君はロックを聴かない 放課後、昇降口。いつもならこの時間に居るはずのない彼女の後ろ姿は、すっかり見慣れて風景になってしまったここでも際立って見えた。
「あれ、ルーシー?今日部活は休み?」
「あ、アイク!そー、走ってスッキリしたかったんだけどなぁ。まぁちょっと脚の調子も良くないからいい機会ではあるんだけど」
「何か良くないことでもあったの」
「んー、まぁそういう感じ?すっごくUNPOGな日だったんだー」
「……じゃあ今日時間あったりする?」
いつも元気いっぱいで、ただそこに居てくれるだけで周りを笑顔にしてしまう彼女の初めて見る浮かない顔。それを見て僕は、僕がどうにかしてあげたい、彼女を笑顔にしてあげたい、音楽を聴かせてあげたい、そう思った。
君はロックを聴かないよね。君のお気に入りは流行りのポップスとネットミュージック。知ってるよ。
僕みたいにレコードで古い曲を聴くこともないでしょ。レコードどころかCDすら持っていなかったりして。いつも携帯で聴いているもんね。沢山サブスクを登録しているんじゃない?
自室の扉を開ける。
「適当に座ってて」
ルーシーがポスン、と腰を降ろす音を背後にレコードコレクションを漁る。その中から、もし僕が今の彼女の立場だったらを考えてたった一つを選ぶために一つ一つ眺めていった。僕はここにあるあんな歌やこんな歌で色んなことを乗り越えてきたんだ。
(今聴くならこれかな)
そのレコードを取り出すのは随分久しぶりですっかり埃を被ってしまっている。これは確かあの時…っと、いけない、物思いに耽っている場合じゃなかった。
電源を入れて、取り出したレコードをそっとターンテーブルに乗せる。面はA、回転数は33…うん、あってる。しっかりと見て確認するのが大切なんだ。回転させて針を落とす…なんてこと無い。ルーティンとしてすっかり手に馴染んでいる作業…のはずなんだけれど。
(手が震えてる…)
こんなに針を落とすのに慎重になったのは、これに初めて触れた時以来かもしれない。普段は何気なくポンと落とせるその針をとびきり真剣に慎重に落とした。なんなら針を落とすことに集中しすぎて息が止まっていることにも気づかなかったくらいに。
水底から水泡が浮き上がってきたような、そしてそれが弾けるような音だけが僕と君の間にゆっくりと横たわる。デジタルで整えられた音楽にはない、かさついた音が流れ出す。
──適当に座ってて
確かに僕はそう言ったよ。そう言ったけれど、どうして君はベッドに座ってるの。普通は足元のラグとか、せめてベッドを背もたれにする程度じゃない?友人とは言え男の部屋に来て、しかも二人っきりの状況で、その上でベッドに座ることの意味を分かってるの?分かってないよね、うん。それもまた純粋な君らしいけどさ。
僕は当初君が座ることを想定してたラグの上に腰を落ち着けた。気分が変に高揚しだしててまるで君と踊り出したいような気分だけど、ベッドの上で君の横に座る勇気が僕にはなくて…勇気?何いってるんだ、僕は別に、別に……。
ちら、と部屋を見回す。見慣れたレイアウトに見慣れたルーシーが居るだけなのに見慣れない光景になってしまっていて、それがなんだか異様に落ち着かない。ただ初めて友人を部屋に招いただけなのにどうしてこんなに落ち着かないんだろう。
だからか僕の心臓もおかしくなってしまったらしい。音楽を聴いたことによって興奮して心拍が上がることはある。でも、それでも今ほど上がったことは無いと思う。徐々に僕の心臓は足を速めていって、今はこの曲と同じくらい、BPMでいうなら190くらいあるんじゃないかなってくらい忙しいみたい。まぁ、こうしていたら僕の心臓が今どれだけ忙しくしているか、なんて君には分からないと思うけど。
「フフ」
不意に呟かれたルーシーの声に心臓がドキッと跳ねる。まさか、僕の心臓の速さに気づいたわけじゃないよね?
「…今何か面白いことあった?」
「別に?フフフ……」
「君は時折そうして一人で笑い出すことがあるよね…」
ちょっぴりの気まずさから左斜め方向にいる彼女の方を向けなくなって、でもじゃあどこを見たら良いんだろう。さっきまで僕はどこを見つめていた?わからない……。
僅かばかりの気まずさも音楽に身を沈めていたら溶けて無くなっていく。
僕はこうして音楽を聞くたびにそれを聞いた時の過去の青い思い出を透かして見る。青い思い出──そう、陳腐な言葉で言うなら青春を。と言っても僕もまだ世間一般的に言えば青春真っ盛りなんだろうけど、人はいつでも過ぎ去ったものに春を見出すんだ。
……なんて大層な主語で話したけどこれはただの僕の持論だからね。
君はロックなんか聴かないよねってそう思いながら、連れてきて半ば無理やりロックを聴かせてる。でもね、僕の好きなものを好きになってほしくて、同じ世界を見て同じ言語で話したくて…なんて、これは僕のエゴだ、そうだよ。僕の独りよがりな願い。そもそも僕はこういう時をこんな歌やあんな歌で乗り越えてきたことしかないから、君がロックを聴かないと知っていてもこれしか出来なかったんだ。これが君を慰めるための僕の精一杯。
詞、音、タイトル、ジャケット…それだけじゃない、その曲に関わる全てが作用して紡がれる一つの物語が好きだ。沢山の人達が心を込めて作り出した物語に浸っている時間が好きだ。心が洗われることも、捉われることも、救われることも、傷むこともあるけれど、それがいい。それが人生においてどれほど素敵なことか。僕の24時間のうち音楽に触れる時間が占める割合は大きくて尊いもので、そしてその時間に僕一人だけじゃなくて大切な人が傍に居てくれたらきっともっと──あぁ、そうか。
そうか、僕は、今まではっきりと意識したことはなかったけれど、特別な存在にこうして寄り添って音楽を一緒に聞いてほしいんだ。そして、その特別な存在に君になってほしいから、君がロックなんて聴かないと知りながら適当な口実をつけてこうして僕に付き合わせているんだ。
僕は──僕は、君が好きなんだ。