GG/カイデズとパラダイム 静止した時の中で彼女は眠っている。いつとは知れぬ目覚めのときを待つだけしかできない歯痒さを覚えても、まさしく違う世界に隔てられた自分には何もできないのに。
「まあ、ただ待てというのも酷な話だがね」
諭すような声を向けられ、カイは苦笑する。
「そんなにわかりやすい顔をしていましたか? 私」
ディズィーが封じられた時の結晶の前、小柄な体躯はふわりと浮かび、その目線は対等な高さでカイを見遣る。
「造作が良いと愁眉も絵になるがな。憂いというより焦がれるといった方が正しいのかも知れんが」
鳥――本人の言に従えば竜の姿を持つこのギアは実に聡明だったが、胸中まで見透かされているのだろうか。
「言ったでしょう、恋をしたと。現在進行形なんですよ」
そう笑って返すと、大袈裟なくらいにパラダイムは肩をすくめた(正確に言えば、少し両翼を持ち上げたといった具合なのだが)。
「さし支えなければで構わないのだが、馴れ初めを聞いても?」
しかし至極真面目な表情でそう続けるものだから、少し驚いた。
「俗な野次馬根性と一緒にされるのは心外だが、正直興味深くはある。……奥方はギアだろう?」
それが人の世に馴染まない、違う理で生きるものであることを彼は告げていた。そう言えば彼の瞳も赤いのだと、カイはその理性的な光を湛えた目と自身のそれを合わせた。
「そうです。出会ったとき、私と彼女は人間とギアであって、それ以外の何者でもなかった。……貴方の前で言うのも憚られるが、それまでの私にとってギアとは何の斟酌もなくただ滅ぼすべきものでした。ただギアという存在であるだけで。そこに何の余地もなかった」
「人間とギアの関係などそういうものだ。今更気にすることでもない。ただの歯車に過ぎないギアは哀れだとは思うがね、自らの意志を獲得してしまったギアもまた限られた場所でしか生きてはいけぬ。人が生きる世界の、どこに行っても居場所など無いのだから」
言葉通り、別段気にした様子も無くパラダイムはそう言う。同時に、人間に対する期待も関心も薄いのだとわかる口調だった。結局ジャスティスの制御から外れたギアは、大なり小なり同じ考えを持つに至るのだろうか。人間になど関わりなく、相容れない者として、互いに交わることも無く。
「……そう、彼女もまた同族の庇護者のもとでそのように生きていました」
思えばテスタメントが画策したあの儀式から、何もかもが変わってしまったのだった。
「彼女と出会う少し前に、今までの価値観を揺るがすようなことがあったんですよ。そこで私は突きつけられてしまった。」
ジャスティスの声が今も脳裏に響いていて、自分の内で問いかけている。
「一面でしか見ていないものを、『このようなものである』と定義してしまうことの恐ろしさ。それは盲信と何が違ったのか。今まで正義と信じてきたことは、果たして本当にそうだったのだろうか……。あの頃はそんなことばかり考えていた。そう、ソルがギアだったと知ったのもあの頃でしたか。自分は本当に何も知らないのだと、ようやく気付かされた、そういう時期でした」
「ソクラテスかね。『無知の知』だな」
パラダイムがよどみなく古代の哲人の名を挙げる。カイは「そんな大層なものではありませんでしたけど」と苦笑しつつ、当時を思い起こす。
「だから奇妙な賞金首に興味はあった。人を襲わないギア……実際会って驚きましたが」
深い森に守られた小さな箱庭のような場所。躍る陽光の中で、鳥や小さな獣と戯れる少女は、幼い時分に読み聞かせてもらったおとぎ話を思わせた。けれどそれは紛れもなく現実で、人ならざる翼と尾はそれが仇敵に属する者だということを告げていた。ただ、その瞬間に去来した感情――衝撃を今も覚えている。まるで嵐のように吹きすさぶそれ。
「穏やかで争いを厭い、自身を狩りに来た人間を追い返すことにさえ心を痛めていた。私が知るギアの定義を全て覆してしまう、そういうひとでした」
だからこそ彼女は苦しんでいた。自身のささやかな望みとは真逆の、強大な力を持って生まれ落ちてしまった異端のギア。
「ジャスティスの後継でありながら兵器とはかけ離れた精神性を持っていたと? ……それはつらかっただろうな。性質と性情があまりにも違い過ぎている」
同族ゆえの共感と、高い知性からの洞察。パラダイムは唸るようにディズィーを見上げる。
「そうだったのだと思います。でも彼女は自分自身と向き合って、停滞ではなく、勇気を持って新しい世界に踏み出すことを選んだ」
ただ自分の力に振り回されるのではなく、それを自分のものとすること。そう決めて彼女は人と生きることを選び、居場所を見つけた。
「彼女が身を寄せた先に私も多少の縁があったものですから、会う機会もそれなりにあったんですよ。二人で色々な話をしました。そのほとんどが他愛もないことでしたけれど」
それだけで良かったのに、それ以上を望んでしまった。
「いつしか彼女と会う時間が待ち遠しくなって、会えば離れがたくなったときに、ようやく私は自覚したんです。これがひとに恋をすることなのだと」
「それが禁じられていると分かっていただろう」
パラダイムのその言葉は、とうの昔にカイ自身が自分の中で何度も聞いた声だった。
「分かってはいましたよ。人並みに罪悪も背徳もきっと感じていた。でも存外私は愚かだったらしい。賢明な選択は捨ててしまったので」
これは禁忌だ、と頭の中で冷たい声がする。彼女と過ごす時間を愛おしく尊いものと思うほどに、理性はそれ以上近付けば後戻りはできないと警鐘を響かせる。それなのに感情はその手を取ることに何の躊躇いも感じていなかった。
「世界が色を変えるとはこういうことだったのか、と思いました。何気なく見ていた普段の景色が急に鮮やかに感じられたり、感覚そのものがまるで違うものになってしまった。ただ彼女がいる世界に自分もいると思うだけで。……互いの想いを確かめ合って、私たちは限りある時間を共にすることを誓った」
ぎこちなく触れた肌は人と何も変わらない温かさを宿していて、どうしようもなく心臓が鳴った。初めてふたりで迎えた朝、うっすらと瞼を開けると羽繕いをしている彼女が視界に入った。現実離れしたその光景に夢を見ているのだと思った。半ば寝ぼけたような思考とも付かない何かがふわふわと頭の中を巡り、そうしているうちに彼女が振り向いた。朝の挨拶と共に呼ばれる自身の名。意識が現実に定着したことがわかった。手を伸ばせば触れられる距離。思わず掴んだ彼女の腕、勢いのままに自分の両腕に収めてしまう。少しだけ驚いたような顔を向けた彼女がその中で身動ぎをした。
夢みたいだ、とぽつりと落ちた声は、いいえ、夢ではないんですよ、という応えに掬われた。
『ちゃんと触れられるもの』
彼女の伸ばされた手が、自分の頬に触れる。確かに夢ではなかった。夢であったらこんな風にはっきりと体温の違いなど感じない。額に口付けて、それから唇に。幾度も、落として。
比喩でなく熱に浮かされていたのだと思う。縁遠かったアルコールからは知らずにいた酩酊感を覚えて、頭が正しく働いているのかもだいぶ怪しかった。けれどそんなことさえどうでも良いと思えた。朝の光がまぶしくて、あらゆる幸福に満たされている気がした。誰も知らない、その小さな部屋の中。ただふたりだけで身を寄せ合っていた。それだけで世界は美しかった。
思い出して、思わずくすりと笑ってしまった。
「……若かったんでしょうね。情熱だけでああも動けるとは知らなかった」
言外の何かを察したらしく、パラダイムはいよいよ目線を遠くに向けた。
「まだ若いだろう。嘆くような歳でもあるまいに」
「あの頃のようにはできないな、と思うだけですよ。……あまりにもいろいろなことが変わってしまったので」
そう、変わってしまった。望むと望まざるとにかかわらず。
「それから間もなく、シンを授かって……あの子は卵から孵りました」
「卵生だったというのか」
意外そうにパラダイムは目を見開く。博学な彼にも知らないことというのは存在したらしい。それもそうだろう。自分たちの他に例があるのなら教えて欲しいところだった。
「そして成長も通常の人の速さとはまた異なっていた。私が覚悟を決められない内に、あの子は生まれてきました。……彼女を愛したことを悔いてはいませんが、それがどのような意味を持つのか、どこかでわかっていながら目を背けた。シンがあるがままに生きられる世界ではなかったのに。あの子は何も悪くないのに隠れるような生き方を強いてしまった。自分の存在を否定されたように思ったでしょう。私は父親として、ひとりの人間としてシンと上手に向き合えなかった。……人の世でギアの存在が悪であると言うのならば、私の行いこそ罪そのものだ」
代償を支払い終えたとは思っていない。これは生涯を賭けて負うべきものだからだ。
「あとは御存知でしょう。不甲斐ない私に代わってソルがシンを育て、私は傀儡の王としてこの国に留まり続けた」
「随分舐められたものだな。扱いやすい人間と思われたかね」
傀儡という言葉のその意味を、パラダイムは理解したらしい。
「ええ。でも結果的にはこれで良かったのかもしれない。ディズィーやシンが人の世界で生きるために、世界の方を変えろというのであれば、変えてみせる。精々あるものは使わせてもらおうかと」
いつまでも忠実なる飼い犬でいる気は無かった。勝ちに行きたいのであれば、機が熟す瞬間を見逃してはいけない。
「生き生きとしているな、連王よ」
その指摘に、少しは強かになっただろうか、とカイは笑う。
「そうでしょうか? ……そうかもしれませんね。私もようやく覚悟が決まったので」
バプテスマ13は確かに脅威ではあったが、忘れかけていた不撓不屈の精神を引きずり出された。そういうものが自分の中で眠っていたことに、まだ何も始めてさえいなかったことに気付かされた。
ディズィーを擁する硬質な結晶体。カイがそれに触れても何の反応も変化も無い。それは世界を隔てるものであったが、同時に彼女を守る堅牢な殻でもあった。
「彼女が消えかかったとき、本当に心臓が凍るかと思いました」
いくな、いかないでくれ、と無意識に零れ落ちた声。冷静でいられた自信も無かった。ただ無我夢中で取った行動は、彼女の昇華をかろうじて抑えたらしかった。そのために失ったものが何であるのか、気が付いたときにはすべてが終わっていた。つまり手に馴染むあの剣は自分の手元から離れていたのだった。
「……封雷剣を手放すべきではなかったでしょう。脅威が続くのだとわかっていればなおのこと。それでも喪うのは耐え難かった」
最悪を回避できたのは僥倖に過ぎない。そうでなかった場合を、考えることさえおそろしい。
「シンを母親から引き離しておいて、申し訳が立たないことは重々承知ですが……彼女のいない家に帰るのが、正直に言うとつらいときがあったんです」
静寂とはこういうことか、と思わせられる灯りと温度の無い誰もいない部屋。その内に、決裁書類も溜まっていることだし、と誰にするでもない言い訳をして、仕事場で夜を明かすこともめずらしくなくなった(そして翌朝側近に見つかって、多分に気遣いからの小言を言われることも)。いつの頃からか、あまり疲労を感じずに済むようになってしまったことも影響していたのかもしれないが。
「これは弱さでしょうか。失うものを知らずにいれば恐れることなく戦えたかもしれないのに」
「……人間の精神性など私の専門外だがね。恐れを知っている者の方が最後まで生き残るものだよ」
さてそれは経験則に基づく知見であったか、あるいは彼なりの慰めだったのだろうか。パラダイムは続けて口を開く。
「『あった』と言うのであれば、今は違うのだろう? この部屋の機密性を考えればある程度はわかるが、私がこの城に逗留し始めた頃は、人が寝静まった深夜にひっそりとここへ来ることが多かった。それがだんだんと常識的な時間になってきたので、生活ペースが変わったのだろうと思っていたが」
「その節は御迷惑を……。そう、ですね。一応意識して帰るようにはしています。家のこともちゃんとしないとな、と思えるようになったので」
たとえばキッチンの細々した整理。封を切ってそのまま忘れられているような茶葉。密閉された缶の蓋を開けると、果実を思わせる甘い匂いがした。季節の限定品で、彼女が好んでいた紅茶だった。ディズィーが淹れた方がやはり美味しかったけれど、彼女が戻ってくるまでに自分がもう少し上手く淹れられるようにしておけば良いのだと思った。
「寂しくないというのは嘘になりますが、ひとりになって気付くこともたくさんあったので」
「失ってからでないと気付けないのは人間の、知性を持つものの悪い習性だな。その点、カイ殿はまだ失っていない。いくらでも変えられる」
「そうでありたいと思います。……そうしなければならないんです、今度こそ」
再び彼女の手を取れる日が訪れるまで、ただ待つだけにはしない。
「……さて、馴れ初めにしては少し長くなったような気もしますけど、こんな感じでいかがでしょうか」
そう問うと、パラダイムは目を瞬かせ、次いで答えた。
「蒸発しそうだ。ただの惚気だろう」
その返事に、カイは声に出して笑った。
「それはすみません……惚気ることなんて、こういうときでもないとできないものですから」
「いやはや、聞いているだけでなかなかに満腹感を覚えるな」
パラダイムはそう言いながら封じられたディズィーを見遣る。厚いレンズの向こうの赤い眼が、少しだけやわらかくなったと思ったのは、気のせいだろうか。
「……迂闊なことは口に出せないが、まるでお手上げという状況でもない。今言えるのはその程度だな」
それが封印解除の目途のことだと気付いて、カイは口元を緩めた。
「可能性がゼロと言われるより、ずっと良い。……ありがとうございます」
礼を言うのは早いぞ、と返されたが、勤勉な性質のギアは自らの蔵書を紐解き始める。そう言えば、彼は器用にカップを傾けながら作業していることもあるのだった。
「時にドクター、フレーバーティーはお好みですか」
唐突かとも思ったが、そう訊けばパラダイムはきちんと顔を向けて答える。
「特別好みというわけでもないが、苦手でもない。それがどうしたね」
「封を切ってしまったのですが、量がそれなりにあるもので。良ければ召し上がってもらえればありがたい」
「私でよければご相伴に与るが。……人間と茶を飲むようになるとは、よもや思わなかったな。生きていると、まあいろいろなことがあるものだ」
それはカイも同じだった。たとえば十年前の自分が聞いたらどう思うだろう。それどころかギアを妻としたと知ったとしたら。おそらくあり得ないと断じるだろう。
あり得ないことなど、あり得ないものだ。そのことをまだ知らなかった。
「よろしければ茶飲み仲間くらいになってもらえれば」
「考えておくよ。さて、今日も良い時間だ。遅くならないうちに帰りたまえ」
目線は書物に向けられたまま、パラダイムはそう促した。
「では、今日はこの辺りで」
おやすみなさい、と声をかけると、片手を振って返された。
そしてもう一度彼女に目を向ける。刹那とも永劫ともつかない時の中で、長い夢を見ているのかもしれない。
「おやすみ、ディズィー」
彼女の見る夢が、良いものであることを祈った。