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その日、蓮花塢は朝からそわそわと落ち着きがなかった。
祭りがあるわけでも、宴があるわけでも、慶事があるわけでもない。ましてや天気はあいにくの雨。気温も雲夢の気象記録に残るのでは、と思うほど低く、人々はまるで挨拶のように寒い寒いと繰り返す。
「これじゃあ、昼過ぎには雪に変わるかもしれないなぁ……」
誰かがつぶやいた言葉に呼応するように「雪か」「雪になるのか」「積もるかもしれないな」と門弟たちは口にする。それは寒さに震えながらも、どこか心弾むような声だった。
しとしとと降る雨が雪に変わるのに時間はかからなかった。巳の刻を迎えるころにはみぞれに変わり、午の刻を終えるころには雲夢はうっすらと粉白粉を刷いたようになっていた。
蓮花塢の広場で剣術の稽古をしている門弟たちの息は白い。吐いた息までも雪に変わってしまったように、しんしんと雪は降り積もり、地を蹴る足先も、剣を持つ指先も感覚が奪われるほど冷え切っていた。
規則正しい掛け声に合わせて剣を振るっていた門弟の一人が剣を落とした。高い金属音が雪に吸い込まれ、とても不格好な音がした。
「剣を落としたのは誰だ!」
指導していた江澄はただでさえ吊り上がっている目をさらに吊り上げ、すぐに剣を落とした門弟を見つけると、襟を掴み上げ噛み千切る勢いで怒鳴りつけた。
「剣から手を放す馬鹿がどこにいる! これが戦場ならお前は死んでるんだぞ!」
江澄の勢いに怯えながらも、まだ十代前半であろう若い門弟は「でも……、雪が降ってて、寒くて、手がかじかんで剣を握っていられなくて――」と言い訳を並べた。
「それでも雲夢江氏の門弟か!」
子供のような口ぶりに、江澄は呆れと落胆をにじませて門弟を床に放り投げた。かろうじて受け身を取った門弟を一瞥すると、ふんっ、と鼻を鳴らし「今日の稽古はここまでにする」と吐き捨てるように言った。
江澄は剣術の稽古をはじめる前から、いや、本当は朝餉のときから蓮花塢のこの妙に浮かれた雰囲気を感じ取っていた。
蓮花塢は一年間を通して比較的暖かい日が多い。蘭陵のようにのべつ幕なし火鉢に炭をくべることも、姑蘇のように膝から下が埋まってしまうほど雪が積もることもない。寒いと感じることが稀であれば、雪など滅多に見られるものではなかった。ましてや、雪が雲夢を白く彩るなど、その珍しさに浮かれるなと言うほうが無理だ。
かく言う江澄も、表情には微塵も出さないがはらはらと舞う雪を見ては、内心小躍りをしていた。このままもっと降り続けば雪人形を作ることができるし、組を作って雪合戦をすることもできる。しんしんと降り積もる雪に姿を変えていく蓮花塢を見ながら、酒を飲むのもいい。真っ白な雪景色にも劣らないほど清らかで、寒さを忘れるほど濃厚な酒がいい。つまみはしびれるほど辛く炒めた青菜か、それとも溶けるほど煮込んだ大根と鶏肉か――
江澄は「風邪をひくなよ」と門弟たちに告げると、袖の中に手を引っ込めて腕を組み私室へと戻った。扉を閉めていても部屋が寒い。火を足そうと炭箱を開けると、残りは少なかった。夜まで保たなそうだと、江澄は炭焼き小屋に向かう。途中、すれ違った女中に部屋の花を変えてもらうように頼んだ。重くなった炭箱を抱えて部屋に戻ると、黄色の水仙が白い梅に変わっていた。いまにも弾けそうなほどぷっくりとした蕾をつける梅に顔を寄せると、上品でまろやかな香りがした。
真っ黒な空から降る雪は変わらず白かった。
あれから雪は止むどころかますます降り続き、蓮花塢を囲う蓮池を真っ白に覆った。江澄の立つ中庭も一面が真っ白で、振り返ると足跡がくっきりと浮かんでいる。
雲夢にこんなに雪が降るのははじめてかもしれない。そう思いながら、江澄は視線を自分の足跡から空に向けた。
真っ白な息が身体のなかから出ていく。
耳が寒さで痛い。
なのに頬は燃えるように熱い。
江澄はもう一度、雪の降る空を見上げたまま白い息を吐きだした。
不意に背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返った江澄は変わらず空を見上げたまま、それを見つけると僅かに目を細め、だがすぐに「遅い」と声を荒げた。
「半刻も待ったんだぞ」
宙から舞うように蓮花塢に降りてきた人影に近づいて、江澄は待ちくたびれたと小言を言いながら、服や頭についている雪を払い落としてあげた。
「ああ、わかったわかった。急いで来たのはこの姿を見ればよくわかる」
まるで雪人形みたいだ、と笑えば真っ白な両手が伸びて、その腕のなかに捕らえようとしてくる。それをさっと避けて、軒下に逃げ込んだ江澄は射るような視線を向けて、例のものは持って来てくれたんだろうなと問う。
戌の刻半を過ぎた蓮花塢は静かだ。昼間のように稽古をする者もいなければ、雪に浮かれる者もいない。数名の見張りが蓮花塢の門を守るが、江澄の私室周りに門弟はいない。静かな蓮花塢にひっそりとしたふたつの声が混じり合う。
そっ、と袖のなかから取り出された白い酒甕を目に入れると、江澄は「天子笑!」と嬉々とした声を出した。
「やはりこんな雪の日に飲みたくなると言ったら天子笑しかないだろう。さすが雪深い姑蘇の酒だ」
差し出された天子笑を両手に持って、部屋に入った江澄はさっそく卓の上に準備していた杯に酒をついだ。卓にはすっかり冷めてしまった青菜炒めに、大根と鶏肉の塩煮、揚げた落花生が置かれている。温め直してもよいのだが、その前に一口、待ちに待った天子笑を飲まなければそんな気にもなれない。
「なにをしているんだ? 寒いから扉を閉めてくれ」
卓の横にそろえていた茶碗を取ると、たっぷりの茶葉を急須に入れて濃い茶を入れた。ゆらゆらと立ち上る湯気が、冷泉のけあらしのように見える。
江澄はまだ中庭にいる真っ白な影に手招きをした。ゆっくりと近づいてきたそれは、雪など踏みしめていないような静かな足音だった。江澄の私室の前で止まると、黒髪の上に残っていた雪が耳心地のよい声とともに滑り落ちる。
その声音に不釣り合いな拗ねた子供のような言葉に、江澄は思わず声を立てて笑った。
「天子笑が本命で、あなたがおまけだなんて言ったら、俺は雲深不知処の門弟たちに殺されるな」
笑いすぎて滲んだ涙を拭い、江澄はそこに立ったままでいる人を見上げた。
両目にしっかりと映してもう一度言う。
「寒いから扉を閉めて早く暖めてくれ、藍渙」
雪はまだ、止む気配がない。