心に愛の降り積もる①その日は、いつもと少し違う日常の始まりとなった。
「やあ、レイシオ。このあと一緒にディナーでもどうだい?」
カンパニーのミーティングルームから出てきたレイシオは、アベンチュリンを一瞥するなり
「また君か」
とあからさまな溜息を吐いた。
実際、このやり取りもかなりの回数を重ねていて、カンパニーのピアポイントに勤務する一般社員の間では『ドクターあるところに総監あり』が周知の事実となっている。
「そんな顔しないでくれよ、レイシオ?もちろん、僕の奢りだから」
そうは言っても、今までアベンチュリンが奢らせてもらえたことは一度もない。
それどころか、『僕は忙しい。別の人間を誘うことだ』とバッサリ切り捨てた後にあっという間に歩き去ってしまうのだ。
現状では全敗という結果である。
それでも、アベンチュリンは暇ができればしつこくレイシオを食事に誘い続けている。
「毎回毎回、何故君は飽きもせず僕に声をかける?何が目的だ」
「えー?心外だなぁ。僕としては、君ともっと親交を深めたいだけなんだけど」
レイシオには、ただの軽口のように聞こえているだろうが、この言葉は紛れもなくアベンチュリンの本心だった。
アベンチュリンは今、ベリタス•レイシオという男ともっと親密な関係を気づきたいと思っている。
できれば、ビジネスパートナーから、友人という関係にもうワンステップ進みたかった。
「不要だ。君と僕はただの戦略的パートナーであり、ビジネスライクの付き合いで十分だ」
しかし、レイシオ本人はそうではないので、拒否の言葉を一息で言い切ったあとさっさと消えてしまうのが常だった。
しかし、本日はいつもと少し様子が違った。
いつも通り足早にカンパニーの廊下を歩き去ってしまうのかと思いきや、ふと、レイシオの視線がアベンチュリンに固定された。
立ち止まるレイシオに合わせて、アベンチュリンも歩みを止める。
「君は…」
「どうかした?」
レイシオは少し怪訝そうな顔をしたあと、無言でアベンチュリンに歩み寄り、虹色の瞳を隠しているサングラスを徐ろに取り上げた。
「レイシオ?」
じっとこちらを見下ろす双眸からは、感情が読み取れない。
さすがのアベンチュリンも、これには困惑の色を隠せなかった。
「えーと…僕の顔になにか?」
いつもの笑顔を崩さずに問いかけると、対象的にレイシオの眉間のシワが深くなった。
そして、何かを迷うように視線をすい、と泳がせたあと、再びアベンチュリンを見る。
「…僕を食事に誘うくらいだ。このあと時間はあるな?」
と、いかにも不機嫌そうな様子で訊ねた。
「まあ、そうだね…?」
ちょうど一仕事片付いたところだし、と付け加えれば、レイシオは
「ついて来い」
とだけ伝えて、そのままアベンチュリンに背を向けてスタスタと歩き出した。
「え、あ…ちょっとまってよ、レイシオ!」
アベンチュリンはよくわからないままに、慌てて後ろをついていく。
「一体どこに行くんだい?」
珍しく話に乗ってくれたのかと思えば、どうやらそうではないらしい。
「すぐに着く」
そうして、進んだ先にあったのは、かなり厳重にセキュリティが設置されているラボのようだった。
「ここは?」
「僕個人が使用しているラボだ」
「技術開発部って、レイシオ一人で回してるんだっけ?」
「そんなわけあるか。技術開発部のラボ自体は別にある。ここは、技術開発部で作成している案件の精査などをするんだ」
レイシオは、何を寝ぼけた事を、と鼻で笑ったが、そもそも技術部門の人数も案件もそれなりあるはずで。
それを全部チェックしているのであれば、やはり事実上レイシオ一人で回しているのと同義なのでは、とアベンチュリンは首を傾げる。
「座れ」
レイシオは中に入るなり、適当な椅子を二つ持ち出して、片方はアベンチュリンに腰掛けるよう促した。
そして、デスクの中からいくつか道具を持ち出すと、向かい側に自分も座る。
「いいのかい?僕がこの部屋に入っても?」
アベンチュリンはキョロキョロと物珍しげに辺りを見回している。
ラボと言う割にはこじんまりとした部屋には、広めのデスクと簡単な応接セット、あとは実験用台と器具らしきものと用途不明の機械がいくつか置いてあるだけで、室内はわりと片付いていた。
「かまわない。今は特に重要な案件もない。精々、明日の大学の授業の用意が置いてあるくらいだ」
気づけば、レイシオは首から聴診器を下げ、手には手にはペンライトを持っている。
「もしかしてだけど。僕…今から君に診察される?」
「そうだ」
だから上着を脱げ、と言われ、アベンチュリンは大人しく従う。
「特に体調は悪くないんだけど」
「その割にずいぶんと顔色が悪い。君は、毎朝鏡も見ずに身支度をしているのか?」
暗に、目の下の隈を指しているのだろう。
アベンチュリンもわかっているから、多少のメイクとサングラスで顔色を誤魔化していた。
けれど、こんなものは奴隷時代の生活に比べれば全然マシな部類だと思う。
「脈拍、異常なし。呼吸も正常。体温は…37.0、少し高いな」
レイシオはテキパキと脈と呼吸を計測し、耳に体温計を差し込んで、次々と検査していく。
あまりの手際の良さに、いつもはおしゃべりなアベンチュリンも、つい見入っている。
「血色が良くないのは…貧血か?」
ぺろりと下瞼を覗かれる。
「直近の食事は?」
「うーん…何だったかな?最近は忙しくて、サプリで済ますこともあったかも…」
「君はバカなのか?それは食事とは言わない」
「それはさすがにわかってるよ」
ただ、状況によってはゆっくりと食事…というわけにもいかず、その場しのぎのサプリメントだというのがアベンチュリンの言い分だ。
「なら、睡眠時間は?少なくとも僕の目には、君が十分な睡眠を得られているようには見えない。君ほどの実力なら、仕事の量くらい多少の調整はできるだろう?」
「まあ、そうかもだけど…睡眠は…あー、うん。でも、これは慢性的なものだし……」
「君、混沌医師の治療を受けているんじゃないのか?」
ピノコニーの一件を指しての台詞だ。
「もちろん、定期的な診察はうけてるよ」
けれど、正直なところあまり効果は実感できていなかった。
そのように答えると、レイシオは眉間にさらに皺を寄せる。
「治療は継続と根気と、何より君自身が改善しようとする意思が必要だ。他人任せにしていては、治るものも治らない」
「そういうつもりはないんだけどなぁ…?」
実際、アベンチュリンも医師の指示には忠実に従ってきたつもりだ。
けれど、睡眠を妨害する悪夢はどうしてもやってくるので、睡眠不足が慢性化してしまった。
「…三システム時間だ」
「えっ?」
唐突にレイシオは立ち上がると、どこから出したのか、ふかふか(に見える)クッションを応接用のソファーに置いた。
「先程、君は『時間がある』と言った。少なくとも、このあとは特別用事もないんだろう?」
「このあとどころか、明日も丸一日オフの日だ」
「それなら…君は一度、仮眠を取るべきだ。そして、三システム時間後、僕と食事に行く。それでいいな?」
突然の流れに、アベンチュリンは目を丸くした。
「もしかして、三システム時間も待っててくれるってこと?」
驚きのあまり、アベンチュリンはつい口に出して聞いてしまった。
「だからそうだと言っている。それとも、今すぐここから放りだして、君はきちんと食事を取って就寝するのか?」
それはあり得ないだろうが、という断定が言葉の裏に隠れている。
たしかに一人でここを出たとして、食事は適当に、睡眠もそこそこ…ということは自分でも安易に想像できた。
「わかったら、少し横になるといい。多少窮屈かもしれないが、仮眠する程度なら問題ないだろう」
そう言って、ぽんぽんとクッションを叩くレイシオに吸い寄せられるように、アベンチュリンはソファに移動した。
「それじゃあ、大人しく寝てるように。あと、セキュリティは掛けてあるが、間違っても部屋の中の物勝手に触るな」
アベンチュリンがソファに横たわるのを見届けたレイシオは、そう言いつけて立ち去ろうとする。
「え、待ってよ!君はどうするの?」
アベンチュリンは、慌ててレイシオの手を引いた。
「僕は少し出かけてくる。君だって人の気配があっては眠れないだろう」
「それにしたって、君、私室に他人ひとり残していくだなんて。僕のこと信用し過ぎじゃない?」
「…正確にはひとりでは無いが」
「他に誰かいるの?」
アベンチュリンは部屋を見渡すが、他に人の気配は感じない。
「なんでもない、気にするな。まあ、君はそんな非常識な人間ではないと思ったのは確かだ。それとも、添い寝でも必要か?」
レイシオは、彼にしては珍しく冗談でも言ったつもりなのだろう。
けれど、
「…添い寝、は…してほしいかも」
ほとんど反射的に出た言葉だった。
「あ!えっと、ごめん。子どもみたいこと言って…」
その言葉に、今度はレイシオが目を丸くする番だった。
けれど、アベンチュリンの顔を見ると、レイシオは特に何も言わず、先程までかけていた椅子をソファの横に置いて静かに座った。
「こんな狭いソファで、添い寝などできるものか」
「レイシオ?」
「喋るな、目を瞑れ」
そうして、ぱちりと見上げる虹彩に自分の掌を重ねた。
「深く眠るためには、呼吸を整えることが大切だ。あとは…何でもいい。嬉しかったことや楽しかったことを考えろ。マイナスの思考や記憶は自然と定着しやすい。大切なのはプラスの記憶を意識的に思い出すことだ」
いつも通りのぶっきらぼうな口調で話す声が、アベンチュリンの耳に心地よく響く。
自分より少し大きな手で遮られた目元がじんわりと温かい。
吸って
吐いて
吸って
吐いて
言われたように、目蓋を閉じて耳を澄ます。
呼吸を整えるように、ゆっくりとかけられる声につられて、アベンチュリンの呼吸も深くなっていく。
楽しいこと…嬉しいこと。
すぐに思い浮かぶのは、今、目の前にいる人物のことだった。
自分の事など放っておけばいいのに。
なんだかんだで世話を焼いて、結局添い寝まで付き合ってくれるだなんて、お人好しも度が過ぎているのではないかと思う。
それに、添い寝が欲しいと言ったアベンチュリンを彼は笑わなかった。
それだけのことが、何よりも嬉しい。
「おやすみ、ギャンブラー」
普段より柔らかな声音が遠退いていく。
その日、アベンチュリンは久しぶりに悪夢を見ない眠りについた。
◆
「また来たのか、」
レイシオはうんざりとした様子でこめかみを抑えている。
あの日以来、アベンチュリンはレイシオの出待ちからラボへの押しかけに路線を変更していた。
プライベートスペースに安易に招き入れてしまったのはレイシオにとって悪手だった。
または、アベンチュリンにとっての幸運と言う。
「まあ、そう言わずに!忙しい君のために、差し入れを持ってきたよ」
そう言って有名パティスリーの紙袋をちらつかせれば、甘いものが嫌いではないレイシオは、黙って簡易コンロでお湯を沸かし始める。
「それで、これを食べたら帰ってくれるのか?」
淹れたての紅茶を並べながら、レイシオはアベンチュリンの対面に座る。
袋からタルトの入った紙箱を広げているアベンチュリンは、
「できれば、また少しだけソファを貸してもらえると嬉しいな」
と悪びれなく答える。
すでに何度もなされているやりとりに、レイシオは返事を返さない。
彼の無言は了承の意だった。
「ありがとう、助かるよ」
と伝えれば、レイシオも
「好きにしろ」
と言ってカップやフォークを片付けると、さっさと自分の作業へ戻っていく。
アベンチュリンの指定席となっているソファの横には、小さなバスケットが置いてある。
中には枕とブランケットとアイマスクが一組。
アベンチュリンの押しかけが3回を超えた時に設置されていた。
レイシオは、自分の仮眠用に用意したものだと言ったが、初回はただのクッションしか置いていなかったことは記憶に新しい。
なんだかんだと文句を口にしているが、レイシオはいつもアベンチュリンを観察している。
あれから、目の下の隈は少し薄くなった。
けれど、教えられた通りにしても、自宅の寝心地のよいベッドではあまり寝ることができず、もっぱら睡眠らしい睡眠は、他人のラボの窮屈な応接用ソファでしか取れていなかった。
レイシオも恐らく気づいているから、アベンチュリンを叩き出すことはしないのだ。
アベンチュリンも、それをいい事にして隙あらば入り浸る日々が続いている。
優しいなぁ、とつくづく思う。
本当は、もっと友人らしい関係になりたいと思っているし、今はそれに近い状態ではないのかとアベンチュリンは思っているが、レイシオは未だにただの仕事仲間程度の仲から進展させてはくれない。それ以上の関係になる事を明確に拒絶している。
けれど、アベンチュリンは今、わりとレイシオの内側に居座っている気がする。
こんなにも矛盾を感じるこの関係の名前は、果たして何だろうか。
そんなことを考えながら、意識は自然と闇に溶けていった。
ーピピピ…
と時間を知らせるアラームが鳴る。
それと同時に、
みゃーう、みゃーう
何故か猫の鳴き声が聴こえている。
そういえば、お腹の辺りもなんだか温かい気がする。
時間を知らせている端末を手探りで止め、アイマスクを持ち上げれば、アベンチュリンの視界にうっすらと光が差し込んだ。
「…おはよう、レイシオ」
目蓋を持ち上げて拓けた視界に、こちらを見下ろす顔がある。
「すまない、邪魔をした」
「大丈夫、ちょうど時間だったし」
おかげで、仮眠と言えどずいぶんと思考がスッキリしている。
ありがとう、と答えるアベンチュリンは、わずかに眠気を残した顔で、辺りを見る。
「ところで…この子たちは?」
自分のお腹の上に陣取る、不思議な生き物がいた。
みゃうみゃう、と鳴いている猫のような生き物は、さらにソファの下から二匹、アベンチュリンの上によじ登って来る。
全部で三匹の重さを抱えたまま、アベンチュリンは起き上がれなくなってしまった。
始めて見る生物だが、どうやら人なっこい性格のようで、揃ってアベンチュリンにすり寄ってくる。
「これは…天才クラブのルアン•メェイの創造物だ。知能が高く、基本的に人懐っこい個体が多い」
「へぇ?君のペットなのかい?」
アベンチュリンはルアン•メェイのことも知らないし、創造物というのもよくわからなかったが、とりあえずそこはさして重要ではなさそうなので話を続ける。
「いや、開拓者に頼まれて、里親が見つかるまで一時的に預かっているだけだ。普段はここで生活させている」
「でも、これまで見かけたこともなかったけど」
「普段はこの部屋に僕以外は立入らないからな。しばらくは君を警戒して隠れていた」
そういえば、アベンチュリンが初めてここを訪れた時、『ひとりでは無いが』と言っていたのはこれの事かと思い当たる。
全く気配を感じさせない、器用なかくれんぼだった。
「君が毎度毎度ダラシない顔で寝ているから、警戒心も解けたらしい」
「そっかぁ。それじゃあ、この子たちに受け入れてもらえたってことかな?よろしくね」
わらわらと群がる創造物たちに、アベンチュリンはにこにこと話かけている。
どうやら、生き物は嫌いではなさそうなアベンチュリンの様子に、レイシオはふむ、とひとり頷いた。
「…君の自宅だが、」
「うん?」
「ペットの飼育は可能か?」
返事の代わりに、アベンチュリンはまばたきを二つだけ返した。
◆
ルアン•メェイの創造物、通称お菓子たちは今、アベンチュリンの自宅にいる。
要は、アニマルセラピーを試してみてはどうか、という話だった。
「ひとりで眠れないなら、傍に話相手を置いてみるといい。彼らは、共感覚ビーコンで意思疎通できる。」
レイシオの見立てでは、アベンチュリンは一人でいることに不安を感じているから悪夢を見てしまうのだろうと考えたようだ。
アベンチュリンの見解ではそれは違うのだが、わざわざ口にする事もないと飲み込むことにした。
それに、せっかくの彼の好意も無駄にはできない。
そういう理由で、3匹のお菓子がアベンチュリンの自宅に居候する事になった。
これまで、ペットの飼育とは無縁な人生だったので些か不安はあったものの、基本的に賢く優しい生き物たちとは大きな問題もなく過ごせている。
睡眠の時間も少しずつ増えた。
それどころか、もっと大きな収穫もあった。
「君たち、いつも僕の隣に来るね」
寝床はきちんと用意されているのに、就寝する時には三匹ともアベンチュリンの周りに集まっている。
寝るときはみんな静かにお行儀よくしているので特に困ったことではないが、ひとりでは持て余していた広いベッドは、今や満員御礼状態だ。
「きょーじゅが、『そばにいてあげて』って言った」
「レイシオが?」
「アベンチュリンが泣いてたから『寄り添ってあげるといい』って」
「…僕、泣いてたかな?」
アベンチュリンに、その記憶はない。
それどころか、夢を見た感覚すら残っていなかった。
さらに、アベンチュリンは比較的他人の気配に敏感であるはずなのに、生き物たちに気づくことさえなかった。
「泣いてた。きょーじゅのお部屋で」
「でも、アベンチュリンぐっすり寝てたね」
それを聞いて、ぎゅうと、胸が苦しくなった。
お菓子たちと初めて会った日、眠りから覚めた視界に入ったレイシオは『すまない』と言った。
あれは、あの日が初めてだった訳では無いのだろう。
たまたまあの日、彼はお菓子たちの回収のタイミングを見誤ったのだ。
「君たち、ずっと傍にいてくれたんだね」
「きょーじゅが『静かに』って言ったから、静かにしてたよ」
「そっか…」
あの部屋は…レイシオの傍の空気は、心地よい。
本人にその気はなくとも甘やかされている、とアベンチュリンは思う。
レイシオとアベンチュリンは、未だにビジネスパートナー以上の関係ではない。
アベンチュリンはこの関係に「友人」という名前をつけたいけれど、相手がそうでないと言うなら、それ以上にはなれない。
こんなにも許容されているのに、アベンチュリンから踏み込む事は許されないこの関係はなんなのだろう。
「ねぇ?今日は君たちのこと、抱きしめて眠ってもいいかな?」
そう言うと、三匹はピッタリとアベンチュリンにくっついてくる。
抱きしめた優しい生き物の体は、とてもあたたかかった。