今にも落ちそうに揺れている。青年は唾を飛ばすような勢いで、声を張り上げた。
「おい!」
「わあっ!な、なんですか?」
「慎重に運べよ!布を落としたりなんかしたら承知しないぞ!」
「それは、もちろん……。分かりました」
弟子が布を慎重に深くかけ直す。その際に絵が見えたりしないか、青年はハラハラしていた。絵を自分以外の誰かに見られたら、不審に思われる確信があった。
ゆっくりとキャンバスが持ち上がる。青年は汗ばむ手で、鍵をポケットに押し込んだ。新しくやって来た他の弟子たちが、絵筆や絵の具をてきぱきと運び出す。青年は気持ちを切り替えるように深呼吸して、鏡代わりの窓の前で襟を正した。
ーーなんだか襟の形が左右対称じゃない気がする。もう少し右側を引っ張ろうか……。変なシワが入った!いや、まだ間に合う……。
「先生、はやく……」
「分かってるったら!」
青年はシワを必死に伸ばしながらほとんど怒鳴るように言った。しょうがなく襟をベストにいれて、扉へ押さえる弟子のそばを通り過ぎる。
廊下を歩く青年の後ろを、道具をもった弟子達が、ぞろぞろと追従する。部屋が近づいてくるごとに、歩調が弱まっていくのを青年は感じていた。
用意された一室へ入ると、新国王夫妻はまだ到着していないようだった。ほっと、青年は人知れず肩を撫で下ろす。丁重にキャンバスを下ろされるのを見届けて、空席の椅子を見やった。キャンバスの正面には、豪奢な椅子が二つ置かれていて、右の方は少し低い、猫足の椅子だった。
ーーあのお方が座る椅子。
頭の中のぼんやりとした妄想を、空席に見出しそうになって振り払う。恐れ多くも、あのお方の隣に己を置きそうになるなんて。想像しただけでも不敬に値する。
自罰するように、額に拳を当てていると、準備を終えた弟子たちが部屋から退出していく。
人がいると集中できない。これは青年が新国王夫妻の絵画を手がけ始めてから、言い始めたことだった。
「ーー晶様の御成です」
目を見開いた青年は、扉が開かれる前に、直角に腰を折り曲げた。音もなく扉が開かれると、ドレスの裾が滑るように床を撫でた。やんわりと香る花の匂いを吸い込むと、耳の裏を走る血潮の音が、今にも聞こえてきそうだった。薄水の湖面色のドレスは、猫足の椅子の前で止まった。
「面をあげなさい」
侍女の声に、ゆっくりすぎるほどの速さで頭をあげる。真正面から目に入った、髪を結いあげた晶の姿は美しく、その背後から光がさしているようにさえ見えた。眠る前に思い描くより、妄想で作り上げるより、甘やかな支配が体中を満たす。震えそうになる唇をこらしめるように、口の中の肉を一度噛んでから、なんとか挨拶を絞り出した。
「ご機嫌麗しゅうございます、王妃様」
「お前も元気そうで何よりです」
晶から賜る言葉は、いつも青年をぼうっとさせた。余韻に浸る間もなく、澄まし顔の侍女が晶の言葉の後をさっさと引き取っていく。
「陛下は後からお越しになります。先に始めていよとの仰せです」
青年は、はたと我に返った。意味を噛み砕いている間に、侍女達は部屋を出て行こうとしている。人がいると集中できない。青年の言葉は周知されていた。
「まっ……」
パタン、と無常にも扉が閉じられる。晶と二人きり。なんとしてでも避けたかった状況を、自ら作り出してしまったことに、頭を抱えたくなった。呆然としていても埒が明かないと、鉛筆を持ってみても、たちまち手汗で滑り落ちてしまう。
どうする。あ、晶様と二人きりなんてーーとても耐えられない。心臓に悪すぎる。部屋の外で待機しているだろう侍女に声をかけて、中にいてもらうか?でも、でもーーなんて理由をつけよう。
絵筆を拾いながら思考を高速回転させる。酷使されたバッテリーのように熱い思考に風を吹き込んできたのは、予想だにしない人物だった。
「今、どんな感じなんですか?」
「ーーえ」
「どんな風に描き進めているのかなって……、あっ!」
晶は目を点にした青年に気づいて口を抑えた。王妃としての振る舞いとして、仕える者たちへの言葉遣いは、結婚する前に徹底的に直された。けれど、一般庶民であった方が長い晶は、たまに、こうして気安い口調で話してしまうことがあった。足元をふらつかせた青年の肘がキャンバスに当たる。
「あっ……!」
青年の手が空を切る。キャンバスの布が、踊るように宙を舞う。キャンバスは重力に従って床に落ち、全貌を二人の目に晒した。
「これは……」
「も、申し訳ございません!!」
座った椅子から身を乗り出した晶に向かって、青年は全力で頭をさげた。額が床についてしまいそうなくらいの勢いだ。
キャンバスには、たった一人しか描かれていなかった。しっかりと顔や衣服までが描き込まれたアーサーの隣には、人間と判別できる程度のぼんやりとした形しかなかった。言われなければ晶だとは分からない。これこそが、青年が人払いを要求した理由だった。
「王妃様を蔑ろにしたわけではなく、その、ふ、筆が、思うように進まず……」
晶が無言で椅子から立ち上がる。もうダメだと青年は目を瞑った。
「このアーサー、とっても素敵ですね」
「……え?」
「アーサーの堂々とした清らかな雰囲気も絵に込められていて、とても好きです」
姿勢は変わらないまま、青年が少しだけ視線を上に向けると、晶と目があった。晶はキャンバスの前にしゃがんで、青年の顔を下から覗き込んでいた。
「わあっ!!」
思い切り後ずさると、今度は絵筆が床に落ちた。「大丈夫ですか?」と晶が心配そうに手を差し出してくるのを、首をぶんぶんと振って固辞する。心臓が破裂しそうなくらい、大きく鼓動を立てて、内に秘める熱を彼に知らせていた。
落ち着け、落ち着け、落ち着け。これ以上、無様を晒してみろ。僕がお前の指を折って、二度と絵を描けない体にしてやるぞ!
自分にそう言い聞かせながら、青年の指は何度も絵筆を取り落とした。取り落とした時のカン、という音が部屋に何度も響く。もう泣きたくなっていると、誰かが拾い上げてくれた。
「はい、どうぞ」
その時の感情に、いったいどんな色をつければいいのか。青年には考えもつかなかった。ただ今まで見てきた美しい風景が走馬灯のように頭を駆け巡った。
春の花の盛り。吹雪の夜に揺れもしないで、ぽつんと立っている燭台の灯。様々な感情や色が弾けて、飛び回って、視界が明滅した。けれど、晶のことだけは、切り取ったようにはっきりと認識できた。
「あ、ありがとうございます」
恐々と絵筆を受け取り立ち上がる。元通りに立て直したキャンバスが、二人の間を仕切るように立つと、やっと満足に呼吸できた。
以前まではキャンバス越しであろうと、王妃様のご尊顔を拝謁するなど、青年には到底出来ることではなかった。無論それは、臣下にあるまじき晶への恋心のせいだった。なのに、今はどうしてだろう。同じように立ち、正面にいる晶を、まじまじと見つめることができた。
「ーーお褒めの言葉を王妃様からいただけるなど、身に余る光栄でございます」
鉛筆と絵筆を机に戻した青年の挙動はきごちない。晶はまだ緊張しているらしいと微笑んだ。自分の絵が、アーサーの完成度には遠く及ばない出来であることなど、問題にすら感じていなかった。
「アーサーもあなたを褒めていたんですよ。中央の国始まって以来の天才画家だと」
「陛下には恐れ多くも宮廷画家としての推薦をいただけただけではなく、地位までも賜り、恐悦至極でございます」
「私も楽しみにしています、この絵が完成するのを」
晶の指が、キャンバスの縁を愛おしそうになぞった。出来の悪い子供を愛撫するような動きに、涙が込み上げてきそうになって、口元を引き締めた。この、一瞬交わった奇跡を決して忘れたくなかった。
「アーサー様の御成です」
その時。晶の眼差しは一変した。慈しむようなものから、はつらつとしたものへ。扉の方を振り向く首の動きを、ゆっくりと花が開くときの動きに似ていると青年は思った。
「陛下」
白を基調として、差し色に薄水色が入っている式典服を纏ったアーサーが、晶の手を取った。アーサーと晶が互いに向け合う眼差しは優しく、無音の言語がそこにはあった。
「晶。待たせてすまない」
「いいえ、それほど待っていませんから。それに、彼が話し相手になってくれました」
「そうなのか?お前も待たせてすまなかったな。それと、ありがとう。王妃の話し相手になってくれて」
青年は頭を下げたまま「勿体ないお言葉です」と述べた。高貴な身分であるにも関わらず、分け隔てないアーサーの気遣いは、彼にとって本当に畏れ多いことだった。アーサーへの尊敬も、敬愛も、忠義も、恩も、恋心で消えてしまうほど、弱々しいものではなかったから。だからこそ、この二人を前にすると、より一層罪悪感は増した。
「そうだ、これを持って来たんだ。一緒に食べよう」
「わあ、美味しそうなクッキーですね」
「サルカラの店のものだ。新商品らしい。ーーお前もひとつどうだ?」
「い、いえ、わたくしは遠慮させていただきます。ご配慮、感謝いたします」
首を振ると「そうか」とアーサーは引き下がった。二人して椅子に座り、アーサーが晶にクッキーを分けている。美味しそうに一緒にクッキーを頬張る二人の表情は、なぜだかよく似ていて、青年は知らず知らずのうちに微笑んでいた。訴えてくる心の痛みより、二人の幸せを自然と願う気持ちの方が強かった。
「あ……、あんまり動かない方がいいのかしら?」
王妃としての口調に戻った晶が問いかける。
「……いえ、そのままで構いません。お二人の自然な姿が一番ですから」
青年は再び鉛筆を手にした。晶の体の形を詳細に描き始める。二人の談笑が小鳥の囀りのようだった。
ーーこの愛が晶様に伝わらずとも、愛を込めて描き、この絵を見た誰かが、この絵を愛し、お二人の軌跡を知ってくれれば、それに勝る幸福はない。この世で最も愛し、尊敬する方々の生きた証拠をこの手で描き留められる、その幸福。僕は生涯をかけて描き抜くものを見つけた幸運に恵まれた。
ーー後年「新国王夫妻」の肖像を描いた青年の記録は、書庫で起きた大火のために燃えてしまい、詳しいことは何も分かっていない。現在確認されている青年の作品は「新国王夫妻」のみである。
「新国王夫妻」の肖像画になぜ、クッキーが描かれているのか。多くの学者が、現在も様々な説を唱えているが、はっきりとしたことは分かっていない。