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    8nagi87

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    バレンタイン曦澄
    現代AUで歯医者な澄と、患者の曦

     □ □ □


    「虫歯だな」
     藍曦臣は薄紫色のチェアに寝かされたまま、頭上から告げられた言葉に「まさか」と驚いた。まるで虫歯という言葉を初めて聞いた子供のように何度も目をまたたかせる。しみひとつない真っ白な天井を見上げながら、虫歯、と声を出さずに独りごちると、ずんと胸のあたりが重たくなった。藍曦臣が虫歯に人一倍ショックを受けているのは、三十五年以上それに縁がなかったからだ。朝昼晩と歯磨きをするのはもちろん、歯間ブラシもフロスも使っている。仕事柄、多くの人と接するので口臭には気を使っているし、清潔感も欲しいので年に一度は歯科医院でホワイトニングも受けている。だから自分の歯が虫歯になるだなんて考えたこともなかった。今朝このキリキリとした痛みは頭痛だと思った程だ。起き抜けから続く慣れない痛みに鬱屈とした気分で朝食をとり、恋人がいれてくれた胃が悲鳴をあげそうなほど濃いコーヒーを飲んでも和らぐことはなく、緩慢な動きで歯を磨けば冷たい水が脳天を突くほど沁みて、そうしてやっとこれは歯が痛いのかもしれないと気がついた。かかりつけの歯医者に連絡を入れれば、運良く朝一番の時間が空いていると告げられて、藍曦臣は職場に遅れる旨を伝えるとすぐに車を走らせた。それでもまだそのときは虫歯だとは思わなかった。歯が欠けてしまったのか、寝ている間に強く噛み締めていたのか、歯茎が傷ついたのか、とにかく虫歯だとは微塵も思っていなかった。
     だから虫歯だと告げられて素直に納得することができず、どこが? なんで? こんなに歯磨きをしているのに? とまるで主治医を責めるような口ぶりになってしまった。だが、口腔内に入れられている小さい丸い鏡が舌を押さえつけていて、うまく舌が回らない。もごもごと口を動かす藍曦臣に向かって、すこし長い髪をひとつに結び紫紺色のスクラブを着た主治医――江澄は言った。
    「前々から言っているが、あなたはこの下の親知らずの奥側を磨くのが苦手なんだ。歯ブラシが届いていないし、必要ない歯だから虫歯になる前に抜いたほうがいいと言ってるのに、抜くのが怖いからとそのままにしていたのが仇となったな」
     撮影したばかりのレントゲン写真をモニターに映し、右の下の親知らずを指す。歯をかじられたようなぼんやりとした黒い影が見えた。
    「幸い、きれいにまっすぐ生えてるから、抜くのは十分もかからない」
     頭上の円形のライトが引き寄せられると、マスク越しでも江澄が笑みを浮かべているのがわかった。その恐ろしいほど美しい笑みに心臓がきゅっと縮こまる。
     いまから抜いてやる。
     そう言うと、耳にかけてあるインカムに向かって江澄は指示を出す。診察室を区切るチェアと同じ色のロールスクリーンの端から、すぐに茜色のスクラブが覗き込んできた。ついに抜くのか! とどこか嬉々とした声で茜色のスクラブが藍曦臣の頭の上を行き来する。二言三言聞きなれない単語が行き交うと、カチャカチャと金属音が響き、あっという間に抜歯の準備が整ってしまう。
     コルクスクリューのような、大きな注射器を右手に持った江澄が藍曦臣の唇を引っ張った。
    「いまから麻酔を打つからな。鼻で大きく息を吸って、ゆっくり吐いて。そう、痛いのはこれだけだからな」
     針が歯茎に侵入してくる痛みに藍曦臣は思わず目を閉じた。麻酔液がじわじわと体内に流し込まれるのは、異物感としか言いようがなく眉間が険しくなる。しばらくそうして耐えていると、よし、という江澄の声とともに針が身体のなかから出て行った。
    「麻酔が効くまで少し待ってろ」
     はっ、と息を吐いて目を開ける。緊張のせいなのかどくどくと心臓が脈を打っている。すこしでもそれを落ちつけたくて、藍曦臣は細く息を吸って辺りを見回した。
     右側にはさっき並べられたばかりの銀色の器具たちが見えた。いかにも歯を抜くようなペンチから、ピンセット、ハサミ、ドライバーのような形のもある。嫌に光る器具に心を落ちつけるどころか、ますます脈が上がりそうになりすぐに視線をそらした。右奥にはレントゲンを映すモニターがあり、左側は紙コップが置かれている。ピンクと赤のハート柄の可愛らしい紙コップだ。そのまま左側の壁に視線を向けると、絵が飾られていた。深い緑のなかにぽつぽつとピンク色の丸が描かれている。蓮池の絵だ。
    「気分はどうだ? 気持ち悪くなったりしてないか?」
    「……気持ち悪くはないけれど、緊張している」
    「だろうな。顔に書いてある」
     ははは、と笑った江澄はこれもまた薄紫色のスツールに腰かけて、新しいグローブを手にはめた。
    「麻酔が効くまで話でもするか?」
     長い両脚を床につけたまま、スツールの座面を左右に揺らした江澄は、藍曦臣の返事を待たずに話をはじめた。
    「せっかくのバレンタインに歯を抜くことになるなんて可哀想な人だな。だから早く抜いたほうがいいと言っていただろう? あなたにチョコレートを渡したいと思っている人たちも、虫歯だなんて聞いたら気が引けてあげるのを遠慮するだろうな。あなたみたいに顔が良い人は毎年たくさんもらうんだろう?」
    「皆、仕事の一環としてくれるだけですよ。そう言う江先生も患者さんから人気があるから、たくさん頂くのでは?」
    「俺はどこかの馬鹿とは違って、患者からは物をもらわない主義なんだ」
    「日頃の感謝の気持ちだと思うのですが……」
    「もらわない。お返しを考えるのが面倒だろう? 三倍返しだとか、選ぶセンスだとか、そういうのが嫌で全部断っている」
    「恋人からは?」
    「さあ、どうだろうな。自慢じゃないが、俺の恋人は男女問わずモテるんだ。毎年一人では食べきれないほどもらってくるから、俺はそのおこぼれで十分だ。信じられるか? 漫画みたいに段ボールいっぱいのチョコをもらってくるんだ」
     マスクで顔の半分が隠れていても、江澄が口を開けて笑っているのがわかる。
    「あなたは恋人からもらうのか?」
    「はい。今年は我が儘を言って、手作りチョコをお願いしました」
     別段チョコレートが好きなわけではないが、なぜだかバレンタインは恋人からチョコレートをもらいたいという気持ちになる。そう告げると、バレンタインの催事場なんて誰が行くか、と一刀両断されてしまい、項垂れているとたまたま店頭に積み上げられたフォンダンショコラの手作りキットが目に入り、これがいいと恋人に頼みに頼み込んで作ってもらえることになったのだった。
    「期待するなよ」と、不服そうに手作りキットを買う恋人の愛らしい姿が思い出されて、藍曦臣は頬が緩んだ。
     そんな藍曦臣の耳元に、へぇ、手作り、と低い声が響く。
    「手作りって死ぬほど面倒くさいことを知っているか? チョコを溶かすお湯の温度は決まってるし、小麦粉は二回もふるいにかけなきゃいけないし、卵は作る前に常温に戻しておかなきゃならん。しかも黄色いはずの卵を『白っぽくなるまで混ぜる』なんていう意味のわからない指示や、『さっくり全体を混ぜる』なんていう聞いたことない技法があって、完成したと思ったら、台所がチョコだ粉だで信じられないほど汚れてて、片付けも大変だってことを知っているか?」
     いつの間にか江澄の右手に銀色の器具が握られている。いかにも歯を抜くような、恐ろしい形をしたペンチだ。
     藍曦臣はなにか言おうとしたが、麻酔が効いて口の感覚がなかった。喋り方を忘れてしまったかのように「ああ」とか「うん」と唸るのが精いっぱいだった。
    「恋人が手作りしてくれたのに可哀想だな。この虫歯のせいで、せっかくの手作りチョコはお預けだ。でも、心配しなくていい。抜けば痛みはなくなるからな。安心して俺に全部任せろ。さあ、大人しく口を開けるんだ」
     慈しむかのように細められた釣り目が藍曦臣を見下ろしている。心臓が口から出てきそうなほど激しく震えている。
     いまから抜かれるのは歯ではなく、魂なんじゃないか。
     腹の上で組んだ手にぎゅっと力を込めて、藍曦臣は主治医の言うままに口を開けた。





     インターホンを鳴らすと、すぐに玄関のドアが開いた。お帰りという言葉よりも先に「今年もすごいな」と笑い声混じりに眉を下げた恋人は、藍曦臣の両手の紙袋を奪っていく。可愛らしい柄の紙袋のなかには高級感のある艶光する箱や、誰しもが聞いたことのある有名製菓メーカーのチョコレートまで、いろいろな箱が入っている。その数に嫌な顔ひとつせず、むしろ、しばらく甘いものには困らないなと笑うので、藍曦臣もつられて目を細めた。
    「今年は段ボールじゃなかったんだな」
    「虫歯で歯を抜いたと言ったら、あなたが言っていたとおり遠慮された」
    「だから俺が最初に言ったときに抜いておけばよかったんだ」
     藍曦臣の主治医――江澄は紙袋をテーブルに置きながら、また笑った。
     紫紺色のスクラブを白のニットに変え、髪を下した江澄は実年齢より若く見える。マスクに覆われていた口元が露わになるとより表情が豊かになり、藍曦臣はそのころころと変わる様を見るのが好きだった。
    「でも痛くもなにもない歯を抜いたほうがいい、なんて言われて、すぐにそんな覚悟はできないよ」
    「男の癖に根性がないな」
     背中越しにそう投げかけられて、根性論は時代錯誤だと反論すれば、虫歯を作るやつが悪いとご尤もな一言を言われてしまい藍曦臣は情けなく肩を落とした。
     コートをラックにかけて、腕時計を外していると不意に強い力で身体を反転される。バランスを崩して倒れこむことはなかったが、一歩よろめいた。その身体を江澄の右手が支え、もう片方の手が藍曦臣の頬に伸びる。暖かい部屋にいたはずの江澄の指先が冷たい。でもなぜかその冷たさが心地よくて、思わずねだるように頬擦りをしてしまう。
    「痛むか?」
     歯を抜いた右側の頬が、熱を帯びている。
     そう言われて、藍曦臣は江澄の手が冷えているわけではないことに安堵した。
    「痛み止めが効いてるから大丈夫だよ」
    「明日には腫れるだろうな」
     面白い顔になるから写真を撮らせろよ、と藍曦臣の頬をひと撫でして江澄の手が離れていった。
    「夕飯は噛まなくてもいいようにお粥にしてあるから。あと昨日の残りのおでん。大根と卵ならそんなに噛まなくても食べられるだろ」
     コンロに火をつけて、手早く夕食の準備がされていく。コトコトと音を立てる鍋から、強い醤油の香りがする。箸で持つと崩れてしまいそうなほど煮込まれた大根は昨日よりも深い琥珀色に染まっていた。お粥が焦げないように土鍋を混ぜている江澄から、昆布の佃煮を取るように言われた藍曦臣は冷蔵庫を開けた。深緑の陶器に入った佃煮より先に、ピンクのリボンがかけられた透明のプラスチックの箱が目に入る。メッセージカードのついたそれは茶色の塊が六個入っていた。どれもいびつに丸められていて、ひび割れたものもある。ココアパウダーをたっぷりとまとったチョコレートトリュフは明らかに手作りだ。
    「江澄、これは誰からもらったの?」
     平静を装ったつもりなのに、藍曦臣は自分で思っていたよりも低い声が出たことに驚いた。土鍋から顔を上げた江澄は、藍曦臣の手にトリュフの入った箱を見つけると視線を藍曦臣の顔に向けた。それから、なにかを確認するかのようにもう一度トリュフが入った箱を見ると、口の端をすこし持ち上げて「あなたが嫉妬する相手じゃない」と言った。
    「甥からもらったんだ」
     ほら、とピンクのリボンに挟まれていたメッセージカードを藍曦臣に見せる。
    『じうじうえ 
    おしごと がんばってね
    あーりんより』
     しが左右反転していたり、濁点が遠くのほうに打たれていたりするそれは、どう見ても子供が書いた文字だ。まだ幼稚園児だというその甥っ子が、母親――江澄の姉と一緒に作ったものだという。どおりで手作りにしては不揃いなチョコレートトリュフだったはずだ。
    「いくら曦臣とは言え、これは食べさせないからな」
     そう釘を刺さして、江澄は大切そうに透明な箱を冷蔵庫に戻す。
     藍曦臣は自分の心の狭さに申し訳なくなり、こんなにも簡単に嫉妬の炎を燃やす己を恥じた。素直にやきもちを焼いたと告げて、許しを請うように背中から江澄の腰に手を回した。
     肩口に額を押し当てて、甘えるように名前を呼んだ。
    「私もチョコレートが欲しい」
    「たくさんもらってきただろ」
     おでんをよそう江澄に、大根はいくつ食べるかと聞かれたので「ふたつ」と答えた。おでんなのに牛すじが入っていない。代わりにちくわぶをひとつ入れてもらう。
    「冷蔵庫に入っているあれは、江澄が私のために作ってくれたものでは?」
     どうしてもと強請って江澄に作ってもらったフォンダンショコラが冷蔵庫のなかにある。可愛くラッピング、などはされておらず味気ない真っ白な皿に乗ってラップがかけられているだけだ。それなのにどんな高級チョコレートよりも、きれいにリボンを巻かれたものよりもおいしそうに見える。
    「抜いたところの歯肉が落ち着くまで我慢しろ」
    「今日食べたい」
    「治りが遅くなって化膿しても知らないぞ」
    「阿澄」
     湯気がもくもくと立ちのぼるおでんの入った皿を押し付けるように渡されて、藍曦臣はこぼさないようにそっとテーブルへと運んだ。これ以上なにかを言えば江澄は、うるさい、女々しい、いい加減にしろと藍曦臣が口にしたことがない言葉を並べて、チョコレートをくれるどころではなくなってしまう。せっかく江澄が手作りをしてくれたのに、食べられなければ本末転倒も良いとこだ。
     藍曦臣が大人しく食事をはじめると、向いに座った江澄は紙袋のなかのチョコレートを物色しはじめた。これは有名なショコラティエが作ったチョコレートだとか、これは酒が入っているからあなたは食べてはダメだとか言いながらテーブルの上に並べていく。テーブルの半分が色とりどりの箱に埋まりだしたころ、次に江澄が取り出した箱は真っ赤なハートの形をしていた。断りもなく江澄がラッピングを解くと、同じくハートの形をした粒チョコレートが入っていた。ドラマで見る本命チョコみたいなデザインだ、と思いながら藍曦臣は芯まで味の染みた大根を口に入れた。
    「いかにもバレンタインって感じのチョコだな」
     そう言う江澄の口のなかにハートが消える。バキッ、とチョコレートが奥歯で砕かれる音がした。
    「甘い」と、顔を歪ませる江澄を、藍曦臣はいとおしく見つめた。


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    8nagi87

    DONE曦澄ワンドロワンライ
    『手紙』
     ■ ■ ■


     姑蘇藍氏歴代宗主のなかで、一番筆忠実なのは藍曦臣だった。どんなに些細な、返事を要しない書簡にも時季の香を焚きつけた書簡箋で一筆返し、またその字も大変美しく、いつの間にか「藍曦臣から届いた書簡を懐に入れておくと文字が上達する」という迷信まで生まれていた。
     その迷信が仙門百家の間で広まると、藍曦臣の元にはさらに多くの書簡が届き、酷いときは三日も寒室にこもり、ひたすら返事を書き綴っていることもあった。見かねた藍啓仁が門弟を検閲の役につけ、返事が必要なものだけを藍曦臣に届けるようになったが、それでも雲深不知処には毎日多くの書簡が送られてきた。
     唯一、検閲されることなく藍曦臣の元に届けられる書簡は、共に四大世家と呼ばれる雲夢江氏、蘭陵金氏、清河聶氏の宗主たちから届くもので、だが、清河聶氏聶懐桑から届く書簡のほとんどは返事が必要のない、いわゆる愚痴と泣き言が綴られたものだった。しかし、返事をしなければ聶懐桑の情緒はますます不安定になるものだから、検閲を務める門弟は聶懐桑からの書簡が送られてくると急いで藍曦臣に届け、藍曦臣もまた、急いで返事を書き綴っていた。
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