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    後悔が形をもってやってくるお話

    苦しめるだけ苦しみなさいひたり、ひたり。

    肌が地面を叩く音に藍忘機は目を覚ました。
    夜は深い。
    隣では先程まで睦みあっていた魏無羨が小さな寝息を立てている。
    薄らと開いた唇の間から漏れた涎を親指の腹で優しく拭う。
    ひたり、ひたり。
    音が近づいてくる。
    そっと身体を起こして固く閉ざされた扉の向こうを睨む。
    ひたり、ひたり。
    ひたり、ひたり。
    音はやがて扉の向こうで止まる。
    月影に映し出されたその姿に、藍忘機は息を呑んだ。


    ◇◇


    「最近眠れてないのか?」

    文机に向かって門弟たちの課題を添削する藍忘機と背中合わせにもたれかかった魏無羨は唐突に切り出した。
    抹額の先をくるくると指先に巻つけて遊ぶ道侶を背中越しに微笑ましく思っていた藍忘機は、その言葉に小さく反応した。

    「何故?」
    「眠そうだなって」

    魏無羨はよく猫のように欠伸を噛み締めたり、身体を伸ばしたり、目を擦ったりしている。
    あまりにもごしごしと強く擦るので、藍忘機は目元が赤くなる前にそっとその手を奪うのだが、魏無羨の慢性的な眠気は藍忘機が彼を深く求め続けることが原因である。
    対して藍忘機は先に意識を落とす魏無羨の身体を清めるために彼よりも遅くに眠り、卯の刻起床の規則を守るため早くに起きる。
    そのため睡眠時間は魏無羨よりも短くなりがちだが、今まで一度も眠そうにしたことはなかった。
    今回も藍忘機は態度に出したつもりなどなかった。
    それでも魏無羨は藍忘機の僅かな表情の変化や身体の動きに気がつき、その原因を突き止めた。
    藍忘機には睡眠時間が足りていない。

    「俺いつも先に寝ちゃうから。お前に後始末任せっきりだったし・・・」
    「それは違う。私がしたくてしていることだ」

    実際、魏無羨の欲に塗れた身体を清めることは好きだった。
    意識は深く沈んでいるはずなのに、時折漏れる濡れた吐息や敏感に反応して震える身体をそっと拭う時間は幸福だ。
    魏無羨が無意識下で藍忘機の方へ擦り寄ってくると思わず口元がニヤけるし、小さく寝言で名前を呼んでくれた日には再びその熟した甘い身体を貪り尽くしたくなる。
    何よりも思う存分彼を愛すことができれば、藍忘機の身体と心は充分に満たされ、睡眠時間が減ろうとも何の問題もなかった。
    だからこそ、これからも彼を愛する時間も身体を清める時間も無くすつもりはない。
    それと睡眠不足は全くの無関係だ。
    それを懇々と説明すると、魏無羨は気恥ずかしそうに顔を赤らめながら、抹額の先と先を結んであそびはじめた。

    「じゃあ何で睡眠不足なんだ?」
    「それは・・・」

    話していいものだろうか。
    藍忘機が短く逡巡すると、目敏く反応した魏無羨が咎めるように名を呼んだ。

    「藍湛。俺たちの間に隠し事はなしだぞ」
    「うん」
    「なら話せよ。藍湛が話してくれないと、羨羨は寂しくて死んじゃう」

    真に受けた藍忘機は素早く身体ごと振り返って、魏無羨をきつく腕の中に閉じ込めた。

    「死ぬな」
    「死なないよ。お前が話してくれるなら」

    今度こそ藍忘機は迷わなかった。

    「毎晩、君が訪ねてくる」





    ◇◇



    ひたり、ひたり。

    またあの音がした。
    藍忘機は素早く身体を起こすと、隣に眠る魏無羨の身体を小さく揺すった。

    「魏嬰、起きて」
    「うぅん・・・・・・」
    「魏嬰。君が起こせと言った」
    「わかってる・・・わかってるよ・・・・・・今起きるから・・・・・・」

    もごもごと口を動かしながら目を擦る魏無羨に手を貸して、その重い身体を起こしてやる。
    魏無羨が自分から「今夜もそいつが来たら俺を叩き起こせ」と言ったので、言われた通り起こしたのだが、案の定眠りの世界に旅立っていた魏無羨はいざ起こされると不満げだった。
    しかし再びあの音がすると、魏無羨の両目はぱちりと開眼する。

    ひたり、ひたり。

    音は一定の速度で近づいてくる。

    「あれか?」
    「そうだ」

    魏無羨は片手を藍忘機の身体を跨ぐように置くと、その音に耳を傾けた。

    ひたり、ひたり。

    音は今夜もまっすぐ静室に向かってくる。

    「兄上にもそれとなく探りを入れたが、あの音のことは知らないようだった」
    「俺たちにしか聞こえていないのかもしれない。そもそも雲深不知処には藍先生の結界が張り巡らされている。それをすり抜けて来るとなると・・・」

    二人が声を潜めていると、音は静室の扉の前で止まった。
    今夜は月がない。
    影の正体は見えなかった。
    いつもはそこでじっと立ち止まり、夜が明けるまで藍忘機と見つめ合うのだが、今夜は違った。
    扉が小さく音を立てて揺れ始めたのだ。

    「今まで中に入ってきたことは?」
    「ない」
    「何故あれが俺だと?」
    「君の・・・夷陵にいた頃の君の影が映っていた」

    つまりは毎晩毎晩、夷陵老祖の姿形をした何かが藍忘機の元へ訪れていたという訳だ。
    それが今夜、静室の中へ入ろうとしている。
    二人は扉の先にいるものから視線を外さないまま、それぞれの得物に手を伸ばした。
    やがて、扉が音もなく滑る。
    星明かりでさえ見えない。
    それは、ゆっくりと静室の中へと入ってきた。

    ひたり、ひたり。

    藍忘機は目を見開いた。
    唇が戦慄く。
    夷陵老祖と呼ばれ、蔑まれ、人々の醜い欲望に殺された、かつて自分が守れなかった人がそこにはいた。
    その人はいつかと同じように光の宿らない瞳から止めどなく涙を流して、うつむき加減に近づいてくる。
    痩せ細った身体に着物が合わなくなったのか、胸元は大きく肌蹴けていて、肋骨の浮いた肉体が覗いている。

    「魏嬰・・・魏嬰・・・!」

    藍忘機は臥床から転がり落ちるように飛び出すと、その今にも崩れ落ちてしまいそうな身体に縋りついた。

    「魏嬰、魏嬰!すまなかった、君を守ることができなくて。私は、私はずっと君に謝りたくて・・・」

    涙を浮かべて必死に訴えかけても、夷陵老祖は何も答えない。
    その瞳は何も映さない。
    乾涸びて割れた唇から小さく音が零れる。
    藍忘機はそれを何としてでも聞き取ろうと必死に耳を澄ました。

    「失せろ」

    藍忘機の瞳から涙が零れた。




    ◇◇



    ひたり、ひたり。

    魏無羨にはまだ音が聞こえていた。
    藍忘機は突然臥床から飛び出すと、何もない空間に向かって跪いていた。
    彼は何事か叫び、静かになったかと思うと泣き崩れた。
    しかし、魏無羨はその寂しい背中に寄り添うこともできず、ただまっすぐ影を見つめていた。
    だって、それは、その人は

    「師姐」

    白い喪服に身を包んだ江厭離は、胸元に空いた穴から赤赤とした血を流し、紅の塗られた唇からも紅以上に赤い血を流していた。
    血は喪服を染め、やがて酸化して赤黒く変色していく。
    彼女は目を見開いたまま瞬きひとつしない魏無羨に向かって優しく微笑むと、口を開いた。
    こぷり、と泡立った血が溢れる。

    「阿羨、あなたはいま幸せ?」
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