イヌピーの家で飲んでたココが酔っ払って食われる話 11「コ〜コ〜」
キッチンに立つオレにイヌピーは後ろから抱き付いてきた。風呂に入ったばかりの身体は温かく、おまけに湿って肌と肌がぴったりくっつく。
伸びた長い髪からはシャンプーの匂いがふわりと鼻腔をくすぐり、同じものを使っているにも関わらずドキドキして、仕事で疲れた心が解れていく。
振り返ればキラキラした顔でオレの反応を待つイヌピー。嬉しそうに寄ってくるのは可愛いが、分かりやすく態度に出されるとまだこそばゆい気持ちになる。平常心、平常心。胸の内が悟られないよう、手元にあった大福を口元へと近づけてやった。
「ん、口開けろ」
「あ〜」
「ははっ、でっけぇ口!」
今週は知り合いを紹介するため大寿と共に京都まで出張をしていた。商売繁盛のお参りや縁切り神社など、とにかく京都は飽きるほど観光地がある。仕事に行ったのだが、ホテルに着くと今度はイヌピーと来たいな、なんて浮かれたことばかりが頭に浮かぶ。だからちょっとでも京都気分を味わえるようにと、お土産を沢山買って帰って来たのだ。
大福を一口でパクリと頬張るイヌピーはオレの指まで咥えると指についた粉まで舐めるようにちゅうと吸い付く。ケーキのフィルムについたクリームを舐める子供みたいに隅々まで舐め、軽く指を引くとすぽんと口から抜けて出た。
「うまい?」
「うん」
「じゃあ今日はこれで酒飲むか」
ワンルームのキッチンからローテーブルまでの移動はすぐそこなのに、イヌピーがくっついてるから歩きにくい。お土産とビールをテーブルの上に置いて床に座ると、オレに引っ付いたままアルミ缶のタブを開けて「乾杯」と缶を掲げた。
酒が身体の中に入ってしまえば一週間の疲れはすぐに吹っ飛んで、緩やかに過ぎる時間に変わる。片手で大福を摘んで、ビールを飲みながら出張の話をして。気分もどんどん良くなってこの後のことをぼんやり考えながら期待に胸は弾んでいた。
何も変わりないいつもの金曜日を過ごしていたのだ。
「ココ、来週なんだけど、オレ仕事関係の飲み会があるから鍵渡してていいか?」
イヌピーがポケットの中から取り出したのは家の合鍵だった。キーホルダーも何も付いていない、飾り気のないものだが、シルバーがキラリと光るそれは一段と輝いて見えた。
「え、これ」
「合鍵。この前、週末以外も会いたいって言ってただろ。ココの好きな時に来いよ」
「マジ、で……」
昔から、約束なしに呼び出したり呼び出されたりしていたからこんな合鍵に何の意味もないと思っていた。が、実際に渡されると思った以上に嬉しい。イヌピーが自分のことを全部、明け透けにしもいいと思ってくれているのだと知って胸がいっぱいになった。
しばらく合鍵を眺めていたら、イヌピーが不安そうに顔を覗き込んできて、それに気づいたオレは目で合図を送る。
「……迷惑だったか?」
「いや、なんか、感動したっつーか」
「感動?」
「うん。いつでも来てって言われて嬉しいよ」
「良かった」
渡された合鍵は今度自分のキーケースに付けよう。シンプルなものだけど、鍵が二つ並んでいたら、見る度にイヌピーを思い出す。
しかし顔を上げるとさっきまでの朗らかな表情とは打って変わって、イヌピーはツンと唇を尖らせながら何食わぬ顔で大福に手を伸ばしていた。
あれ? 浮かれているのはオレだけで、何か間違いでもあったか? そんな不安に駆られ手元にあったビールを飲む。息が詰まるほど流し込んでイヌピーを見ると目の前が二重に霞んで見えた。
「イヌピー、どした?」
ちょん、と肩を指で突く。こっちを向いて欲しいのにそれでもイヌピーはわざとらしく視線をそらしたままだった。
「……来週なんだけど」
「あぁ、仕事の飲み会?」
「うん……」
「なんだよ、乗り気じゃねぇの?」
イヌピーってちょっと人見知りなトコあるからなぁ。呑気にそんなことを考えながらゆっくり紡がれる言葉を待った。
「……なんか、飲み会、って名の、合コンらしいんだよな」
「……へ、へぇ〜」
「ドラケンが断ろうとしてたんだけど、断りきれなくて」
合コン。と言われて頭が真っ白になった。すぐにイヌピーはオーナーが勝手に決めたことだと言い訳をしたが、もう心臓がバクバク煩くてそんなこと耳には入ってこない。
勿論、オレだってイヌピーの立場だとしたら断ることは出来ないだろう。それはドラケンだって同じだ。ただ、なんとなく、イヌピーはそういう色恋には無縁だと思っていたから、現実味を持つと変な汗が止まらなくなった。
不安、なんだと思う。恋人になって、心も身体も少しずつイヌピーだけのものになっているというのに、他の人に取られると思ったら。
つい「行かないで」と言ってしまいそうになって、その言葉を飲み込んだ。そんなこと言っていいのは、可愛くて若い女の子だけだって、オレが一番良く知ってる。
「そ、そそそっか! オーナーの言うことだったら仕方ねぇよな! うん、いいぜ。来週は仕事終わったら先に部屋入っとく!」
「ココ」
「あ、でもやっぱ来ない方がいいんじゃねぇ? イヌピーも遅くなるかもだし、オレ先に寝ちゃってるかもしれねぇし!」
パニックになって明るく振る舞えているか、可笑しなことを言っていないか分からなくなる。ビールを持つ手が小刻みに震えて、不意に泣きたくなった。酔ってるからそうなのか、それとも単純に悲しいのか、自分でも自分が分からなくてただ俯いて黙り込む。さっきまで幸せいっぱいの時間だったのに、今は身体が寒くて堪らない。
「ごめん、ココ。やっぱ断る」
「いや、ダメだ! オーナーの約束すっぽかすとか大人としてやっちゃいけないだろ!」
「でも」
「それにオレは、全然心配なんてしてねーし!」
早口で捲し立て、ビールを全部流し込む。このまま意識を失って朝になって、全部忘れたふりをして一からやり直したい。ぐるぐると回る視界の先でイヌピーががっしりと肩を掴んだ。
「ココ!」
その声でようやく意識がはっきりする。病人を心配するような顔で、動転したオレを宥めた。ゆっくり息を吸って、吐いてを繰り返し、込み上げる涙がボタボタ溢れ出す。
「イヌピー……」
「ほら、そんな一気に飲むから」
「っ……!」
うわーん、と声を上げて寄りかかる。子供みたいにわんわん泣いたら、イヌピーはギュッと抱き締めて背中を摩ってくれた。トントン、とリズム良く背中を叩かれ、抱き締める身体にしがみついた。
大人だから、我儘な同性の恋人なんて面倒だと思われたくないから、でも本当は行かないで欲しい。寂しいなんて気持ち、大昔に捨てて来たつもりだったのに、どうしようもなく寂しくなった。
イヌピーは酔っ払ったオレの介抱には慣れていて、泣き喚いたところでひとつも動揺しない。それどころかぐずぐずになったオレを可笑そうに笑っている。
顔にかかる前髪を掻き上げられ、広い額が晒される。
「ふはは、ココの顔ぐちゃぐちゃ」
「らって……」
「オマエは酔ったらすぐ泣くから」
「ンなコトねぇ!」
「オレが居てやんねぇとなぁ」
涙で顔が突っ張って、唇にしょっぱい味が広がる。見上げるとイヌピーは今まで見たことないくらい楽しそうに笑っていて、その表情がすごく幸せそうだった。
オレは大きく振り上がっていた感情がちょっと落ち着いて、買ったお土産の中から紙袋を引っ張った。これは、イヌピーはいらないって言うんじゃないかと思って見せていなかったが、来週オレを置いて知らない女の子たちと酒を飲むと分かったら渡しておくべきだと思った。
手のひらサイズの巾着の中から丸いパワーストーンが連なったブレスレットを取り出し、それをイヌピーの手首に付けてやる。
「魔除け!」
「……はぁ」
「イヌピーが女と性欲に負けないように」
「ココさぁ、オレを何だと思ってんだよ」
「別に疑ってるわけじゃねぇけど、考え過ぎるから」
指先でイヌピーにつけたブレスレットをなぞる。パワーストーンにお願いするなど、信じない人からすれば馬鹿馬鹿しいだけかもしれない。くだらないのかもしれない。でも、今は藁にもすがるような気持ちだった。どうか、イヌピーを悪い邪気から守ってやってくれ。
どうすることも出来ない現実に、ただ神頼みをするしかない自分を悔やんだ。もっと真っ当な人生を歩んでいたら、今もイヌピーの隣で一緒に仕事をしていたかもしれないのに。
イヌピーの手首をすりすり擦って念を送る。すると、イヌピーがオレの手を掴んで、そして指を絡めて、ギュッと握られる。俯いたまま顔も見れなかったのに、どうしたのかと思って顔を上げた。
「……分かった。これつけて行く」
「おう」
「だから」
そう言ったイヌピーは立ち上がった。繋がったままの手のひらはそのままにして、反対の手をオレの脇に入れる。せーの、の合図と共に持ち上げられると、軽々とベッドの上へと乗せてしまった。天井のクロスが左右に揺れて、身体が重くシーツに沈む。寝転がると眠気がドッと押し寄せて急に瞼が重くなってきた。
「ちゃんとオレのだって分からせてやるよ」
シャツの裾から侵入する手のひらで身体を撫でられるのに動く事ができない。酒飲むと何でこんなにも全部がどうでもよくなるのかなぁ。情けない気もするが、イヌピーになら何をされたっていいって思えるから、もうどうしようもない気もしていた。
おわり