Under the Rose(……あれ? ここ、どこ?)
遊び相手もいない退屈な屋敷を抜け出して、一人楽しく森を冒険していたら全然知らない場所に出てしまった。
それはまるで迷路のようになった美しい薔薇園だった。今が盛りの秋の薔薇が咲き乱れた空間はとても綺麗だ。
この広い屋敷は俺の家でもあるけれども、何せ子供には敷地が広すぎて知らない場所がまだまだいっぱい有る。
俺が今居る、屋敷の裏に広がっているこの森もその一つだ。
結構長い探検の末に迷い込んだ森の深い所に、こんなに綺麗なところがあっただなんて全然知らなかった。
しかし困った。適当に歩いてきたから帰り道が全然わかんないや。
さて、どうしようかと辺りをぐるりと見渡す。とりあえず、探索するかと複雑な作りになっているっぽい薔薇園の中を進んでいった。
右へ左へと曲がりくねった道の先にガゼボと思しきドーム状の屋根を見つけたから多分あそこが中心だろうなとあたりをつけて、そこを目指してさらに歩く。
そうしてようやくたどり着いた先のベンチには先客の姿があった。
誰だろう? こんなところに一人でいるなんて。俺からは長い黒髪の後ろ姿しか見えないから顔はわからないけれども、もしかして女の人かな?
あ、じゃあひょっとしてあの人がケン兄の奥さんだろうか?
俺の兄ちゃんであるケン兄は「催眠の一族」と呼ばれる俺ら血族の「ご当主様」だ。で、その弟の俺、トールは一応「後継者」ってことになっている。
ま、後継者って言っても、催眠耐性がバカ高い代わりに相手に幻覚を見せるくらいの極々弱い催眠能力しか持っていない俺はケン兄以外の一族からは軽んじられてるんで、こうやって抜け出しても基本的には誰も気にせず放置されているから結構気楽に自由を満喫させてもらってるんだけどさ。
家事労働を担う人間の下僕共は決められた動きをするだけだから俺に注意なんて払わないし。だから普段から屋敷を抜け出し放題だ。
と言っても、ケン兄からくれぐれも敷地内からは出ないように言われてるし、実際出ようと試みたけども外を巡回してる警備用の下僕に阻まれちゃうからまだ本当の意味で外に出たことは無いんだけれども。
俺がこんなに気ままにさせてもらえてるのも、ケン兄がまだ若くてこれから先、自分の子どもを持つ可能性が高いってのもあるだろう。
御当主様であるケン兄にはすでに奥さんが居る。
けれども、ケン兄は屋敷のどこか、自分しか知らない場所に奥さんを囲い込んで他の誰にも会わせた事が無かった。
弟である俺にすらも。
俺が奥さんに会ってみたいって言っても「もうちょい大きくなったらな」っていつもはぐらかすばっかり。俺だってもう十歳になったのに!
聞いた話によると、ケン兄の奥さんは元々人間だったらしい。
ケン兄が当主になってしばらくしたある日、突然外から連れてきたんだそうだ。
奥さんが居るんだったら、俺じゃなくて奥さんとの間に産まれた子供に一族を継がせればいいのにって俺は思うんだけども、当の奥さんが血族に転化した時に上手く適応できなくて妊娠出産に耐えられないほど体が弱くなってしまったらしい。
だから奥さん(俺からしたらお義姉さんか)が大事なケン兄は無理はさせたく無いって言って早々に子供は作らないって皆に宣言して俺を後継者に指名した。
そんでもって病弱を理由に一切奥さんを表には出さなかった。
たぶん病弱ってのも本当なんだろうけども、それ以上に純血主義の年寄り連中が元人間のお嫁さんに悪い事をするかもってケン兄は心配してるんだろうな。
そしてきっとその予想は当たっているだろう。
あいつら、ケン兄の奥さんが元人間なのもケン兄が子どもは作らないと宣言したのにも納得いってないみたいだし。
何だったら、母親が人間のケン兄と俺のことも影で『混ざり物』って馬鹿にしてるくらいだ。
でも、あいつらが何と言おうと今の一族の当主はケン兄だし、一族の中で一番能力が強いのもケン兄だ。
だから、内心はどうあれケン兄に媚びて妾か正妻の座を射止めようとする同胞の女も多かった。
もっとも、ケン兄は奥さん一筋でそんな連中には見向きもしなかったけれども。
誰も知らない、見たことも無い、ケン兄の最愛の人。
もしかしたら今見えている後ろ姿がその人なのかも知れない。
向こうは俺が入って来ている事には気がついてないみたいだった。
どうしよう? 声かけて良いのかな。
だって、お話ししてみたい。でもいきなり話しかけたらビックリさせちゃうかな?
そうやってまごまごしていたら、俺の気配に気がついたのか不意にその人がこちらを振り返って目が合った。
お義姉さん(仮)がこれ以上無いくらい目をまん丸に見開いて俺を見る。
多分俺もおんなじ表情だ。いや、ポカンと口を開けている分お義姉さんよりだいぶ間抜け面か。
でも馬鹿みたいに口が開くのも仕方ないと思う。
だって、振り返ったその人は見た事もないくらい綺麗な人だったんだから!
なんか、もう綺麗としか言えない。とにかく美人! 周りで咲いている盛りの薔薇が霞むくらいに!
さらりと肩を流れる長い髪は黒く艶やかで、月明かりに照らされて淡く光る白い肌によく映えた。
大きく見開かれた赤い瞳は鮮やかに澄んでいて、よく見ると瞳孔を丸く囲むように金色が散っていて、さながら黄金の花芯を持つ赤薔薇のようだ。
姿を現した薔薇の精だって言われても思わず信じてしまいそうになるくらい、綺麗な人。
(この人が、ケン兄の奥さん……?)
ケン兄が自分に群がる女に全く見向きもしない理由がわかったわ。だって、こんな美人が奥さんだったら他の女の人なんて石ころみたいなもんだ。
は〜、美人なんて一族の女の人で見慣れてたつもりだけど、上には上がいるんだなぁと驚いていた俺は、お義姉さんが口を開いた事で更なる衝撃に襲われた。
「……もしかして、トール、なのか?」
薔薇の花弁のような唇から発せられたのは、ベルベットを思わせるような艶のある、けれども女の人ではあり得ない程の低い声。
……え? あれ? ひょっとしてこの人、男? って事は……?
「お義姉さんじゃないのー‼︎ 誰ーーっっ⁉︎」
獣の声すら聞こえない深夜の森の薔薇園に、そんな俺の叫びが響き渡った。
結論から言うとお義姉さんでした。いや、お義兄さんか。
あの後、混乱する俺の側まで謎の美人(男)がやって来て自己紹介してくれた。
身につけているものこそ仕立ての良い、けれども一人でも着替えができそうな首の詰まったデザインの女物のシンプルな黒のデイドレスだけど、立ち上がった姿はケン兄と変わらないくらい背が高く、細身ながらもしっかりとした骨格はパッと見では気がつかないけれども、よくよく見れば確かに男の人のものだ。
少し躊躇いながらミアと名乗ったその人は、男だけど俺が予想した通りケン兄の奥さんで間違いないらしい。
なんでも、男である事を隠しているからここから出られないんだとか。
なるほど、そりゃ表には出せないし子供なんてできないよね。
噂の奥さんが本当は男だってバレたらケン兄の周りはますます煩わしくなるのは目に見えている。それは隠す必要あるわ。
ここは当主だけが知る秘密の通路でしか来れないはずのプライベート空間で、然るべき手順を踏まないと薔薇園の中心にはたどり着けないように細工されているのにどうやって来たのかって聞かれたから、適当に冒険してたらここに出たって素直に言ったら驚いてた。
ミアさん、俺の事知ってたんだって。
俺はもちろん全く覚えていないけど、俺が物心つく前、よちよち歩きをし始めたくらいの頃まではケン兄に連れられて俺も良くここに来ていたんだって言ってた。
だからかな? 「ずっと会いたかった」って泣きながら抱きしめられた腕の温もりが不思議と懐かしい気がしたのは。
薔薇園の奥、俺が来た方とは反対側に小さな小屋があって、そこに隠された階段で降りた先にある地下室がミアさんの住まいだった。
決して広くはないそこは一目見ただけで質が良いとわかる美しい物だけで構成されていて、けれども同じように上等のものだけで構成されている俺達の住む屋敷と違って、ここには格式ばってばかりで息の詰まる雰囲気はない。とても温かみのある落ち着いた優しい空間が広がっていた。
リビングに招かれて、ミアさんが出してくれたお茶とお手製のお菓子を食べながら色々お話しもした。
内容は勉強はつまらないとか、後継者とか言われても良くわからないとか、主に俺の愚痴だったんだけど。ミアさんは俺が何を言ってもうんうんってニコニコと嬉しそうにきいてくれる。
だから、もしかしたらミアさんなら俺の知りたい事を教えてくれるかなって思ったんだ。
誰に聞いても教えてくれない、ケン兄には聞けないことを。
「ねえ、ミアさんはさ、おれのもう一人の兄ちゃんの事知ってる? ミカエラって言うんだけど」
どうやら、ミアさんは俺がミカ兄の事を聞かされていないと思っていたみたいで「どこで、その名前を……?」と目を丸くした。
「んー、なんかさ、よく知らない一族のおっさんがこの間俺に言ったんだ。俺が赤ん坊の頃に権力争いっていうの? それでケン兄に負けて殺された二番目の兄ちゃんが居るって。だからケン兄に子どもが産まれたら俺もそのうち殺されちゃうよって」
「……子供になんて事を。その無礼者はどんな相手だ? 名は覚えているか?」
「えー? 名前は忘れた。なんかそれっきりで二度と見なかったし」
「トールは……自分の兄さんがそんな事をすると思うか?」
「まっさか! 最初からあんなおっさんの言う事なんて信じてないよ! ……でも、俺、そのおっさんに聞かされるまで知らなかったからさ。ケン兄以外に俺に兄ちゃんが居ただなんて」
俺とケン兄の間にいたという、もう一人の兄ちゃん。
どんな人なのか知りたくても、写真も肖像画も何にもないし、誰に聞いても詳しいことは教えてくれない。
俺がミカ兄について知っていることは顔も能力も前当主だった父さんに良く似ていた事、そしてケン兄との後継者争いに負けて自分の派閥諸共処刑された事。それだけだ。
「どんな人か知りたいんだ。……なんで、ケン兄と喧嘩しちゃったのか、とか。色々」
「に……ええと、旦那様にはきかなかったのか?」
「ケン兄に? 聞いたよ。ミカ兄ってどんな人って。なんで喧嘩したの? って。でも詳しい事は教えてくれなかった。その話は俺が大人になってからって……」
シュンと俯いた俺の頭をミアさんが優しく撫でてくれる。
その手が気持ち良くて、つい「もっと」って甘えるみたいに抱きついちゃった。
そんな俺をミアさんが優しく抱きしめてくれる。
ミアさんの腕の中はあったかくていい匂いがした。すごく落ち着く、優しい匂い。
「……私は、ミカエラの事はよく知っている」
「だったら!」
ミカ兄の事を教えてもらえると思って勢い込んで顔を上げる。
でも、そんな俺に困ったように笑いかけてミアさんは静かに首を横に振った。
「けれども、に、あ……その、旦那様がまだトールに教えるべきではないと判断したのなら、私の口からは言えない」
「……そっか」
ちょっと気まずい沈黙が落ちる。
ミアさんにも立場ってもんがあるもんね。ケン兄のいないところで勝手な事はできないか。
「変な事聞いてごめんね」と言おうとして俺が口を開きかけた時だった。
かちゃりと鍵の開く音がして、「ただいまー」なんて間延びしたケン兄の声が聞こえてくる。
弾かれたように「旦那様!」と声を張り上げ、ミアさんが慌てて扉の方へ向かったけども、ミアさんがリビングの扉を開けるよりケン兄が扉を開ける方が早かった。
「は? 旦那様って、お前急に何のプレイ……」と目を丸くしたケン兄は、中にいる俺に気がついてますます目を丸くして「トール?」と一言呟く。
「ケン兄おかえり! お邪魔してるよ」
たしかケン兄は今日は仕事で夜明け近くまで外出の予定だったはずだ。と言うことは、もうそんなに時間が経っていたのか。ミアさんと居るのが楽しすぎて全然気づかなかったや。
外出先から直接こっちに向かってきたんだろう。コートを脱ぎながら「お前、どうやってここに?」と問うケン兄にかくかくしかじかで、と経緯を説明する。
「と、言うわけでミアさんとお茶してた!」
「……ふーん、なるほどねぇ」
俺の話を聞いて、なんだか面白そうにニヤニヤしながらケン兄が、脱いだコートやらタイやらを受け取って両手が塞がっているミアさんの腰を抱いて引き寄せた。
「ところでミア。旦那様にお帰りなさいのキスは?」
ケン兄のおねだりを「……トールの前だ」とほんのり赤い顔でミアさんが拒否する。
そんなミアさんを見て「そいつぁ残念」と全然残念そうじゃない顔で笑ったケン兄が素早くミアさんの唇を奪った。
「ん⁉︎ な、何を……っ!」
「旦那様からのただいまのキスだよ」
「トールの前で、そんな……っ‼︎」
「俺の事は気にしないでよ」
真っ赤になって抗議するミアさんにお構いなくと笑顔でヒラヒラ手を振る。
「だってよ、俺らの弟は賢いな」ってケン兄がまた笑って、リンゴのように真っ赤に熟れたミアさんの頬にキスをした。