上書いて 小さな紙袋にスコーンを二つ、それだけ。
祈りは捧げない。作法は要らない。意味がない。
そう、意味はないのだ。ノースディンはある墓をぼんやりと眺める。刻まれる名はあれど、その文字列に意味はない。この下に埋まるものは何もない。この墓標は、ただの置物と同義なのだ。
墓標は、友であるドラウスのものであった。より正確に言えば、ドラウスが人間のふりをして生き、死んだ時のものであった。吸血鬼には珍しいものではない。人界に紛れて生き、時の止まったままの容貌を怪しまれる前に死を偽装して去る。ある程度長命になった吸血鬼には少なからず存在する。ノースディンにも。
己の墓をどう扱うかは各々の考えの違いであった。思い出のひとつとして気にかける者もいれば、一欠片の心もなく忘れてしまう者も。ドラウスはといえば、後者であった。
だから、この墓標がドラウスのものであると知るのは、ノースディンだけなのだ。
ふと思い出した時、なんとなく手の空いた時、特に決まりも周期もなく。ノースディンはふらりとこの墓標を訪れた。紙袋からスコーンを取り出し、ひとつ齧る。ひとつは紙袋に入れたまま、墓標の元に。それは共食の行為であったか。
はじめはいつだったか。なんとなく、人の真似事をしてみようかと思ったことがあった。まるでその下に、本当に目を閉じて眠っているのだと、そう気にかけてみようかと。自分の墓でやるにはあまりに実感がないから友の墓を選んだ。興味本位と気紛れに、数度、同じことをした。
特に湧き上がる感慨はなかった。当然だ。そこに眠るものはなにもなく、友は確かな事実として生きているのだから。
ただ、それを止めることもしなかった。時に五年十年と期間が空いたことはあったが、ノースディンが無意味な行為を止めることはなかった。
それは、ともすれば吸血鬼の執着の一端ではあったかもしれない。例えそこに意味がなくとも、己の意思で始めたことを終わらせてしまうのは、ノースディンにとって妙に気味の悪いことだったのだ。
だから今日も、なんとなく思い立ってその墓標を訪れていた。違うことがあったのは、そこに初めて、いないはずの死者が現れたことだった。
「ノース! こんなところにいたんだな。屋敷に居ないから探したよ」
「ドラウス? 何故、ここに」
「あー、御父様がさ、城のワンフロアぶち抜いてスケートリンクを作るって言い出して、それで、その」
「ああ、うむ……。いや、分かった、手伝えばいいんだろう」
「助かるよ。ああ、ところでさ」
そこまで言って、ドラウスは目を竦めた。心做しか空気が棘を帯びた気がして、ノースディンは知らず背を震わせた。
「知らなかったな。ノースに、死んだ後も気にかける人間が居たなんて」
冷たい視線が墓標に注がれる。今にも砕いてやりたい、とでも思っているのは明らかであった。
「……いや、これはお前の墓だぞ。お前はまあ、覚えていないのだろうが」
ふっ、と空気が解けた。墓標とノースディンとを見遣って、ドラウスは唸った。
「そうなの? うーん……、こんな名前を名乗ったことも、あった、ような……?」
よく覚えてるね。そう言って既に興味をなくしたらしいドラウスはじゃあ行こうかとノースディンを抱き上げて地を蹴った。
「俺が飛んだほうが早いから、掴まってて。ああそうだ」
ひょい、と念動力で眼下に置き去られかけた紙袋を拾い上げる。そのまま中のスコーンを取り出し口に放り込んだ。
「俺と茶が飲みたいならそう言ってくれよ。ノースからの誘いならいつでも行くのに」
咀嚼して、飲み込んで言った。
「そんな意味のないことしてないでさ」
「……そうだな」
それ以来、墓標を訪れる者はない。