それでも水をやる図書館の朝は早い。
といっても、全員が規則正しく起きるわけではない。
誰かが眠っていれば、誰かが起きている。
誰かが沈んでいれば、誰かが笑っている。
──生きているとは、そういうことだ。
「……また、こぼれてるじゃないか」
檀一雄が中庭の縁に腰を下ろすと、そこには小さなバケツがぽつんと置かれていた。
底には、釘を抜いたような小さな穴がいくつも空いている。
注いだ水は、時間もかけずに地面へと吸い込まれていった。
その様子を眺めながら、檀はふっと笑った。
「これ、太宰が昨日拾ってきたんだ。“俺みたいだろう”って、上機嫌だったよ」
「随分と自虐的だな」
声はすぐ背後から。
影を落とすように現れた太宰治が、朝焼けの中にぼんやりとした輪郭で立っていた。
「でもね、俺は誇りたいんだ。こう見えて、一度くらいは“ちゃんと満たされた”ことがある。お前に」
「それでも、漏れたんだろう?」
「うん。……ごめんね」
謝るのが、いつも早すぎる。
それは彼の癖で、檀を少しだけ黙らせる。
けれど、もう叱ることはしない。
それは何度も、何度も繰り返してきたやり取りだったから。
檀はバケツを脇へどけ、代わりに自分の手で土を掬った。
まだ夜の冷たさが残る、しっとりとした黒土だった。
「詫びる暇があるなら、花でも植えたらどうだ」
「咲かないよ、そんな場所には」
「それでも水をやるのが、俺の生きがいだからな」
太宰は黙っていた。
言葉を探しているのではない。ただ、ほんの一瞬だけ、息の仕方を忘れていた。
「バケツが水を漏らしてもいい。また注いでやる」
「……神様か何かのつもり?」
「いや。お前に水をやれるなら、それだけでいい。泉の価値は、その一点で十分だ」
やがて太宰は、目を細めて笑った。
すべてを信じられるわけじゃない。
けれど、この一瞬だけは、信じたいと思った。
「じゃあ、次は穴を塞いでみようか。お前の水が、ちょっとでも長く残るように」
「……やれるものならな」
朝の光が、ふたりをそっと包む。
バケツには、今日も新しい水が注がれていた。