GG/猫とシンとレオと、ときどきカイ 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
という一節から始まる小説が、今となっては亡国となった彼の国にあった、らしい。もっとも私もまた猫であるがゆえ、その内容までは知らないが。
私の名前は無いこともないが、ここの人間は好き勝手に呼ぶので決まった名前など無いし、そのすべてが自分の名前と言えよう。つまり、クロだのかぎしっぽだのくつしただのギザミミだの、それらはすべて私を呼ぶときに人間たちが口にする名前だったので。
縄張りにしている領域――人間たちはここをイリュリア城と呼んでいる。その昔、母が子猫だったとき、ここはおよそ人の住まう場所ではなかったのだという。大昔から大変な繁栄を謳歌していたこの都市は、しかし完膚なきまでに破壊された。その頃は何だかよくわからないいきもの(ギアというらしい)と人間は血で血を洗うような戦いを繰り返していたらしいので。そして、人々再び街を整備し、いつの間にかこんなに大きな城まで建てられた。私が生まれたのは、この城が建ち、『王』と呼ばれる人間がここにやって来てしばらく経ってからだった。そう語りながら、ずいぶん平和になったものね、と老境の域に入った母は笑った。
この城の人間は、彼らにとって不都合なことをしなければ特に追い立てることもなく、だいたい放っておいてくれた。それどころか猫を見ると構いたがる人間も多いので、ほどほどに相手をしてやることにしている。そういう風に概ね平穏に暮らしていたが、しばらく前から奇妙な侵入者や巨大ななんだかよくわからないもの(あれがギアなのだと、ここが焼け野原だった時代を知っている老猫は言っていた)がやってきて、普段はどちらかというと呑気にしている人間たちも、空気を張り詰めていることが長く続いた。それと同時に、見慣れない人間が増えてきたことも。例えば――
「お、ギザミミ」
彼は私をそう呼んでいた。人間にしても大柄な男。彼は『王』と呼ばれる人間のひとり。確か名前はレオ。何度もこの城で見かけたことはあるが、それはあくまで訪問者という位置付けのはずだった。それがここしばらくはずっとこの城にいるようだった。
「おまえはいつもこの辺りで寝てるなー」
ここが私の気に入っている昼寝ポイントなので。それを伝えようとも思わないし、そもそも伝えられる方法も無いわけだが。ただその無骨な手のひらで撫でられることは、別段不快でもなかった。外見から思うと、少々意外なほどに丁寧な触り方をする。案外細やかな人間なのかもしれない。
「……猫相手に油を売っている場合でないのはわかってはいるんだがな」
人間全般に言えるかどうかはさだかではないが、ひとりのときに彼らは不平不満をこぼしたりする。猫相手だと思って、割と好き放題吐き出していくのだ。別に私に損があるわけでもないのだが。
「ここにいても厄介事ばっかりだし本国に帰れば帰ったで決裁が溜まっているし詰んだな」
あー仕事したくねえ、としまいには盛大な溜息を吐くので、人間とは難儀ないきものだ。しばし彼の些細な愚痴(にしては少々スケールが大きかった気もするが)に付き合っていたが、そこに何の前触れもなく、盛大な着地音と共に降って来た『なにか』が目の前に現れる。
「あっヤッベ……」
それは人間――少なくとも人型のいきものだった。この『王』ほど大柄ではないが、それなりの質量を持つ人間が。
いきなり、上空から落ちて来た。
「何なんだ‼ いきなり‼」
本気で驚いたらしいレオは思わず私の脇を抱え、そこを飛びのいた。人間にしては大した反射神経である。さすがの私も一瞬肝を冷やした(自分で避けた方が速かったような気がしないでもないが、そこは置いておこう)。
「シン‼」
上階の窓から身を乗り出して声を荒げている男がいた。眉をひそめ、明らかに怒っているのだとわかる様相で。
「下に人がいたらどうするんだ! ……っと、レオか。すまない、無事か?」
「……おう、寿命が若干縮んだくらいだ」
私を抱えながら、レオが頭上を見遣る。
「それは悪かった」
そこで上階の男――彼がこの城の『王』だった。カイ=キスクという人間だ――がわずかに笑うが、すぐにまた厳しい表情で、落ちて来た人間(シンというらしい)に目を向ける。
「シン、そこで待っていなさい。レオ、シンを捕まえておいてくれ」
そして窓の向こうに姿を消した。
「ああまでヤツが怒るのは、最近はめずらしいんだがな。……一応聞いておくが、何をしたんだ?」
レオが怪訝そうな表情で視線を向ければ、目を泳がせながらシンは言った。
「えっと、近道だなって思って窓から飛び降りたら、カイに見つかった」
彼が降りて来た窓は、少なくとも見上げなければいけないような位置にあったし、猫であればいざ知らず、人間が飛び降りるにはおよそ不向きな高さだった。良くて足を挫くか、下手をすれば大怪我、あるいは生命の危機程度には陥りそうな。
「……そうか。いや、これ以上は保護者に任せよう」
痛む頭を押さえるように眉間に手を遣り、そこでレオはようやく私を放すことに思い至ったようだった。
「あ、くつした」
ぴょんと地面に降り立った私を見て、シンはそう呼んだ。それもまた私の名である。
「くつした?」
「最初見たときに、一緒にいた人がくつしたって呼んでたから。黒猫だけど、後ろ足の先っぽだけ白いじゃん」
なるほど、と口にしながらレオは続ける。
「俺はギザミミって聞いたな」
「そう呼ぶ人もいるよ。いっぱい名前あるんだ、こいつ」
シンが私の背中を毛並みに沿って撫でるが、レオと比べれば遠慮がないと感じられた。子どもの撫で方はいつもそうだ。彼は大人のようにも見えるが、実際のところ、まだ子どもなのかもしれない。これだから人間はよくわからない。
「レオのおっさんはさ」
「そう言われるほど歳は取っていないと言っただろう。……何だ」
あきらめを多分に含んだ苦々しい表情で返すレオとは対照的に、シンは屈託の無い表情だった。
「カイと昔から友達なんだよな」
「まあ、そうなるか」
「昔からあんな感じだった? マジメってゆーか、すぐ怒るってゆーか」
今のは怒られても仕方がないと思うが、と切り出してから、レオは口を開く。
「そういう意味合いでなら、そうだな。昔の方がもっと融通が利かなかったが」
「マジか」
「ルールは厳守、相応しくないものがあればそれを是正する。組織の秩序を守るにはそうでなければいけない部分もあったからな。……君は戦後生まれだものな」
それを聞いて不思議そうに目を瞬かせるシンを眺め、彼は少しだけ口元を緩めた。
「……変わっていったのは、年齢的なものもあるだろうし、立場が変わったのもあるだろうが、一番はきっと君達がいたからなのだろうな」
何故だか感慨深そうにレオはシンを見ていた。
「良い意味で柔軟になった。最近はムカつくくらいに随分と余裕が出てきたしな」
そうかと思えば、一転して鼻で笑うような表情をする。
「それ、俺と何か関係あんの?」
「目の前に理由があった方が、モチベーションの維持にはつながりやすい」
「えっと、つまり?」
「君がいた方が、あいつが頑張れるってことだ」
「……そっか」
それを聞いたシンは寝転んだ私を撫でることに終始していたが、その俯いた顔がどことなく嬉しそうだと思う程度には、私も人間の心の機微をわかっているつもりだった。
「あいつが来る前に逃げないのか。捕まえとけとは言われたが、君が本気になれば俺も出し抜かれかねないからな」
そこまでの義理は無いからな、と言われ、シンは首を傾げる。
「んーー、逃げてもどうせ家に帰ったら怒られるし。だったら面倒なことはさっさと済ませちゃった方がよくない?」
「そこまで頭が回るんなら、何故ああいうことを……いかん、俺は何も言わんからな」
ぽつりぽつりと取り留めの無い話が続き、しかし結局話題の中心はカイ=キスクに関してのことだった。どうもこの二人の最大の共通点は彼の人物らしい。
「でもさ、カイよりおっさんの方が教え方はわかりやすいかなーとは思う」
「そりゃどうも。あいつは頭で考えるより先に感覚で出来ちまうことが多いからな。それを的確に人に教えられるかは、自身の能力とまた別の話だ」
「そう、なんか説明がふわっとしてよくわかんないときがあるし」
わかる、とレオが相槌を打つ。
「天才の頭の中身は他人には理解し難いからな。……もっとも、君はあいつ以上に天才肌だと思うがな。体術にしても、雷の法力の制御にしても。多少荒いが実戦に耐えうるものだ」
「そっかな……カイにしょっちゅう基礎がなってないって言われるけど」
「基礎がなっていないのに、あそこまで動けること自体が尋常ではない。きちんと学べばより効率的に技術を習得できる」
「どういうこと?」
「君はまだまだ強くなれる。それこそ、ソルやカイと同等か、あるいはそれ以上に」
そう言われ、わかりやすく嬉しそうに照れる。そうして見るシンはやはり子どもの表情をしていた。
「おっさんもめちゃくちゃ頑張ったから強くなったの?」
「これでも人並み以上の努力はしてきたからな。元より優秀なのに、努力を怠らなければ俺みたいになる」
「お、おう」
気圧されたようにシンは返したが、果たしてそこは笑うところだったのだろうか。私にはわかりかねた。
そうこうしている内に、人間がもう一人やってきた。件の、カイ=キスクだった。
「逃げずにちゃんと待っていたのはえらかったな、シン」
先ほどよりは落ち着いた口調で切り出し、しかし続くのはやはり説教だった。
人にも自分にも怪我の危険があり、マナーの面でも禁忌であり、他の人が見たときに驚かせてしまうようなことはやってはいけない。まるっきり小さな子どもに言って聞かせるような話だった。
「今回はレオだったから良かったようなものの、他の人がいたら大怪我になっていたかもしれない。そういう危険があることはしてはいけない。わかっていただろう」
良くはないぞ、とレオが小声で付け加えるが、残念ながらそれは汲まれなかった。
「お前が痛い思いをするのも母さんが悲しむ。わかったらもうやらないこと」
シンにとっては、これが一番効いたらしい。そうまでさせる母親とはどんな人間だろう。少しだけ興味が湧いた。
「わかったら、この話はおしまいだ」
神妙な顔をするシンの頭に、ぽんと一つ撫でるようにカイが手を置く。それが合図だったかのように、彼の表情がやわらかくなった。
「で、二人で何を話していたんだ?」
「お前の悪口」
レオの即答に、だと思った、とカイが笑う。
「お前にはいろいろ知られているから言い訳が立たない」
「安心しろ、倅の方はちゃんと褒めといた。お前には勿体ないくらいの良い倅だからな」
「それは、ありがとう」
何の臆面もなくそう返すカイに、レオは、ただの親バカだったなあお前、と何とも言えない表情をした。
さて、一段落ついたようなので、私もそろそろお暇するとしよう。寝転んでいた体を起こした私に、カイが視線を向けた。
「ああ、クロもいたのか」
そう、ずっといたのだが。
「カイはクロって呼ぶんだな」
「誰も同じ名前で呼ばないな」
シンとレオは顔を見合わせ、カイが膝を落として私の頭を撫でた。加減を心得ている、慣れた手つきだった。この三人は誰一人同じように私を呼ばないし、撫で方もまったく違っていた。
「さて、次の予定までしばらくあるんだが、どうしたものかな」
そう言いつつ、カイの目線は自らが佩く剣に落とされていた。
「それ、元に戻ったんだろ」
同じようにそれに目を向けるシンの声は、どこか期待するように弾んでいる。
「ああ。それも少し見たいからな。……シン、少し付き合ってくれるか」
楽し気に、カイはその剣を抜いた。同時に光――あれは雷だ――がその刀身に絡みつくように走る。
「俺が勝ったら、こないだの店のパイ、ホールで!」
シンも同じように、けれど彼の場合はなぜか旗を構えていた。あれは一般的には人間の武器に相当するものではないと思うのだが。
「では私が勝ったら、宿題に加えて書き取りをプラス5ページ。条件はそれでいいだろう?」
「……なかなかヘヴィだぜ」
「自信が無いと?」
「んなことは! 言ってねぇ‼」
あれは遊びの範疇なのだろうか。彼らは実に楽しそうだった。同じような顔をしていても、その印象はまるで違っていたのに。それが今は同じ表情をしている。
「ああして見ていると、やっぱり親子なんだよなあ」
平和だなあ、と落とされたレオの呟きに、賛同の意味を込めて私も一声、にゃーと鳴いた。