手指――バラン様と…ディーノ様を頼む…!
そう懇願した彼の手は死を前にしてなお熱く、本懐を刻みつけるがごとく力強い。手に食い込まんばかりの指を握り返すと、魂懸けた戦士の目がひたと見返してきた。
――この鎧をもらってくれないか?お前に…使ってほしいんだ。
魂を認め合った友は、そうして自分に命ともいうべき武器を託してこの世を去った。
……オレは、お前の覚悟に少しでも応えられただろうか。お前の高潔な魂に相応しくあれただろうか。
――――――――――――――――――――――………………………………
闇の中、ヒュンケルは一人佇んでいた。あたりは漆黒が広がるばかりで、一体ここがどこかも分からない。だのに不思議と不安も警戒心も湧き起らなかった。
――夢。突拍子もない夢だ。薄らとした意識の中、ヒュンケルはそう自覚した。
ふらふらと周囲を見渡すうち、前方の闇がかすかに揺らいだ。目を凝らすと、次第に眼前にある光景が浮かび上がる。
簡素だが成人男性二人を支えられそうな大きなベッド。その傍らのサイドテーブルに置かれた、灯のないランプ。小さな書き物机。壁に掛かった二人分の外套。
そして、ベッドの上に身を横たえ、藤紫の肌もあらわに、静かに眠る魔族の青年。ヒュンケルの友・ラーハルト。寝息一つ立てないその穏やかな表情は、まるで命を手放したようだ――あの時のように。
ほんのわずか苦い記憶にとらわれたヒュンケルが歩み寄ろうとした時、視界の端からぬうと現れる者がいた。
ヒュンケルは何事かとその闖入者を見やる。息を呑んだ。
日の光の下ならばさぞ艶やかに光を跳ね返すであろう、漆黒の髪。陶器の人形のごとく白い肌に、妖しく淀んだ紅玉の様な瞳。その左頬に傷のように走る、赤く血の滲むような紋様。
それは、暗黒闘気に蝕まれた、ヒュンケル自身の姿だった。
一瞬虚を突かれたように愕然と立ち竦みかけたが、長年の戦士としての習性か寸でで我に返り、突然の闖入者に構えようとした。しかし、ヒュンケルの体は思うように動かない。指先までも硬直したように固まってしまっている。
ラーハルトの名を叫ぼうにも、声が出ない。辛うじて蚊の鳴くような微かな枯れた音が喉から絞り出せるのみだった。
目の前の黒き自分は、見ている自分自身に気づく様子もなく――あるいは気づいていながら気に留める必要すら感じていないのか――ラーハルトを見下ろし、妖艶に唇の端を吊り上げた。凡そ人間らしからぬ滑るような動きでベッドサイドに歩み寄り、愛し気にラーハルトの顔を見下ろす。その右手には、魔族文字の刻まれた、大剣。あの日ミストバーンから、仲間の命を奪えと手渡されたもの。ヒュンケルは目を瞠った。
禍々しい剣を、黒きヒュンケルは逆手に構え、ゆっくりと掲げる。そのまま勢いをつけて振り下ろせば、哀れにもそこにあるのは、ラーハルトのしなやかな首。
我を忘れて叫んだ。硬直する声帯を振り絞って。
――止めろ!待て!止めてくれ!嫌だ!!ラーハルト――!!
濁る視界。薄れゆく光景。己の口からではない、黒き己の声が、耳元で囁く。
――何故止める?こいつが欲しいのだろう。手に入れてしまいたいのだろう。オレならできる。素直にその爛れた欲望を曝け出せ。
――違う!俺はそんな汚らわしい事など考えていない!
――今更潔癖ぶる必要がどこにある?こいつだって本当はお前の事が欲しいのさ。いつもお前の見ていないところでお前を思って自涜している。
――黙れ!友を侮辱するのは許さんぞ!
――そうして聖人のふりをして、まったく白々しい事だ。お前のその手はとうの昔に罪に汚れ切っているのに――
咄嗟に息を呑み、目を見開く。そこには覚えのある、荒廃した光景が広がっていた。
崩壊した神殿。砕けた壁。折れて転がる石柱。悲鳴と怒号と狂気じみた泣き声。赤々と血に塗れて横たわる、無残な、戦人(いくさびと)達の亡骸。
その中央で、黒い”ヒュンケル”は、ラーハルトを抱き締め、妖艶に嗤っていた。何もできない”ヒュンケル”を見つめながら。
ラーハルトは死んでいるように動かない。その滑らかな藤紫の頬を白い指が伝い、形の良い頤を支える。
白い肌の中、異様に赤い唇が、ラーハルトのそれに重なった。
―――――………ッ!!!!!
大きく体を震わせて、ヒュンケルは意識を覚醒させた。肩で息をしながら、目だけで周囲を見渡す。
ランプの置かれたサイドテーブル。書き物机。外套の掛かった壁。間違いなく、ここは自分たちが泊っている宿屋の一室だった。
傍らには、敬愛する友ラーハルトが穏やかな表情で眠っている。整った唇から微かに聞こえる微かな寝息が、紛うことなき命の証を伝えていた。ちょうどこの日はシングル一部屋しか空いておらず、遠慮するヒュンケルの体調を案じたラーハルトが男二人での宿泊を強行し、ベッドの大きさを幸いに二人で潜り込んだのだ。
肺から絞り出すように、ヒュンケルは息をついた。
己の手は血で汚れ切っている。否定も拒絶もできない事実だ。多くの命を奪ってきた。剣を手に向かってくる兵士達。通用しない呪文を必死に唱え続ける賢者達。全てヒュンケルが切り伏せた。その傍らで幼い子供を抱え、泣き崩れる女。恐怖と怒りに満ちた眼差しをこちらへ向ける少年。大切なものを奪われる痛み。
忘れることは許されない、業だ。ヒュンケルは目を伏せる。
「ぅ…ん…」
ラーハルトが身じろいだ。小さな溜息のような声と共に、ゆるりと藤紫色の指が枕もとを探る。母親を求める幼子のように。
その指を、ヒュンケルは己の手で包み、しっかりと握り込んだ。伝わる体温。暖かい血の温もり。
許せとは言わない。許されるつもりなど毛頭ない。だが、今の自分にも守るべきものがある。師。後輩達。未来を担う民。そして――気高く高潔な、愛する友。一見不遜で冷徹にも見える態度の下に、細やかな優しさを隠し持つ友。
彼の優しさを独占してしまいたい。彼を失いたくない。彼がこの手から再び去っていくことは堪えられない。
世界のため勇者のためなどというおためごかしではなく、崇高な自己犠牲精神によるものでもなく、ただ自身の純粋な欲望によってヒュンケルは彼に執着する。まるでお前たちは二人で一つの武器の様だと、ロン・ベルクは言った。振る剣が、薙ぐ槍が、重なって見えるのだと。比翼の魂。ヒュンケルはその言葉に安堵と喜びを嚙み締めた。彼は、尊敬する友に相応しくあろうと精進してきたし、何よりも愛しい友の魂の傍らにあることを心に誓ったのだから。
彼をこの手から奪うことは許さない。例えそれが、自分が葬ってきた死者達の怨念であろうと――己自身の闇の姿であろうと。
ヒュンケルは窓の外を見上げた。新月の空が、闇を湛えて地上を吞み込むように広がっている。
「貴様などには決して渡さん」
淀む闇を見据え、ヒュンケルは決然と呟いた。