心の穴、埋めます 見慣れぬ看板に立ち止まった。
心に空いた穴、お埋めします。
緊急事態宣言のあと、ひとりでふらりとやってきた江ノ島は、観光客が少なくて、いくつかの店は閉まっていた。だらりと階段を登り、足のむくままに細い脇道を入る。ざらざらと波の音がする。
黒い猫が横切ったあとをついて行くと、そんな看板があった。
またひとつ、細道に入る。左右を建物に挟まれた、道と言うよりたぶん建物の裏口に通じていたりする通路のようにみえた。看板の矢印を辿ると、小さな駐車場――せいぜい軽自動車が停められるほどのスペースだが、そもそも車が入れるような場所ではない――に、ゴザが広げられてそこには男が座っていた。
丸いサングラスにチューリップ帽の、いかにも怪しい男だ。彼は細い顎を持ち上げて、私を見上げた。
「いらっしゃい」
私は答えず、ゴザに並ぶ商品をしげしげと眺めた。
「心の穴を埋める?」
昔の漫画で聞いたようなセリフだ。
「ええ、ええ」
男は力強く頷いて笑った。
「そりゃあもう」
私ははじから一つずつ、ゆっくりと商品を確認する。
一番右にはミルクチョコレート、それも板チョコ。値段は250円とある。
「チョコ」
「お客さんの穴の深さにもよりますけど、まだ浅ければ効果的です」
隣にはようかん。お値段450円也。
「一本まるまる食べれば、大抵効きます」
「甘いものばっかりだ」
私が思わず呆れると、彼はチューリップ帽の縁をちょっと持ち上げた。
「効きますよ、甘いモン」
人懐っこい笑顔に、昔実家で飼っていた雑種の犬を思い出した。子供の頃に死んだ犬だ。名前は――名前はなんだったっけ?
ようかんの隣にはこけし、それにゴルフボール。
「こけしはあとでチョットだけ副作用があります。ゴルフボールは遅効性です」
「副作用って?」
男が、いやらしそうに笑った。
「よくあるやつですよ、少しだけ虚しくなる、まあ言わば賢者タイムですな」
彼の言う意味は意味はよくわからなかったが、問い返すのも癪なので私は訳知り顔で頷いてみせた。
そもそも、私の心に穴なんて空いていただろうか?
足が向くままに散策して、この露店をみつけただけだ。みれば、如何にも怪しげな露天である。こんなところで買い物をするなんて、あまりにも軽率なように思われた。
「ぼくには必要ないみたいだ」
相手の男は首を傾げた。それから、そうですかとひとつ頷いたあとで、
「穴は、誰にでも空いているんですよ」
「え? 」
「大切なのは気が付かないことです。ええ、あなたのように。もしも穴に気がついたら、最初は小さな小さな針の先ほどの大きさだったのに、見つめているうちに、大きくなっておしまいには飲み込まれてしまいます」
「はあ」
私は間抜けな返答をしながらも、だんだんといたたまれないような、妙な気まずさを覚え始めていた。
「そうですか、それでは」
逃げるように立ち去ろうとする私を、男がねえ、と親しげに呼び止める。振り向くとなにかが放物線を描いて飛んできて、私は咄嗟にそれを掴んでいた。
「サービスです。またどうぞ」
私は頷いて、そそくさとその場を後にした。
ざりざりと波の音がする。細く急な階段を降りると、潮の匂いがした。
階段の途中に腰を下ろし、私は暗くなりはじめている海面を眺めた。どんよりと暗い空をそのまま映すような水面は、黒黒と揺れている。
私は手の中のそれを持ち上げた。
ふにゃりと柔らかな質感。ちくわだ。
私は思いついて、ちくわの端を右目に当てた。細い穴の向こうを覗いてみるが、そこには渦巻く曇天があるきりである。
なんだ。
落胆と一緒にため息を着くと、にゃあと後ろで猫が鳴いた。
振り向けば、階段の上には三毛猫が毛ずくろいしていた。彼女は私を見て、もう一度鳴いた。
手の中のちくわをちぎり、猫に放る。猫は地面に落ちたそれをふんふんと嗅いだあとに、恐る恐る口をつけた。小さな口が、ふがふがと下手くそにちくわを食べている。
私はおかしくなり、ひとつ、またひとつとちくわの欠片を猫に与えた。するとどこからともなく他の猫が集まってきて、階段の上ではにゃごにゃごと猫の大合唱がはじまる。
私は全部のちくわをやりおえると、立ち上がって猫のダンゴを跨いだ。撫でたいような気もしたが、ノミがいそうなのでやめた。
来た道を戻り、ふと、さっき看板が立っていた曲がり角まで引き返してみると、そこに看板はなかった。
店じまいだろうか。いや、そもそもあんな怪しい店に客なんて来るものだろうか。
私はあの露天があった場所までいってみようか、と一瞬だけ思ったが、結局はやめておいた。
確認しない方が良いことが、この世にはたくさんあるのだ。