健全な地獄のラ!人が笑う姿を見るのが好きだった。
人が苦しむ姿を見るのが嫌だった。
だから、立ち上がったのだ。
痛みも、苦しみも、悲しみもない国を作ろうと
皆がしあわせで、毎日を安心して過ごし、笑顔が溢れる国を作ろうと思っただけなのだ。
何時からだろうか、人々が幸せを当たり前のものとしてその尊さに気が付かなくなったのは
何時からだろうか、痛みや苦しみ、病気や死からも解き放たれた彼らが義務のようにうすら寒い笑みを象った仮面を付けるようになったのは
何度問うても答えが出ない思考の堂々巡りを繰り返しながらシュウは、浅い眠りの上澄みだけを掬うような夜を何度迎えたのだろか。
幾つもの夜と絶望の朝を迎え、気が付けばシュウは息をするだけの屍のような生をただただ無為に消費してた。
「おはようございますシュウ様」
「……おはよう」
仮面を付けた侍女が盥に洗顔用のぬるま湯とタオルを持ってやってくる。
いつもと変わらない朝。なんの変化もない時間。
シュウが国王として君臨してから連綿と続く変わらない日常だった。この後は朝食を食べて、形だけの朝議に出る、その後は書類を片付け、書斎を出ればすぐに夕食。湯浴みをしたら22時には就寝。
これが覆ることはここ数百年は一度だってなかった。
最初こそは街の様子が気になり城を抜け出し、こっそりと街を見て回ったりもしていたけれどそれも人々が仮面を付け始めたと同時に辞めてしまった。
誰もかれもが笑みを象った仮面で顔を隠し、本心すら殺し、いつの間にか心を失くしただ長すぎる生を恨みながら日々を過ごす姿を見たくなかったのだ。
シュウが王に君臨する時に、全ての国民に向けて祝福を授けた。
誰もが苦しまず、痛みも嘆きもないしあわせが溢れる国を作れるようにと発した言葉が力を持ち、国民は全ての苦痛から解放された。病や怪我をすることがなくなり、死という概念がこの国から消え去ったのは遠い昔の話だ。
最初こそ神の祝福だと喜んでいたけれど、人間の心は脆い。
数十年も経てば子供だったものたちは何故大人になれないのかと疑問を持ち、さらに数十年経てば枯れない資源と豊富な財力を持て余した国民たちはやがて働く事を辞めた。生きがいを探そうと模索するものもいたけれど、それでも永遠の終わらない命の重圧に負け壊れていった。
唯一この苦痛から逃れる方法は国から離れることだったけれど、国民たちは安寧に身をゆだね過ぎていたのだ。国外へ旅立った家族の断末魔も、紫の炎に包まれ身を焼かれる家族や友人の姿を見ることさえ酷い苦痛となってその決心を鈍らせる。
ならば祝福という名の呪いを与えた国王を殺そうと蜂起したけれど、この国からは死が取り払われて久しい。火で焼こうが、心臓を貫こうが数日後には傷は全て塞がり目を覚ますのだ。一度、首を切り落とし広場へ見せしめとしてその首を掲げておいたけれど、いつの間にか体の方から首を求めさ迷い歩きその首を取り戻したのを見て国民は絶望して仮面を付けて本心を決して他人に見せることはなくなった。
それから、シュウは自身の願いがもたらした地獄を背負って生きていくことしかできなくなったのだ。
呪いをかけた本人すらどうしたらこの地獄を終わらせることができるのかわからず、ただ呼吸をしながらせめてこれ以上の憂いがないようにと政を滞りなく行う事だけが生きる意味になっていた。
「うん、おいしい」
誰も居ない食堂でシェフの作ったあたたかなスープを飲みながらシュウは呟く。
おいしいスープ。シュウが一国民だった頃には味わった事もないほどていねいに作られたコンソメスープ。透き通っていて、しっかりと味がついた美味しいスープは何故だか少しだけしょっぱいような気がしたけれど、シュウはそれ以上何も言わずきれいに飲み干す。空っぽのうつわがまるで今の自分のようだと思いながら席を立とうとした。
その瞬間、酷く慌てた様子の騎士が食堂に飛び込んできた。
「シュウ様!!」
「なに?」
何百年かぶりのイレギュラー。国民たちが希望を捨ててしまってからは一度だってなかったイレギュラーにシュウの心臓はどきりと跳ねた。
「きゃ、客人が訪ねて参りました!」
「客人、それって本当なの?」
「はい、旅芸人の一座がどうしてもシュウ様にお会いしたいと訪ねてきております!」
旅芸人の一座。彼らはここがどんな国なのか知って来たのだろうか。
長く滞在すれば彼らにも呪いが現れてしまうとシュウは急いで席を立ち、騎士が導くままに廊下を歩いた。
「食べ物は何も出してないよね?」
「はい」
「補給物資の補充もさせてない?」
「もちろんです。門からここまで私が案内したので間違いありません」
「そう、よかった……」
旅人にとって補給は生命線だったが何も彼らは意地悪をしたくてそれをさせないわけではない。
“ヨモツヘグイ”ひとたびこの国の水を飲み、食物を食べれば他国の人間であろうとも不老不死を手に入れてしまうのだ。それを恐れて外交官や商人たちでさえこの国から逃げ出し、二度と近寄らなくなった。
それでも与えられた祝福のせいで飢えることもなく、滅びることはないというのはなんという皮肉だろうか。
そんな事を考えながら歩いていると、先導していた騎士が立ち止まった。
もうずいぶんと使っていなかった応接の間。シュウは身体が強張らせながらゆっくりと豪奢な扉を開いた。
「え…?」
「シュウ様!!!」
扉を開いた瞬間何かが飛び出してきて、シュウの視界は反転する。
ぐらりと回る視界に、茶色の大きな影、すぐ近くで騎士が剣を抜くのが見えた。
「NOOOOOOOOOOOOOOOO!オーガスタス、ストップ!!」
「ダメ、ユーリっ!剣をしまって!」
誰かの大声とシュウの声が重なる。その声に騎士もシュウへ襲い掛かってきた何者かもぴたりと動きを止めた。
倒れ伏すシュウの身体の上には立派な鬣を持つ一匹の獅子が興味深そうにシュウを見下ろしている。しかし、敵意はなくじぃっと見つめて来る琥珀色の瞳は穏やかだった。
「ごめえぇぇぇぇん!君が王様!?ケガしてない!?オーガスタスUNPOG!!」
「ぁ、え……?」
慌てて駆け寄ってきたのは金色の髪を持つ、どこかオーガスタスと呼ばれた獅子に似た男だった。彼の手を借り、オーガスタスの下からやっと抜け出したシュウは、その勢いに驚いてぽかんと事の成り行きを見ていた。
獅子は金色の男が部屋の中に戻し、そのままミルクティー色の髪を持つ青年と枯葉色の髪の青年に叱られている。ぼんやりとそれを見ているといつの間にか近づいてきていた黒髪の男が声を掛けてきた。
「うちの団員が大変な失礼をしてしまい申し訳ない」
「あぁ、君が団長の……」
「ヴォックス・アクマだ」
「……ヴォックス・アクマ」
誰かの名前を呼ぶのなんて久しぶりだ。シュウは聞いたばかりの名前を口の中で転がし、反芻した。
「初めまして、僕は闇ノシュウ。……この国の王様をやっているんだ」
「噂はかねがね。おや、君は仮面を付けていないんだな」
「ああ、うん。アレ、あんまり好きじゃないから」
シュウは握手をしながらそんな事を言って微笑もうとしたけれど、笑顔の作り方をすっかり忘れてしまっていることに気が付いた。
歪に歪んだ口元を見て、彼らはどう思っただろうか。こんなことならばいっそ仮面を付けてくればよかったと後悔した。しかし、ヴォックス達は特に気にしていないようで、そういえば後ろの彼はどうするんだ、と問いかけて来る。
「あ、僕は大丈夫だから戻っていいよ。それからみんなに客人が来たことを伝えておいて」
「はっ!了解いたしました!」
シュウは思い出したとばかりにそう告げれば、騎士は返事を返してそそくさと出ていった。
「オレ騎士とか初めて見ちゃった!かっこいいね!」
「まー、めっちゃ警戒されてたけどな」
「だからちゃんと手紙を出そうって言ったのに……」
騎士が出ていった途端に皆一斉に話し出し、緊張していたのが見て取れた。
武装している騎士が目の前に居れば当たり前か、と思いながら一応王であるシュウは自分の頼りなさを感じて一人肩を落としていると、急に目の前に先ほどの獅子が現れシュウの顔を舐めた。
「うひゃぅっ!!」
あまりに突然で酷い声を上げてびくりと身体を強張らせたシュウを見てミルクティー色の髪の青年は大声で笑い、金髪の青年は獅子を引き離そうと駆け寄り、枯葉色の髪の青年とヴォックスは頭を抱えてため息をついている。
シュウは金髪の青年を片手で制し、オーガスタスの好きなようにさせている。次第にシュウも慣れてきたのかオーガスタスの艶やかな毛並みを撫でたり、腕や足に絡まる尻尾をくすぐったいとやんわりとどかし始め獰猛な肉食獣ですら恐れないシュウの肝の座りっぷりに驚きながら皆それを見ていた。
「もう、くすぐったいってば。オーガスタス、だめだよ」
じゃれているオーガスタスをそのままにシュウはヴォックスに語りかける。
「ええと、旅芸人の一座なんだっけ」
「あぁ、そうだな。間違いない。彼らを紹介しても?」
「お願い」
ヴォックスの問いにシュウが頷けば、ヴォックスが一人一人を紹介していく。
奇術師兼経理担当のアイク・イーヴラント
道化師のミスタ・リアス
猛獣使いのルカ・カネシロとその相棒のオーガスタス
そして団長であり鬼であるヴォックス・アクマ
「鬼……」
「そうだとも。信じられないか?」
「ううん、こんな変な国を作っちゃった僕がいるんだもん。信じるよ」
「そうか」
「それで、この国へはどんな用事があるの?悪いんだけど補給はさせてあげられないんだ」
シュウの言葉に反応したのは以外にもミスタとルカだった。
「え!?マジかよ、この国の料理死ぬほどうまいって聞いてたんだけど!?」
「UNPOG…」
酷くショックを受けたようでその表情は悲し気で、つい手を差し伸べてやりたくなるけれどシュウはその感情を見ないようにして口を開く。
「ごめんね、どうしてもそれだけはできないんだ。ええと、ヴォックス。それで要件は……」
「君を救いに」
ヴォックスの満月色の瞳が真っすぐにシュウを見据え、心の内を覗き込もうとしているかのようだった。
僅かな沈黙
シュウは乾いた笑い漏らし、なんの冗談だと言ってやりたくなる心を必死に堪えた。
救うだなんて、何を言っているのか。この国にもシュウにも救いなどない。あるとしたら穏やかな死だけなのに、生命に平等に与えられた安寧は他でもないシュウの手によって奪われたままだ。
自ら鬼と名乗るこの男に何ができるのだろうか、何もできはしないくせに救うだなんて、なんて愚かな戯言を言うのだろうか。
その言葉に縋ってしまいたいほど、甘美な誘惑。けれど、それはきっとまやかしだ。
「救う?そんな冗談を聞きたいわけじゃないんだけど、本当の目的は何なのさ」
「シュウ、君は信じていないようだが私には君たちを救う力がある。どうか信じて欲しい」
「そんなの無理に決まって……」
「君は十分苦しんだんだんだよ」
シュウの言葉を遮り、言葉を発したのはアイクだった。静観に徹していた彼はシュウに近づき白い頬を撫でた。慰めのようでもあり、我が儘を言う子供を諭すかのような仕草だった。
「シュウ、僕たちはこの国で何が起こったのかちゃんと知っているんだ。だから助けたいと思ってここに来たんだ」
「そうだよ!ヴォックスはすごいんだよ!だからシュウ、泣かないでよ」
「似合わない王様なんかやめとけやめとけ!お前知らないかもしれないけど世界に面白いことなんてすげーたくさんあるんだぞ」
気が付けば彼らの言葉に涙が零れていた。ぽろぽろと涙が零れていたけれど、シュウはそれが自分の涙だと気が付けなかった。
感情を揺さぶられることなんかもう随分と体験していなかったし、国民から生きる意味を奪ってしまったと気が付いたあの時から痛いも苦しいも、嬉しいも楽しいも全部シュウの中から消してしまったのだ。
消さなければならないと信じ込んで、感情が動くたびにそれを必死で殺してきたというのに、会って間もない彼らに、こんなに、簡単に、感情を揺り動かされるなんて思わなかった。
一度溢れだした涙は止まらず、止め方もわからない。
赤子のように泣きじゃくるシュウは目の前のアイクにしがみ付き嗚咽を溢し、縋る様になんども助けてと言った。
僕を、国民を、大切な人たちを助けてくれと作り物染みたうつくしい顔を歪めて何度も口にした。
「ああ、わかった。約束しよう。シュウ、このヴォックス・アクマが君の願いを叶えよう」
さあ、少し眠りなさいとヴォックスはシュウの癖のある、けれどよく手入れされた艶やかな黒髪を撫でた。その体温と声音の心地よさに、シュウの瞼が徐々に重くなっていく。
シュウはぼんやりとし出す頭で本当に彼らなら救ってくれるのかもしれないと、淡い期待を抱いて久しぶりの穏やか眠りへと落ちていった。
夢を見た。
まだ何も知らず、夜通し踊り歌い、飲み明かした時代。
国民の誰もがやっと安心して暮らせる国になるのだと夢見ていた時代。
パン屋のおじさん、花屋のおばさん、口の悪い幼馴染、生まれたばかりの子を抱えしあわせそうに笑い合う若い夫婦
誰もが希望を抱き、しあわせを感じていた
こんな笑顔をまた見られるだろうか、だとしたらそれ以上しあわせなことはない
シュウが目を覚ますと陽が沈み、窓の外はすっかり暗くなっていた。
そんな中で、四人は床に座り丸くなってカードゲームをしている。
「あ、シュウ起きた!」
「……ぉ、はよ」
ルカがいの一番にシュウの視線に気が付いた。
シュウは寝起きで掠れた声で何とか挨拶だけは返したけれど、気を張っていなければすぐにでも寝堕ちてしまいそうだった。
「シュウもUNOやる?」
「……うの?ってなに?」
「トランプみたいなやつ、負けたら罰ゲームだと」
「うん?うん、やる…」
寝ぼけたままのシュウはよくわからず、誘われるがままにゲームに参加した。
1セット目はルールの説明を兼ねてアイクが付いてゲームをして何とか最下位を回避したけれど、2セット目からはシュウ自身の運のなさもあり最下位となってしまった。
「シュウ、罰ゲームでこれ付けて」
「うん」
頭に付けられたのは猫の耳を象ったカチューシャだ。カチューシャを付けた途端にオーガスタスの瞳がきらりと輝きだしたのはきっと気のせいだろうと思い込もうとしたけれど、まるでマーキングをするかのようにシュウの背後に回り、自ら背もたれになったのを見てルカが信じられないものを見たような表情でそれを見ていた。
「オーガスタス、シュウは人間だよ……」
そう言えば当のオーガスタスはわかっているとばかりに鼻息だけで答える。賢い獅子はシュウを庇護するべき対象としてそばに居るつもりらしい、シュウがありがとうと頭を撫でれば目を細めその身をゆだねた。
「オーガスタスはシュウにべったりだね」
「ライオンも虜にする魔性の王様ってやつ?」
「あながち間違ってはいないな、シュウは魔性だ」
ヴォックスはシュウの纏う慣れ親しんだ闇の気配に眉根を寄せている。どろりとした腐臭を漂わせ、シュウに巻き付いているのはかつて人だったであろう者の成れの果てだ。
アレがシュウの言葉に呪いを掛けた張本人だろう。シュウに心酔するあまり暴走した魂が国中を支配した。
ここに来る前に放ったヴォックスの式神が見た街の偽りの賑わい、触れたものから読み取った過去の反乱とシュウがその身に受けた刑の数々を思うと胸が痛い。
普通の人間ならばとっくに心が死んでいるはずなのだ。それだというのに、この街の人間たちは誰一人として狂ってはいない。
まさに生き地獄だった。苦しむ国民とシュウを見て黒い影は楽し気に笑い、愛おしそうにシュウの頭を抱いている。まさに書いて字の如く愛憎とはこのことだ。
「あ、俺上がり。ヴォックスの負けな!」
「んなっ!?私が最下位だと!?」
そんな事を考えているうちにゲームは進んでいたようで、ヴォックスは最下位になっていた。
「あっはっは!ヴォックス手札丸見えだったよ」
「なんで言わないんだアイク!?」
「言ったけど君が生返事しかしなかったんだよ。僕はちゃんと義務を果たしたよ」
大量の手札を取り落し絶望するヴォックスをよそ目にルカが楽し気にヴォックスの頭になにか不思議な被り物を被せる。
「今からヴォックスはゴリラ語しかしゃべれないから」
アイクが楽しそうに言えばヴォックスはウホ、とだけ答えたけれどその声は悲しみに暮れているのがわかる。
「ごりら語ってなに?」
「ん~?なんていうか、あの黒い毛むくじゃらの動物の鳴き声的な?しらんけど」
「ふーん、じゃあ僕もネコ語で話さなきゃいけなかったか…、にゃ?」
表情こそ乏しいけれど、もともと中性染みた整った顔のシュウにそんなことを言えばミスタは顔を赤くしてそっぽを向く。オーガスタスは尻尾でシュウを抱き寄せ自身に身を預けさせた。
「シュウ、それはやめとけ。悪いことは言わんからやめとけ」
「うん?うん、わかった」
大人しくカチューシャを外しオーガスタスに凭れるシュウは、まだ眠たいのかとろりと溶けた表情でうとうとと微睡んでいる。
「あれ、シュウまだ眠いの?」
「ウホ、ウホホウホ」
「……うん、なんだかすごく眠くて」
つやつやの毛並みを堪能しながらシュウは何とか意識を保とうとするけれど、呂律が回らなくなってきている。
「ウ、ウホホホホ。ウホ」
「ちょっとヴォックス黙ってて。シュウ、眠たかったらもう少し寝ていて大丈夫だよ。ちゃんと起こしてあげるから」
「ぁ…ぅ……」
「オレも疲れちゃったからちょっと寝るね。オーガスタス、オレにも枕して~…」
一座の中で珍しく規則正しい生活をしているルカはもう眠たいようだった。シュウの隣に潜りこみ、オーガスタスを枕代わりにして眠る姿勢を整える。少しばかりオーガスタスが迷惑そうな表情をしたのはきっと気のせいではない。
「私たちもそろそろ休むとしようか」
「え、ここで?」
「そうだ。なに、一晩くらいでは呪いに罹ったりしないさ。この私がいるからな」
「あのさー、そういうセリフせめてゴリラのマスク取ってから言ってくんね?」
呆れたミスタがヴォックスから被り物を剥ぎ取った。
被り物の下から白皙の美貌が現れる。しかし先ほどとは打って変わって満月を模したかのような瞳は淡いピンク色へと色を変え、彼が鬼の力を行使しているのがわかった。
この部屋に呪いが届かぬように結界を張るうつくしい鬼の姿はさきほどまでのチャラけた雰囲気は感じられなかった。
「さあ皆今日はもう休みなさい。呪いを解くのは明日にしよう」
「うん。あんまり無理しないでね」
「おやすみヴォックス」
アイクとミスタはそれぞれ頷くと応接室のソファーに横たわった。ヴォックスは今晩寝ずの番をするのだろう、それが最善だとルカ含めアイクもミスタも知っているからそれ以上なにも言わず明かりを消した。
翌日目を覚ますと、天気が良く心地よい風が吹いていることに気が付いた。
いつ振りだろうか、空を見てこんなにも清々しい気分になったのは。
心が動くという当たり前のことが遠ざかって久しいせいで、シュウの心はたったそれだけでいっぱいになってしまう。
「やあ、おはようシュウ」
「ぇ、あ、なんだヴォックスか……。おはよ、う……」
急に呼ばれ振り返ればヴォックスが優雅にティーカップを傾けていた。
それはいつもシュウが使うティーカップによく似ていて、シュウの顔から血の気が引く。
「ヴォックス、それ、その紅茶…だれが…」
「ん?ああ、これか。これはそこの棚にしまってあったティーカップを少し拝借したんだ。もちろん茶葉とミルクも」
「なんで、だってそんなことしたら君も呪われてしまうのに……!!」
「だからだよシュウ。呪いを身の内に入れてもっとよく知るんだ。そうすれば解決の糸口をもっと明確にすることができる」
そう言ってヴォックスはミルクティーを口に含む。
「飲まないで!!だめだヴォックス!それだけはだめ!!」
シュウはヴォックスの手からティーカップを叩き落とす。シュウの大声とティーカップの割れる音に驚いたアイク達が飛び起きて来る。
「何事!?」
飛び起きて目に入ったのは肩で息をするシュウと無残に割れたティーカップ。悠然と笑みを浮かべるヴォックスだった。
一目で何が起こったのか察したアイクはシュウを宥め、大丈夫だと何度も言って聞かせた。
「何が大丈夫なのさ!?君たちの生化が呪われたのに!!」
「本当に大丈夫なんだよシュウ。ヴォックスは呪われていないんだ」
そうだよね、とアイクが問えばヴォックスは涼しい笑みを浮かべ頷く。
「あぁ、これくらいならかわいいものさ。私の中の呪いの方が強いからな、こんな半端な呪いはすでに喰らったよ」
シュウはヴォックスの言葉の意味がわからず混乱した。
「それよりも今夜広場でサーカスをご覧に入れよう。君たちへの最後のプレゼントだ」
「いまはそんなこと…」
「やるんだ。いいかシュウこれは決定事項だ。これは君たちを助ける方法の一つさ、必ず呪いは解いてやろう」
それだけ言うと必ず一人残らず国民を広場に集めるようにと言ってヴォックスは応接の間を出ていった。誰もヴォックスを止めることも後を追うこともなかった。
残されたシュウは呆然と座り込み、何もわからないままどうすべきか考えあぐねていた。
「あ、あのさシュウ……、ヴォックスのこと信じてあげてくれないかな」
沈黙を破ったのはルカだった。
オーガスタスに自分たちで持ち込んだ餌を与えながら、酷く真剣な声で言う。
「オレたちも詳しくは知らないけど、ヴォックスが大丈夫って言ったら全部大丈夫なんだ。できない約束は絶対にしないっていつも言ってるんだ」
「でも、でもだって、これは呪いで……」
「それでもだよ。ねぇ、シュウ。オーガスタスがオレから生まれたって言ったら驚く?」
肉を貪るオーガスタスはそうだとでも言うようにがうと吠える。
「アイクは身体が宝石になる呪い、ミスタは自分と世界の境界線がわからなくなっちゃう呪い、オレは獰猛な衝動を抑えられない呪い。此処に居るみんなが、呪われてるんだよ」
そう言ったルカの言葉に頷いたアイクとミスタはそれぞれの呪いの痕跡をシュウの前に露わにした。
手袋を取ったアイクの爪はきらきらと輝き、まるで宝石の様だったし、サングラスを外したミスタの瞳は空の色に染まって一秒ごとに色を変えた。
そうしてオーガスタスはルカの頬を舐め、じゃれついている。
「オーガスタスはね、オレの呪いを具現化したものなんだ。こうして形になってくれたからオレはもう人を襲わないし、アイクは高い薬を世界中から集めなくてよくなったし、ミスタは…」
「まあ、元から存在感ないし?特に困ることはなかったケド?」
「ミスタはママからちゃんと抱きしめてもらえるようになったんだよ!それってめちゃくちゃPOGじゃない!?」
「……だからさ、シュウ。ヴォックスを信じて、ちゃんと君たちの呪いは終わるよ。不老不死なんて地獄は今日でおしまい、僕たちがこの国の呪いの終わりを保証するよ」
初めて目にする他人の呪いの痕跡にシュウは目が離せなかった。
きらきらと輝く鉱石の爪も、ゆらゆらと色を変え続ける瞳も、強く自愛に満ちた獅子も彼らを彩るうつくしいものに見えて心のやわらいところが痛んだ。いつか自分もそうなれるだろうか、国民たちもこの呪いから解放されてそれぞれの人生を歩けるようになるだろうか、またシュウの視界が滲んでいく。
滲んでいく世界にまた涙が溢れたのだな、とどこか他人事のように思う。彼らに出会ってから自分は自分と泣き虫になってしまった様な気がする。けれど、それでもいいかと思えるのが何処か不思議だった。
泣き出したシュウを見て慌てふためく三人をよそに、本当に久しぶりに、心から安心したように微笑んだのだった。
ヴォックスは王城を抜け出し、街の中をあてもなく歩いていた。
裏路地、人がごった返す市場に、焼け跡の残る石畳の広場、それからシュウの首が晒されていた門の前。
人々は皆笑みを象った仮面を被り歩いていた。老人、大人、果ては幼い子供たちまで誰一人として例外なく仮面を被って生活を送っている。
そこにはなんの感情もなく、ただ穏やかに過ぎる一日を消費しているだけの国民たち。一縷の望みをかけて愛した国王を数々の刑に処した国民たち。誰も悪くないのだ。ただ、偶然が重なってしまっただけなのだ。
シュウを愛するものの執念と、国民たちとシュウの願いが最悪の形で成就してしまった結果がいまのこの国の現状だ。
ヴォックスはそっと石畳の焼け跡に触れる。
瞼の裏に見えるのはこの石畳の記憶。泣きながら磔にされたシュウに火を放つ男と、やっとこの地獄から国民と自分を解放できると安堵し穏やかに微笑むシュウ。
辺りに響き渡る絶叫。肉の焼ける臭い。誰かの嗚咽。
まさに地獄のような光景だった。だらりと力なく垂れる焼け焦げた腕が、どれほど時間が経とうとも痙攣を辞めることはなく喘鳴が途絶えない。
命が絶えることがなく永劫の苦しみの中に王が居るのだと気が付いた国民は悲鳴を上げ、嘔吐を繰り返した。
水を掛けられ鎮火した後も尚、シュウは苦しみ終わらない苦痛に喘いだ。
ならば首を切り落そうと剣を掲げた騎士がシュウの首を両断する。ごろりと足元に黒焦げの頭が転がり、ヴォックスの満月色の瞳と目が合った。
アメジストの瞳は濁りきり、誰が見ても命はないと思っただろう。けれどヴォックスはその瞳が微かに揺れるのを見て、シュウの苦しみが終わっていない事を知っていた。
「なんて、惨い」
シュウも国民をあまりに無知であった。不死の者を殺す術も、唯一の逃れる術を持ちながら身を焼かれる恐怖に打ち勝つことのできない安寧に浸りきった心に巣食う薄暗い感情も、それさえ乗り越えればいつだって呪いから解放されたというのに。
ヴォックスはシュウの頭が吊るされた門の前まで歩いていく。
門を照らすランプの根元に飾られたそれは国民たちに謝罪の言葉を述べようと口を動かすけれど、音を発する器官を奪われていて言葉にならない。
そうして苦しみながら死ぬこともできずに、三日ほど掲げられたシュウの首は少しだけ癒えた身体が歩いてきたことによりやっと降ろされ、ぼろぼろの身体に返された。
そこから先は見るまでもないだろう。ヴォックスは目を開き、自分を遠巻きに見ている国民たちを見やる。
彼らの瞳に光はない、生きる屍とはまさに彼らのことだろう。
ヴォックスはそんな彼らに声を掛ける。
「今夜、私たちが異国のショーをご覧に入れよう。奇術に猛獣の火の輪潜り、道化師の玉乗りもあるぞ!是非見に来てくれ!」
そう言えば国民たちは俄かに騒がしくなったけれどそれもすぐに消えてしまった。
娯楽に、特に国の外の娯楽に飢えている国民たちはきっと行きたいと思う気持ちと、罪を犯した自分たちが娯楽を享受することをためらっているのだ。
シュウは勘違いしているだろうけれど、彼らは絶望もしたけれどそれ以外の感情の方が大きい。
あれほど信頼し、愛する自国の王を殺そうとした負い目を感じているのだ。それも楽にしてやることもできず、苦しみだけを与えた事実は彼らの心を折るには十分だった。
だからこそ、王に合わせる顔がなくて仮面を付け始めたのだろう。王が王なら、国民も国民なのだ。
国民は王を映す鏡というが、その言葉通りの国は誰もがやさしすぎた。いっそ哀れなほどに。
「来るも来ないも自由だが、こんな機会は滅多にないぞ。忘れられない特別な夜にしてやろう」
それだけ言い残してヴォックスは街を後にした。
残された国民たちはざわざわと騒めいた後、今夜どうするのかを考えあぐねて逃げるようにその場を去り、門の前には誰も居なくなった。
ヴォックスが帰ってくると本を読んでいたアイクが人差し指を口元に持ってきて静かに、とだけ言った。
アイクの視線の先にはオーガスタスに凭れ、シュウを抱きしめるように眠るルカとミスタ。窓から差し込む日差しと、そよぐ風が彼らの髪をわずかに揺らしている。
「シュウが泣き疲れて眠っちゃったんだ。ふたりも慰めてるうちにつられて、ふふ、かわいいよね」
「そうだな。絵にして飾っておきたいくらいだ」
「僕もそう思うよ。それで、どうだった?」
「どうとは?」
アイクの言葉の意味をわかっていながら、ついとぼけてしまうのは彼ともっと話がしたいからだろう。
ヴォックスはその見た目と話し方のせいで誤解されがちだけれど、すごく甘えん坊なのだ。
「とぼけないでよ。どうせこの国を見てきたんでしょ?」
「ああ、その事か。もちろんだとも、いい国だったよ。とてもね」
「ヴォックスが言うならそうなんだろうね。……それなのにどうしてこんなことになっちゃったんだろうね」
アイクは目を伏せ睫毛を震わせる。ほんの少ししか関わっていないシュウの清らかさと、この国の国民たちはあまりにやさしい。この呪いに巻き込まぬようにとなんども声を掛け、食料を分けられないことを申し訳なさそうに謝罪するのだ。
誰も悪くはないのにどうしてこんなことになってしまったのだろうか、アイクはこの国に来てからずっと心を痛めていた。
いっそのことシュウが悪い人間であったのならばこんなに心を痛めることはなかったのに。
「誰も悪くない。ただ、その願いを悪用したモノが居たというだけだ」
「それって誰なの?」
「この国の王だった男」
ヴォックスはそう言って静かに微笑んだ。
いつもの優雅な笑みではなく、どこか弱々しいそれはヴォックスもアイク同様胸を痛めているのだとわかった。
実の親に呪われたと知ったらシュウはどれほどショックを受けるだろうか。この事実を打ち明けなければいけないヴォックスの気持ちを思うと言葉にならなかった。
アイクは大人びた表情で微笑むヴォックスをそっと抱きしめ、その背中をとんとんと叩いた。自分が付いているとでも言うように。
ヴォックスはアイクの体温を感じながら、その大きな愛情をしっかりと受け止めていた。
アイクは、自分の力で誰かを救えるのならとずっと一人で戦ってきたヴォックスが心を許せる数少ない相手だった。そんな彼の愛を受けて自分はまだ戦えるのだと鼓舞をして、今夜の決選に備えるのだった。
日が沈んだ広場には人が集まっていた。
とっぷりと暮れた空に星が輝いてとても美しい夜だった。その星の輝きを遮るように煌々と焚かれた松明は石畳の広場を昼間のように明るく照らし出していた。
ミスタの玉乗りをしながらのジャグリングに歓声が上がり、アイクのマジックショーに魔法のようだと目を輝かせる老婆、獅子の火の輪潜りでは男たちから歓声が上がった。
最初こそ胡乱気にしていた国民たちは気が付けば彼らのショーに熱狂し、仮面を脱ぎ捨てその一挙手一投足を見逃さぬようにと身を乗り出してショーを見ていた。
こんなにも何かに熱中し、夢中になった国民を見るのは一体いつぶりだろうか。シュウはこっそりと物陰から広場の様子を窺っていた。
きっと自分が行けば彼らの興を殺いでしまうだろうと姿を表せずにいたのだ。
歓声が上がる度シュウの好奇心も擽られたけれど、じっと我慢をして何百年かぶりに見る国民の笑顔を見てる。
呪いに罹る前だってこんなに熱狂する姿を見たことはなかったと思う。それほどに一座のショーは素晴らしいものだった。
心が湧き踊り、誰もが夢中になるショーは遂には佳境を迎え座長であるヴォックスが登場したことでこの夢のような時間が終わってしまう事を予感させた。
「皆さま、本日は我が一座のショーにご来場いただきありがとうございます」
ヴォックスの朗々とした声が広場に響き渡る。
「わたくしから一つ物語を語らせていただきましょう。とある国の呪われた王の物語だ」
それを聞いて誰もが言葉を飲み込んだ。
当のヴォックスは気にせずに物語を語りだす。
ある国にとてもしあわせな王子がいた
彼は誰からも愛され、国民を愛していたけれど王位にも権力にも興味がなかった
けれど、国を本当に思うならば自分が王にならなければならないと立ち上がる
他の兄弟たちを抑え、王になった時国民は見たことがないほど彼の即位を祝福した
聡明でやさしい王の即位に、誰もが国の繁栄と豊かで幸福な生活を確信して王の即位を祝う祭を三日三晩続けたほどだ
けれど、そんな姿を快く思わない者が居た
王の父。老いた先王である
彼は己より秀でて民からも祝福される息子を見てあろうことか嫉妬したのだ
先王は誰からも愛される息子を誇りに思うよりも憎み、恐れ、死の間際に息子を呪った
その呪いは君たちと王の心を利用して、永遠に逃れらない不死の呪いを振りまいたのだ
そこまで語ったヴォックスは、まるで最初から知っていたかのように隠れていたシュウを指さす。
シュウは驚きに身を竦ませ動けずにいると、足元から黒い影がゆらゆらと立ち昇ってくるのが見えた。
え、と思っているとたちまち人の形を取りシュウへと手を伸ばしてくる。それは幼いころに見た父王の姿そのもので、ヴォックスの語った物語が嘘なんかではないことがわかった。わかってしまった。
ただ民の為を思い、必死で政治を学び、治水や外交にも力を入れこの国が豊かになるようにとそれだけを願っていただけなのに、それが父王の心を病ませたのならばシュウはどうすればよかったのか。
シュウの両腕から力抜けだらりと垂れ下がり、地を踏んでいた足は折れ膝から崩れ落ちる。どうして、何故、という問うても答えなのでない事ばかりが頭を駆け巡る。
すぐ目の前に自らを殺めようと伸ばされた手が迫っているにもかかわらず、シュウは抵抗することもなくその大きな手を見ていた。
「とうさま……」
黒い影はいつの間にか父王の形を取り、シュウを恨みが籠った目で睨みつけている。
首に回された手に力が入る。そこまでしてもシュウは抵抗をしようとせずに泣きながら静かに微笑んでいた。
自分の行いが誰かを傷つけるのならとシュウは父王の理不尽な怒りを受け入れようとしているのだ。最初に悲鳴をあげたのはシュウをいつも可愛がってくれていたお菓子屋のおばさんだった。
やめて!と声をあげたのを皮切りに国民たちはシュウを助けようと駆け寄ろうとしたけれど、それよりも先に金色の影が踊る。
がぅっ!
獰猛な肉食獣が亡き父王に襲い掛かる。獅子の牙は父王の腕を噛みきり、シュウを守る様に二人の間に着地した。
尚も襲い掛かってくる父王の影を縫い留めるように放たれたトランプが地面に刺さる。身動きの取れなくなった父王は藻掻くけれどその拘束はゆるむことはない。
「なぁ、自分の子供恨んでアンタそれで満足?」
ふいに聞こえてきた声はミスタのものだ。けれど、姿は見えず誰もがその声の主を探して視線を彷徨わせる。
「ここだよ」
そう聞こえた瞬間父王の背後にミスタが現れ、その身体を羽交い絞めにして叫ぶ。
「ヴォックス今だ!!」
「わかっている」
豪奢な羽織が風を孕んでふわりと宙に舞う。
夜だというのに金糸で刺された刺繍が炎に照らされて、シュウはどこか場違いにもきれいだなと思った。
とん、と軽く跳躍したヴォックスは何処にしまっていたのだろうか見慣れない剣で父王を切り裂く。血液の代わりにどろりとした黒いヘドロのようなものが溢れ、うつくしい石畳の地面をぼとぼとと流れるヘドロで汚した。
「とうさま……?」
呆然とそれを見ていたシュウは父親に手を伸ばす。どれほど自分を憎んでいても自分の父親なのだ。父親の苦しむ姿を見たい子供が何処にいようか。
シュウはゆっくりと倒れ伏す父王を抱き留め、己を殺そうとした手を握りしめてシュウは涙を溢す。
「とうさま、どうしてこんなことを……?」
シュウの問いかけに父王は何も答えることはなかった。
何かを形を成す前にヴォックスがその首を切り落としたのだ。ごろりと床に転がる父王の頭が恨めし気にシュウを睨んだように見えた。国民たちはおぞましいものを見たと短い悲鳴を上げ、座り込むシュウを抱きしめその視線から隠そうとする。
その間を縫ってヴォックスは優雅に歩いてシュウへと近づいていく。
「ヴォックス、ぼく、とうさまにのろわれていたの?」
「……そうだな」
「とうさまがこの国をこんな風にしたの……?」
「そうだ」
「どうして……」
シュウは父王の崩れ始めた身体を抱きしめながらヴォックスに問いかける。
王とは民の為を思い政をするのだと教えてくれたのは父王だった。まだ幼いシュウと兄弟たちを集め、王とは政とはなんたるかを説いた言葉を鮮明に覚えている。
国中を見渡せるバルコニーから国民たちを見る父王のあたたかな眼差しも、確かな手腕も、覚えているのにそんな父王を狂わせたのが自分だと気が付いたシュウはただどうして、とごめんなさい、を繰り返してる。
「すまないシュウ、君を傷つけたね。しかし、君に呪いの形をしっかりと知ってもらう必要があったんだ」
項垂れるシュウの黒々とした髪を見つめヴォックスは言う。
「呪いに名と形を与えなければ切ることができなかった。だからといって君を傷つけていい理由にはならないんだが……」
滂沱の涙を流すシュウの腕から父王の身体を奪い、その心の臓へ剣を突き立てる。
この国を苦しめ続けた元凶はしばらくもがき苦しんだ後息絶えるように脱力した。そうしてゆっくりと身体が崩れ始めると国民たちに変化が現れた。
彼らの足元から紫の炎が立ち昇ったのだ。
しかし、誰一人として悲鳴を上げることはなく皆どこか安堵したような表情を浮かべている。それに気づいたシュウは慌てて国民たちに駆け寄り、その炎を消そうとしたけれど逆にその手を掴まれてしまった。
「ヘレナ……!」
「いいんです、シュウ様。これでいいんです」
炎に焼かれているのにヘレナと呼ばれた花屋のヘレナは穏やかに笑う。パン屋のジョーおじさんも、幼馴染のライルも護衛騎士のユーリもみんな、みんな穏やかな表情で炎の中で笑っていた。
「シュウ様、今まで沢山傷つけてごめんなさい。あなたは何も悪くないわ」
「少しも怖くないんだ。やっと終われるんだって思うと嬉しくて泣けてくるくらいだ」
「また泣いてんの?泣き虫シュウ心配すんなって、案外怖くないんだ」
「シュウ様、先に行くことをお許しください」
紫色の業火は国民をゆっくりと焼き、命を狩り取っていく。爪先から炭になって崩れていく国民たち、地面に倒れ伏すもの、既に息がないもの、やっと解放されると安堵で微睡むように表情で我が子を抱きしめている者たち。
彼らの安寧を願っていたシュウは何も言葉を紡げずにそれをただ見ていることしかできなくなった。
「ご覧シュウ、誰も君を恨んでなんかいなかったんだ」
ヴォックスは最後の呪いを絶つためにシュウへと近寄る。
「君は勘違いしているようだが君の国民たちは皆、シュウを恨んではいない。でなければこんなに此処に人が集まるわけがない」
そうだとアイクが頷く。
確かに昼間ヴォックスが呼びかけたけれど、それだけではこんなに人は集まらなかっただろう。シュウの言葉があって国民たちは集まったのだ。
そうしてシュウにかけられた呪いの内の一つを解いたことで彼らは安らぎを得た。
次はシュウが救われる番だった。
「彼らは助かりたいあまりに君を犠牲にしようとしたことずっと悔いていたんだ。もう王に合わせる顔がないとね……。だけれど、君はそれを勝手に失望されたのだと思い込んだ。違うかい?」
「……ぇ、そんな、うそだよ」
「いいや、嘘ではない。彼らの表情を見なさい闇ノシュウ、君を恨んでいたのなら彼らの表情はもっと惨たらしいものになっていたのではないか?そう、君の父君のようにな」
「っ……!」
ついさっき潰えた父王の最期の表情を思い出したのだろう、シュウはびくりと肩を震わせて押し黙る。そして、ゆっくりと顔を上げかつての自国の国民たちだったものたちを見る。
誰もかれもが安堵したような穏やかな表情で眠りについていた。ちらりとヴォックスの顔を盗み見る、満月色の瞳には嘘や欺瞞は一つもなく信じていいのだと思った時、シュウの身がゆっくりと紫色の炎に包まれ出した。
これがもう一つ、シュウが自分自身にかけた呪いの形だった。
「ぁ……、そっか、ぼく…」
父王に呪いの才があったのだ、その息子であるシュウにもその才能があってもおかしくはなかった。知らずのうちにシュウは自分自身を呪い、その目を塞いで真実を見えなくしていた。
そう気が付いた時、やっと心が軽くなりシュウのアメジストを模したかのような瞳には国民たちの心からの涙や嘆き、笑み、たくさんの感情が写ったような気がしてそっと瞼を閉じる。
炎がシュウの全身を包んだけれど、不思議と熱くはなかった。それどころかどこかやさしくて、まるで誰かの抱きしめられているような錯覚すら覚える。
「それはシュウの呪いだ。君がどうするのか考えなさい」
「ぼくののろい……」
「君が望めば呪いごと一緒に切ってやることもできるし、新しい形を与え使役することもできるだろう。さあ、どうする?」
新しい形、とシュウはヴォックスの言葉を反芻する。そうしてゆっくりとアイクやルカ、ミスタを見る。
昼間に見せてもらった呪いの痕跡、爪、瞳、獅子。あれは全て呪いの跡だと言ってた。彼らもまた自分自身を呪ったのだろうか。
彼らは自身の呪いを使役して人を救った。ならば自分にもそうすることができるのだろうか。
「大丈夫だよ、シュウならできるって」
「ルカ…」
「俺にもできたんだからお前だってできるだろ。知らんけど」
「シュウ、君ならできるよ」
三人はシュウの背中を押すように声を掛ける。
その声に勇気をもらい、シュウはやってみると呟いて呪いへ目を向けた。ゆらゆらと形のない紫の炎に形を与えていく。
誰にも縛られることなく自由に飛び立てる鳥のようなイメージで形を作る。飛び続ける辛さと、羽根を休めることの大切さを知る鳥はきっと今のシュウにはぴったりのモチーフだった。
炎は徐々に形を変え、シュウの背中に翼となり広がっていく。
「うわ、めっちゃキレー……」
そう呟いたのはミスタだった。シュウの背中に生えた紫の翼はあたりを煌々と照らし、薄暗闇の中その頼りない背中を浮かび上がらせていた。
「シュウ、さあ、彼らを本当に開放してやりなさい」
「うん」
ヴォックスに背中を押されシュウは茫洋と頷いた。シュウは呪いの力が形を変える中で力の使い方を理解していた。
掲げた手からやわらかな炎が広がり、焼け焦げた国民たちを包み込む。炎に包まれた国民たちの身体が崩れていく。黒焦げの死体の指先から灰になり風にさらわれていく。
それはやがて天へ昇り、城門を超え国の外へと運ばれていった。
なんのしがらみもなく、捕らわれることのない自由を手に入れた国民たちが憧れた国外へ手を取り合っていく姿が見えたような気がした。
「……終わっ、た」
「ああ、よく頑張ったなシュウ」
「みんな、ちゃんと逝けたかな?」
「きっと逝けたさ」
ヴォックスはシュウの肩を抱き寄せる。力が入らずシュウはヴォックスにされるがままにその方に凭れかかった。
「初めて呪力を行使したんだ、無理をするんじゃない」
「シュウ大丈夫?歩ける?」
ヴォックスとシュウの様子を見てアイクとルカが駆け寄ってくる。
「よく頑張ったね、ちゃんとみんな旅立てたと思うよ」
ルカはシュウに肩を貸し、アイクは幼子にするようにシュウの存外硬い黒髪を撫でた。
ミスタは近くの民家の中を見ていたらしく、片手に何かを持って歩いてくる。そのままシュウの目の前まで来ると、くしゃくしゃに丸まった何かをシュウに押し付けた。
「ミスタ?これは?」
「多分シュウの喜ぶもの、だと思う」
そう言われて受け取った紙を広げてみればそこにはシュウの絵が描かれていた。
即位の日、民の前でしあわせを願ったシュウの横顔が、何度も描いたのであろう何枚も重なっている。「すげーよく描けてんね」
「……うん」
「ほんとだ、すごくうまい」
「POOOOG!」
ミスタが出てきたのは確か若い兄弟が住んでいた家だ。兄は商人に、弟は画家になりたいと言っていたはずだ。長い人生で夢を叶えたのだと思うと、後悔ばかりの数百年に僅かばかりの光を見いだせた。
「ありがとう、みんな」
そういったシュウは心からおだやかに微笑み、一筋の涙を溢した。
あたたかくてやさしい嬉しくて零れる涙がただただ、うつくしかった。
「泣き虫だなぁ、シュウは」
そう言ってミスタは自分の服で乱暴にシュウの涙を拭った。
「んはは、痛いよ」
「これくらい我慢しろって」
「シュウをいじめちゃだめ!オーガスタス!ミスタを引き剥がして!」
「おっまえ、それは卑怯じゃん!?」
わーわーと騒ぐルカとミスタを横目に、アイクとヴォックスがシュウへ問う。
「それで、シュウはこれからどうするの?」
「行く当てもないし、一人旅なんかもいいかも。幸いお金には困ってないし」
「ふむ、それではこういうのはどうだろうか。呪力を持った者同士身を寄せ合うんだ。世界を旅しながら色々なものを見て触れて、時にはこうして誰かを助けて生きていくというのはきっととても面白いぞ」
ヴォックスが一息に言えば、あまりの熱の入りようと畳みかけるような文句にシュウはどうしていいかわからず助けを求めるようにアイクを見た。
けれどアイクは曖昧な表情で首を横に振った。つまりそれは諦めろっていうことだと短い付き合いの中でシュウはしっかりと学んでいた。
「シュウ、きっと私たちは君といい友人になれると思うんだ。それに国外に出たのなんて数百年ぶりだろう?世界は変わったんだ。慣れるまでの間だけでも私たちと一緒に来ないか?」
ぎゅう、と大きな手がシュウの白く細い手を掴んだ。真正面から見つめる満月色の瞳は、真っすぐにシュウだけを写していた。
「あ、ええと、その、迷惑じゃなければ一緒に居てくれるとうれしいな」
あまりの熱意に折れたのはシュウだった。確かにシュウが外に出るのは久しい、きっと何もかもが変わってしまっているのだろう。
実際にヴォックスたちが身に纏う衣服もシュウが見たことがないものばかりだった。
シュウは自分の着ているものに目を向ける。裾の長いシンプルな貫頭衣に動きやすいようにパンツを合わせただけの質素な衣服であったけれど、ヴォックス達の身に纏うのはシャツにパンツ、ジャケットや羽織、色も形も様々だった。
他にもきっと知らない事がたくさんあって、何も知らないシュウが一人で旅をするのは難しいとすぐに気が付いていたから、ヴォックスの申し出はシュウにとってすごく有難いことでもあった。
しかし、いかんせん気に入った者を傍に置きたがるヴォックスの熱量に圧倒され尻ごんでしまったのはしょうがない。
きっとアイクも同じことを経験したのだろう。苦虫を噛み潰したような表情でヴォックスからの抱擁に潰されかけているシュウを見ている。
「ちょっと、シュウが苦しがってるでしょ。ヴォックスはちょっと冷静になって」
「はっ…!すまない、私としたことが……大丈夫かい、シュウ…?」
アイクの叱責に我に返ったヴォックスが叱られた大型犬のような佇まいで、シュウの様子を窺う。
先ほどまでの何処か余裕を湛え、圧倒的な存在感を放っていた男はどこにもいない。そのギャップがおかしくてシュウはケラケラと笑った。
何故笑い出したのかわからず、ヴォックスはおろおろとし、アイクはわかるよとでも言うかのように首を縦に振った。
「なになに?またヴォックスが口説いてんの?」
「あのね!ヴォックスはシュウに一目ぼれしたんだよ!図書館でたまたま見かけたシュウの肖像画を……んぐぅ~~~!!」
「ル、ルカちょっと黙りなさい!!」
決着をつけたミスタとルカも話に加わり、口々にしゃべりだしたけれどヴォックスの手によってルカの口が塞がれてしまう。
それでももごもごと何か言いたそうにしてるルカを無理やり抑え、ヴォックスは忘れてくれと言った。
「肖像画に一目ぼれして絶対に助けるぞ!って俺たちの意見なんか聞きもしなかったんだよな」
「ミスタ!?」
「そうなんだよ。まったくヴォックスはもっとちゃんと計画的になりなよ……」
「Oh~、アイクまで……」
なんだか仲のいい兄弟のようなやり取りを見ている気分になって、シュウは腹を抱えて笑い転げ、その笑い声につられてみんな笑い出し笑い声は夜空に溶けて消えて行った。
「んははっ!あー……、こんなに笑ったの久しぶり……」
シュウはまさかまたこんなふうに誰かと笑い合える日が来るとは思わなかった。
きっと呪いが解けた日が自分の最期だと思っていたから、こんな自分を受け入れ共に生きてくれる仲間ができるだなんて想像さえしていなかった。
その事実がシュウの胸に希望の芽を芽吹かせていく。
「不束者ですが、これからもよろしくね」
シュウの言葉に四人はよろしく、と返しシュウを仲間へと引き入れた。
孤独で愚かな王は何処にも居ない。
そこに居るのは大切な仲間と笑い合うただの青年だった。
玉座を壊し、全てのしがらみから解放された青年はこれからも生き続ける。けれどそれは絶望ではない。
期待と希望の溢れる未来へと一歩踏み出すのであった。