雨の季節、晴れるまで その日、空はやけに蒼かった。なのに、室内は重く沈んでいた。食堂にいたのは檀と太宰の二人きりだったが、朝からの会話のすれ違いが、じわじわと室温を下げていった。
「檀は、ほんと律儀だよねえ。そんなに真剣にならなくてもいいのに。もっとさ、肩の力抜いてもいいんじゃない?」
冗談めかして太宰が笑ったのは、軽口のつもりだった。いつもの軽さ、いつもの逃げの笑いだった。けれどそれが、今回ばかりは悪手だった。
「……お前、それ、今の状況見て言ってるのか?」
檀の声は低く、冷たかった。椅子に深く座り直し、握っていた湯飲みをテーブルに置く音が静かに響く。
「こっちはな、お前がどれだけ生きて帰ってくるか、毎回祈ってるんだよ。戦場に行くたびに、お前が“また”戻らなかったらどうしようって、眠れなくなる夜がある。お前の冗談一つで、俺の神経がどれだけすり減ってるか、わかってるか?」
太宰の表情から、ふっと笑みが消える。
「……そんなに俺のこと、重く考えなくていいよ」
その言葉が決定打だった。
「ふざけんなよ、太宰……」
檀が立ち上がり、椅子が音を立てて後ろに滑る。目には怒りと、なにより痛みが滲んでいた。
「俺が、お前のことどれだけ本気で……!」
喉まで出かかった言葉を、彼は飲み込んだ。言ってはいけない気がした。言ったら、もう戻れない気がした。
代わりに出たのは、乾いた声だった。
「……いい。もう放っといてくれ。疲れた」
太宰はなにも言わなかった。ただ、悲しそうに目を伏せた。
それが最後だった。ふたりの間に会話が交わされたのは、あの朝を境に、ぴたりと止まった。太宰はその日の夕方から姿を消し、司書が呼んでも戻らない。記録係の芥川が「目撃しました」と言ってくるまで、檀もまた、本当に太宰がいなくなったことを実感できずにいた。
そして夜、檀の部屋には、誰もいないはずのベッドがきしむ幻聴が、静かに降っていた。
太宰が姿を消してから、三日が経った。
館では捜索が始まっていたが、記録係の芥川は「本人の意思による一時離脱の可能性もある」と報告書に記していた。表向きの理由だ。全員が、太宰がふらっといなくなるのが初めてではないことを知っている。
けれど、檀は違った。
今回は、違う。
背中を撫でる直感が、やけに冷たい。あの時の太宰の目――あんなに虚ろな瞳で、檀を見たことがなかった。
「何で、あんな言い方をしたんだろうな……」
独り言が染み込むように部屋に落ちる。机の上には太宰の湯呑みがあった。数日前に、檀が洗わずに放置していたものだ。ふたり分の湯呑みがある食卓が、気に入っていたはずなのに、今は呪いのように思える。
「重いって思ったんだろうな。俺の言葉も、顔も」
そう呟いた瞬間、胸に焼けるような痛みが走った。まるで心臓をすりつぶすような鈍い痛みだ。
思い出すのは、太宰がふざけて言っていた言葉。
「檀が俺の遺書を見つける第一発見者だったら、泣いてくれるかなあ?」
そのとき檀は、「馬鹿か」と笑って流した。でも今、その言葉の一つひとつが、釘のように刺さる。
探しに行くべきか――そう思うたびに、足が動かない。どこにいるのかもわからないのに、探せるわけがない。でも、このまま待っていても、帰ってくる保証などどこにもない。
もしかして、俺が――
引き金を引いたんじゃないのか?
思考が、どす黒く染まっていく。
檀はその夜、外套を羽織って館を出た。夜風が頬を切り裂くように冷たかった。足元はふらつき、街灯が滲む。
太宰がよく足を運ぶ河原、書店、古びた教会、あの小さな詩人が一度だけ語っていた静かな裏路地。手当たり次第に歩いた。
でも、どこにも、彼の姿はなかった。
雨が降り出したのは、午前三時を過ぎた頃だった。
檀は肩に水を浴びながら、それでも歩き続けていた。太宰の気配だけを頼りに、街をさまよっていた。
通りの奥、灯りの落ちたカフェの軒先に、かすかな人影があった。
見間違いかとまばたきを繰り返す。だが、雨の中に佇む細身のシルエットは、どう見ても――
「太宰……っ」
駆け寄った檀の声に、影はびくりと身を縮めた。
だが次の瞬間、振り返ったその顔は、間違いなく太宰治のものだった。
檀は言葉を失った。痩せた頬、色を失った唇、目の下の深い隈。まるで何日も何も食べていないような、壊れた人形のようだった。
「……どうして、ここが」
太宰の声はかすれていた。
「そんなの、探して当然だろ……っ!」
檀は腕を掴んで、全力で抱きしめた。びしょ濡れの身体がぶつかり合って、しぶきが跳ねる。
「お前がいなくなったら、俺、どうすればいいかわからねえよ」
太宰は少しの間、黙っていた。けれどやがて、力なく笑った。
「……檀、俺、檀に言われた言葉、まだ忘れてないよ」
「……」
「『そんな風に生きてて恥ずかしくねえのかよ』って、あれ」
言った。
あの日、太宰が自身のことを、ひどく自嘲していた時だった。無責任な発言ばかりする太宰に、檀はついに怒鳴った。
悔いていた。あんな言葉、言いたくて言ったんじゃない。
太宰はかすかに肩を震わせた。
「言われた瞬間に、ああ、俺の居場所、もうないんだなって思った。そっか、檀も、俺にうんざりしたんだなって」
「違う!」
檀は叫んだ。
「違うんだよ……あんな言葉、言うつもりじゃなかったんだ。太宰が、自分を捨てるみたいに笑うのが、どうしても許せなくて……っ」
「……」
「お前がどうしようもなくても、情けなくても、俺は……ずっと一緒にいたいって思ってた。だから怒鳴ったんだ。お前を嫌いになったからじゃない。むしろ、逆だよ」
太宰は静かに息を吐いた。
雨音だけが、二人の間を流れる。
檀の腕の中で、太宰が小さく頷いたのがわかった。
「……ごめんね、檀。俺、また、逃げた」
「いいよ。何度でも捕まえてやるよ。俺はしつこいんだ」
その夜、ふたりは雨の中、肩を寄せ合って帰った。
あの喧嘩の日が、二人の絆を壊すのではなく、深めるものになったことを、きっと後になってから理解することになるのだろう。
檀の部屋に戻ってきた頃には、ふたりともすっかり冷えきっていた。
檀が慌てて湯を沸かしている間、太宰は黙ってソファに座っていた。肩を丸めて、両手を膝に置いて、ただじっとしていた。
「ほら、これ飲め。砂糖入れすぎたかもしれんけど……」
マグカップを差し出すと、太宰は少し迷った後、受け取った。
ひとくち、口をつける。
「……あまい」
「だろうな。俺がいま、甘いもんの味しかしなくてもいいくらい、甘くなりたい気分なんだよ」
檀は乾いたタオルを持ってきて、太宰の頭を雑に拭きはじめた。
「ちょっ……やめてくれない? 髪がぐちゃぐちゃになる」
「うるせえ。お前がまた倒れたら、俺の胃に穴が開くわ」
そう言いつつも、手つきは案外やさしかった。
太宰は目を伏せたまま、ぼそりとつぶやいた。
「……檀、ほんとは俺のこと、重たいって思ってるんじゃない?」
「は?」
「だって俺、いっつも面倒なことばっかり言ってるし……人を困らせるし……」
その言葉を聞いて、檀は思わず太宰の髪をくしゃくしゃにした。
「当たり前だろ」
「……え?」
「面倒だし、困らせるし、重いに決まってんだろ。でも、だからなんだよ。お前の全部が俺にとって、いっこも無駄じゃないんだよ。そういうことだよ、バカ」
太宰はぽかんとした顔をしていた。
そして、ふいに噴き出した。
「……なんだよそれ。恋人みたいじゃないか」
「は? 今さら?」
檀は言ってから、あっ、と口を押さえた。
太宰は目を細めて、カップの縁に口をつけた。
「……じゃあ、そういうことにしてもいい?」
檀は頷いた。何も言わず、ただ、頷いた。
そうしてふたりは、湯気の立つ部屋で、雨の音が遠のいていくのを静かに聞いていた。
傷つけてしまったことも、逃げたことも、もうすべて過去になる。
夜はもうすぐ明ける。