赤の閃光「わ、すみません」
「……いえ、こちらこそ」
今しがた、人ごみの中すれ違いざまにぶつかってきたその男に、夏油はニコリと愛想笑いをひとつ浮かべた。男は軽く頭を下げ、そのままもう振り返ることはなく、過ぎ去っていく。その後姿を、夏油は後ろ髪を引かれるような眼差しで追う。
「夏油様、今の知ってる人?」
普段と様子の違う夏油へ、覗き込むようにして隣にいた奈々子が問いかけた。
「いいや、知らないよ」
そう首を振る夏油だったが、瞳には懐かしさを含んでいた。
そう。先ほどの男は確かに夏油の知り合いではない。けれども、夏油がめずらしく心を乱すのには充分なものだった。
男が履いていた赤いスニーカー。ただ、それだけ目に入っただけなのに。夏油のしまい込んだはずの気持ちは、いとも簡単に、色鮮やかに蘇る。
自ら決めて、置いてきたはずの未練のことを。
夏油は好きだった。
彼のトレードマークのような、その赤いフードを揺らし、それと同じ色の動きやすいスニーカーで一直線に駆けてきてくれることが。なによりも。
迷いなく、いつだって自分に向かってくるその赤いスニーカーは褪せることなく、今も夏油の脳裏に焼き付いているのだ。
――女々しいな、私も。
ふっ、と夏油が、誰にも気付かれない程度に息を漏らすと、嘲笑うかのように小さく片方の口角を釣り上げた。
私が、私の理想を叶えることができたならば。
あの、鮮やかな赤が、一直線へと私に向かってくるんだろうか。
またもう一度、彼を抱き締めることはできるんだろうか。
「なんて、ね」
その夏油の呟きは、雑踏に飲み込まれて誰にも届くことなく消えていった。