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何故こんなことになった? と、江澄はかれこれ一炷香ほど頭を抱えていた。
右手に持ったままの湯呑に口をつけ、気づかれないように正面に座る人を盗み見る。湯呑の底が透けるほど薄い茶はまろやかな甘みとほのかな香りが特徴の茶葉だ。だが江澄にとっては無味無臭に近いほど薄い茶でしかなかった。そんな茶を喉が渇いているわけでもないのに三杯も飲み、頭のなかで同じ言葉を繰り返している。
なぜだ。どうしてこんなことになった。一体何なんだ。
なぜ、藍忘機と二人で茶を飲まなくてはいけないんだ!
事の始まりは江澄が雲深不知処を訪れたところからはじまった。
先日、雲夢で発生した邪祟が姑蘇にまで波及してしまう失態があった。幸い、怪我人はいなかったが、雲夢江氏の恥だと宗主である江澄は猛省し、助力してくれた藍曦臣に詫びと礼を兼ねて挨拶に伺うことにした。訪問の日取りは伝えていたが、姑蘇藍氏宗主の藍曦臣は只人からの陳情、他家との談義、弟子の指導にと忙しそうで、楽にしているようにと寒室に通された江澄は藍曦臣のように頼られる宗主にならなくては、と改めて気を引き締めつつ腰を下ろした。
そこに音もなく藍忘機が入ってきた。一言「江宗主」と拱手をすると、慣れた手つきで茶を入れはじめる。呆けている江澄を一瞥することもなく、細い湯気を立たせる湯呑を差し出すと、どうぞとも、飲めともなくただ無言で目を伏せているだけだった。江澄は置かれた湯呑をじっと見つめ、それから藍忘機を見ると、また湯呑に視線を戻した。細い湯気が模様を描いては消えてを繰り返している。
「兄上が」
じっと湯気を見つめていた江澄は、不意に藍忘機が口を開いたことに驚き、思わず妙な声が出るところだった。
「兄上が来るまで、私に江宗主をもてなせと」
そう言ってまた口を閉じる。藍忘機の視線は変わらず伏せたままだったが、それは江澄へ差し出された湯呑に向いていた。江澄はしばし考え、ああこの茶は藍忘機のもてなしなのかと理解した。それに江澄が口をつけずにいるのは、もてなしが出来なかったということになってしまうのだろう。詫びと礼に訪れた江澄はもてなされたいとは微塵も思っていないし、ましてや藍忘機からとなるとますます気が進まないだが、それが彼の兄、藍曦臣からの心遣いであれば受け取らないわけにはいかなかった。
江澄はまるで置物のようにじっと湯呑を見ている藍忘機に「いただこう」と一言告げて、湯呑に口をつけた。雲深不知処らしい味の薄い茶だった。
そのあとは互いに口を開くこともなく、時折鳥のさえずりと、風に葉が揺れる音がかすかに聞こえてくるだけだった。
江澄の湯呑が空けば藍忘機は無言で茶をつぎ、それを二度繰り返せばいい加減江澄も待ちくたびれてくる。
なぜだ、どうして沢蕪君は弟に俺をもてなせなどと言った。もてなしなど必要ないし、頼むなら弟子の誰かにすればよかったものを。よりにもよってなんで藍忘機なんだ。一体あとどれだけ待てば藍曦臣はやって来るんだ。
時間とともに荒れる江澄の心のうちなど露知らず、藍忘機は雑談のひとつも持ちかけず、まるで修行でもしているかのように微動だにしない。
「随分と静かだが、あれはどうした」
藍忘機と雑談をしたいわけじゃない。けれど鳥のさえずりも、揺れる葉がこすれる合う音にも飽きている。この良いとは到底言えない雰囲気を払拭し、江澄の胸のうちに渦巻くものをどうにか吐き出さなければ、気がおかしくなりそうだった。
雲深不知処は静かなのが常だが、藍忘機の周りだけはすこし違う。ケラケラとした談笑と、酒の香りと笛の音がまとわりついている。それが今日は見当たらない。耳を澄ましてみても藍啓仁が魏無羨を叱りつける声は聞こえてこなかった。
「……町へ出かけている」
目は伏せられたままで唇だけがわずかに動き、風に飛ばされてしまいそうな声で藍忘機が答える。これが魏無羨なら、そんなに寂しい顔をするなと言うのだろうが、江澄にはそんな藍忘機の機微はわからない。騒がしいやつがいないのはいいことだ、と湯呑を盃のように回した。
「なぜ頻繁に兄上に会いに来る」
「は?」
湯呑が滑り落ちそうになり、江澄は指先に力を込めた。
「用があるから来ているだけだ、が……?」
予想だにしない藍忘機の言葉に江澄は首を傾げた。
藍忘機が言う頻繁がどの程度かと、江澄は雲深不知処を訪れた回数を思い出してみる。前回訪れたのは先月だ。藍曦臣に以前いただいた蓮の実の礼がしたいと呼び出され、姑蘇の季節ならではの供応をうけた。その二ヶ月前は、清談会の準備に追われていた藍曦臣に貴方の知識をお借りしたいと相談を受け、ああでもないこうでもないと三日間寒室にこもって協議した。さらにその半月前は、東瀛から珍しい本が手に入り、きっと貴方も気に入るからと藍曦臣から美しい文字の文が届けられた。うん、と顎をしゃくった江澄は「それに俺が会いに来ているんじゃない。沢蕪君から招待を受けている」と訂正した。
「今日は」
「……今日は、俺から約束を取りつけた」
今日、江澄が雲深不知処を訪れた理由を藍忘機が知らないはずはなかった。江澄は恥辱に拳を握りしめた。どこの世界に謝罪と謝意を相手から招かれてするものがいるだろう。
「その箱は」
藍忘機の視線が江澄の太ももの横辺りにすっと移動する。そこにはひとつの桐箱が置かれていた。彫りと焼きで飾り模様をつけた桐箱のなかには上質な紙が入っている。江澄が今日のために特別に紙漉師に依頼して漉いてもらったものだ。
「詫びの品だ」と言う江澄の声はかすかに震えていた。
「花は」
「花? ああ、あれは沢蕪君が雲夢の花は色とりどりで美しいと言ったから贈ったまでだ」
「蓮花塢に兄上を泊めたのは」
「邪祟退治に思ったより時間がかかったからだ。蓮花塢のほうが近かったし、御剣して姑蘇に返すには遅かったから泊まっていただいた」
「兄上が他人の世話になるなどあり得ん」
藍忘機は唇を切るのではないか、という勢いで口を閉じた。それはさすがの江澄でも見てわかる表情の変化だった。
「俺は無理強いはしていないし、なんなら沢蕪君のほうが蓮花塢に来たがっていたくらいだ。疑うなら沢蕪君本人に聞けばいい」
卓の上に置いた藍忘機の白い手に青筋が浮かび上がる。兄上は――と、藍忘機はなにか言いたそうにしていたが、そのあとは言葉にならなかった。
「さっきからなぜ俺は含光君の質問攻めに遭わなくてはならない? まるで罪人みたいだな。俺は雲夢江氏の宗主で、沢蕪君は姑蘇藍氏の宗主だ。宗主同士、話をすることもあるし、互いに赴くこともある。俺が雲深不知処を訪ねるのが頻繁なら、金鱗台は寝床だな」
はっ、と鼻で笑い湯呑を空にする。すっかり冷めてしまった茶は妙な甘みだけを舌の上に残した。
「そんなに俺と沢蕪君の間を疑って、含光君はなにがしたい」
「……私は」
そこで口を止めた藍忘機は、いくら探しても見つからない言葉に唇を閉ざした。叱られた子供のように視線を落とし、項垂れている。そんな姿の含光君に気をよくした江澄はざまぁみろと心のなかで高笑いした。
江澄は、藍忘機が言葉にできなかったそれを知っている。
遥か昔のことのようで、昨日のことのように思い出されるその気持ちを、江澄はよく知っている。これから、一生、死ぬまで、藍忘機がそれと生きていくのかと思うと、江澄は涙が出るほど笑いたくなった。
「かの含光君も兄離れができないとはな」
思わず口から出たその言葉は風の音に紛れて消えてしまうほど小さなものだった。
同時に寒室の扉が開き、江澄は待ち人の姿を確認すると、やっとこの酷くご丁寧なもてなしから解放されることを喜んだ。
「すまない江宗主、長いことお待たせしてしまった」
「いや、含光君が話し相手になってくれた」
寒室に部屋の主――藍曦臣が現れると、藍忘機は席を立った。いますぐにでも立ち去りたい気持ちと、江澄を藍曦臣から引き剝がしたい気持ちが競り合っているのだろう。二人の間に割り入るように前に出て、藍曦臣に拱手する。
「……兄上、私はこれで」
「ああ忘機、ありがとう。先ほど魏公子も町から戻ってきたようだ」
その言葉に表情を嬉々とさせたのは、藍曦臣だけがわかる変化だった。
「含光君、これを」
藍忘機が寒室にいることを魏無羨が知れば、背筋がぞくぞくとするような声で含光君の名を呼びながらやって来るに違いない。一刻も早く立ち去ってもらわねばと、江澄は藍忘機に押しつけるように袖から取り出した包みを渡した。
「話し相手になってくれた礼だ」
薄紫色の包みはずっりしと重く、なかに入っているものの形は一定に保たれてはいない。片手に包みを抱えた藍忘機はその口を開き、なかを見る。淡い色をした艶のある蓮の実が入っていた。
「とても一人では食べきれる量ではないね。忘機、魏公子とともに頂きなさい」
藍曦臣の言葉にうんと頷いた藍忘機は、じっと江澄を見て、だがなにも言わずに両手を重ねると寒室を後にした。藍忘機の姿が見えなくなると、やっと寒室の雰囲気が入れ替わったような気がして江澄はうちに残る嫌な空気をすべて吐き出した。
不意に、藍曦臣の笑う声が聞こえた。
「どうした?」
「いえ、忘機の足音が嬉しそうに去って行くので、つい」
「足音? さすが雲深不知処の人間は耳がいいな。俺にはなにも聞こえなかった」
聞こえるのは、鳥のさえずりと風に揺れる葉の音だけだ。
「沢蕪君、茶を淹れてくれないか」
座りなおした江澄は卓の上に先ほどと同じ色の包みを置いた。花開くように包みをほどくと、蓮の実が入っている。
藍曦臣はそっと扉を閉じて「貴方好みの濃い茶を淹れよう」と微笑んだ。
■ ■ ■
「藍湛が兄離れできてないって?」
江澄が言ったのか? と、魏無羨は宙に投げた蓮の実を見事に口で受け止めてうんとひとつ唸った。
「まあ、確かにできてないな……」
誰の目からも見ても明らかな溺愛ではないが、一切関りを絶ったような殺伐としたものもない。適度かと言われると、それも妙な気がして、魏無羨は深く考えるように腕を組んだ。
「藍湛は沢蕪君が大切だろう? それは兄弟として当然だと思う。困っていたら助けてやりたいし、嬉しいことがあったらともに喜び合いたいと思う。悩みがあれば一緒に悩んでやりたいし、二人で考えればいい解決策だって思いつく。それに、兄弟ってどうにも特別な縁だから、そう簡単に離れることなんてできないものだよ」
藍忘機に言った言葉が魏無羨の心をちくりと刺した。本当の兄弟のように育った師弟に破門にされ、兄弟の縁をなくした人間の言葉に説得力はないな、と魏無羨は頭をかく。
「でも沢蕪君は藍湛に兄離れできてないって言うこともないんだし、それに沢蕪君のほうが藍湛に兄離れされると寂しがると思うんだ」
「寂しい? 兄上が……?」
「そうだぞ、藍湛。いいか、お兄ちゃんってやつはいつまでも弟が可愛くって仕方がないんだ。こんな小さい頃から一緒にいて、ずっと面倒をみてきたんだ。それは大人になっても変わらない。弟のことを可愛がって、面倒をみて、心配して、元気づけてやるのがお兄ちゃんの役割なんだ」
だから藍湛はずっとそのままでいい。
藍忘機の膝の上に広げられた薄紫色の包みに、たくさんの蓮の実が入っている。どれもきれいな形をしていて、さすが雲夢の蓮だと魏無羨はそっと心のなかで誇った。
「でもまさか江澄が藍湛に向かってそんなことを言うとはな。あいつこそ兄離れできなさそうな性格をしているくせに――」
魏無羨は二粒同時に宙へと投げた。さっきより高く投げられた蓮の実は空高くにふたつの点とある。
「うん。江宗主は含光君も、と言っていた」
「なんだって⁉」
ぽてぽて、と音を立てて宙から降りてきた蓮の実が草の生えた地面に落ちた。
「江澄がそう言ったのか?」
うん、ともう一度頷いた藍忘機に、魏無羨は一度興奮する自分を押さえるため、胸に手を当て深い呼吸をした。
「……藍湛、江澄は寒室だったよな?」
うん、と聞こえたときには地面に落ちた蓮の実を拾い、魏無羨は雲深不知処を駆けていた。
視界をにじませる水滴を走る風が拭っていく。
口元が緩むのを止められない。
魏無羨は胸の底から込み上げる思いを、弟の名前に乗せて呼んだ。