白無垢に落ちた血のように 広く、広く。果てなどないように見える白い空間になんとはなしに佇んでいると、不意に声を掛けられた。
「どうした、月島軍曹?」
掛けられた言葉に、ぼんやりとしていた意識を取り戻す。目の前にいつの間にか現れた男が、椅子に腰掛けながら優雅な手付きでティーカップを持ち上げている。静かにカップを傾けて中身を飲む仕草をすると、男は月島を見上げて言った。
「突っ立っていないで貴様も座れ。上官命令だ」
「……は」
軍服に身を包んだ男にそう言われ、月島は椅子を引いて向かい側に腰掛ける。被っていた軍帽を脱いで机の端に置き、背筋を正して向かい合う。月島が着席したのを見て、男は机に置かれたティーポットを傾けてその中身を空いていたもう一つのカップに注いだ。それを月島に差し出し、男はもう一度手元のカップの中身を煽った。
「昔話でもしようか」
そう言って、今度は焼き菓子を一つ齧る。机の上に目をやれば、小麦色が艶めく菓子の乗った皿が見える。先程までこの白磁の机の上には茶器しか無かったはず。はて、いつの間にそんなものが、と思うが月島はそれを口には出さない。不思議と、それがそこにあるのだという違和感が薄れていたからだ。
「樺太に行った時のことを覚えているか?」
そう問われて浮かんだ記憶に、見覚えがないはずなのに懐かしさを感じる。何かを考える間も無く、言葉がするすると口から溢れ出る。
「貴方が将校として、上官として……大いに成長できた旅だったと記憶しています」
月島がそう答えれば、男は満足そうに微笑んで「そうか」と呟く。
「お前ほどの男がそう言ってくれるのならば、やはりあの旅は愛しい記憶だ」
男は机に肘を置き、指を組んで口元を隠す。目を細め、月島をじっと見つめるその瞳に、ぞわりと背筋が粟立つ。何かはわからないが良くない気配を感じて、それを変えようと唇を湿らせて喉を震わせた。
「あの、──殿……?」
男の名前を口にすれば、それは言葉にはならず空へと消える。その不可解な現象に眉を顰め、困惑した表情を浮かべながらはくはくと何度も口を動かす。なんとかして名を呼ぼうとする月島の様子に、男はやんわりと満足気に微笑む。
「月島軍曹──」
再び男に名を呼ばれ、月島は顔を上げる。男は姿勢を崩すことなく、月島をただ見やる。
「紅茶は嫌いか?」
「……いえ」
男の問いに、月島は少し間を置いて答える。つい先ほど淹れられた紅茶は、手を付けられることなく月島の前で甘い香りを揺らしている。
「せっかく淹れた茶が冷めてしまう。飲んではくれないのか?」
男は眉を下げ、機嫌を窺うように問いかける。先程までの自信に満ち溢れた表情とは打って変わって、少しばかり頼りないようなその表情に、月島は何とも言えない気持ちになる。月島はどこかむず痒いような心地を抑え、むぐむぐと口を動かした。
「いえ、その」
紅茶は嫌いなわけではないし、上官が手ずから淹れた茶を飲まないのは礼儀に欠いている。それはわかっているのだが、何故か月島の手はティーカップには伸びない。動かない己の手を見やり、ごくり、と渇き始めた喉を潤すように唾液を飲み込む姿を見て、男はもう一度月島を呼ぶ。
「月島」
「……ッ」
顔を上げた先で男と目が合う。強い意志を持ち、抗うことを赦さない強者の眼が、淡い紫色に鈍く光って月島を射抜く。男は月島を呼んだあと、言葉を紡ぐことなくただ見つめてくるばかりだった。背筋がずっと、ざわざわと粟立っている。
「……いた、だきます」
「うん」
月島が喉を無理矢理振るわせてそう言えば、男は目を細めて微笑う。何故か震えそうになる手を押さえつけながらカップの取っ手を持ち、ゆっくりと口に運ぶ。そうして、それに口を付けようとした瞬間──。
「──月島ァ!」
「っは……!」
息苦しさに目を開くと、眼前に頬を紅潮させた年下の恋人がいた。ボヤける視界を瞬きで拭うと、ゼェハァと肩で息をする恋人の姿が良く見えた。寝覚めで鈍い思考を無理矢理巡らせ、息を整えるようにゆっくり深呼吸をする。
「……鯉登さん、なにやってんですか」
月島が睨みながらそう言えば、身体の上に跨ったままの鯉登が息を整えながら答える。
「えーと、家に帰ってきたら月島が寝とってな」
「ええ、はい。ようやく連勤から解放されましたからね」
「そんで、オイが帰ってきたのにちっとも気付かんで寝ておったものだから」
「ええ、残業続きでまともに眠れてませんでしたからね」
「ちょーっと、悪戯してやろうと思って……」
「はい」
「……月島の鼻摘んで口吸うた!」
とびきりの良い笑顔でそう言い放った鯉登に、月島は腹筋に力を入れて渾身の頭突きをかました。ゴチン! とかなりの強打音がしたが、月島の頭には何一つダメージは与えられない。鯉登は衝撃のままに月島の上から転がり落ち、ベッドの下で額を抑えて蹲った。
「い……っ痛かぁあ! こん石頭ッ! なんてひで奴ッ……!」
「人の鼻と口塞いで窒息させようとする奴の方がよっぽど"ひで奴"ですよ」
そう吐き捨て、月島は涙目で蹲る鯉登の脇をドスドスと足音に怒りを滲ませながら寝室を出て行った。その後ろ姿が見えなくなり、足音が遠ざかってから鯉登はゆっくりと息を吐き出す。額を抑えながら立ち上がり、ベッドに腰掛けてそのまま仰向けに寝転がった。
「……間に合った」
大きく、長い溜息を吐いたあとに、鯉登は顔を手で覆って小さく呟く。間に合った、良かった。安堵から出たその吐息は、月島の匂いが残る部屋の空気に溶ける。
顔を覆う手を下ろし、鯉登は何もない天井をじっと睨む。何も見えない、何も存在していない。けれど。
「月島はもう十分罰を受けたじゃろ……ないごて……」
理解出来ない理不尽に疑問をぶつけるしかない。このままでは、いつかきっと奪われてしまう。自分に何が出来るのか、皆目見当もつかない。何も出来ないかもしれない、けれど何もやらないよりはマシだ。
「……月島の自由は奪わせんぞ」
拳を握り、決意を改めて口にする。そう、今隣に立っているのは自分なのだから。それを邪魔する権利は誰にもありはしない。それが例え──"かつての自分"だったとしても。
「鯉登さん! ご飯ですよ!!」
「! 今行くー!」
ほんのり怒りの混じった月島の声が自分を呼ぶ。それが嬉しくて、鯉登は明るく、いつも通りに無邪気な返事をして部屋を出た。
広く、ただただ広く白い、何もない空間で白磁のテーブルと優雅に茶を飲む男が一人。男は手に持ったティーカップを静かに置くと、甘い香りを立てる、口付けられなかったもう一つのカップの縁を指でなぞった。
「……我ながら本当に、何度も邪魔して忌々しい。鶴見中尉殿もこんな心地だったのだろうか?」
口の端を歪め、苛立ちを隠せないままに独り言ちる。青臭く、何の力も持たないのにギラギラと光る命がこんなに憎たらしく感じるとは。自分が只人だった時には考えられなかったことだ。
カップの中を覗き込めば、愛しい存在と憎らしい命が視える。零れ落ちた小さな自我が、己の手から離れてしまった愛を捕らえていることに沸々と怒りが湧いてくる。無邪気に笑いあうその姿に青筋を立て、衝動のままにカップを叩き付ければ派手な音を立てて陶器は砕け、その破片が手に食い込んだ。痛みはないが、只々憎らしい。
「月島……お前は私のものなのだから。私のそばにいないのがおかしいのだから……」
微睡の中でしか会えぬ恋人に、悠久の時を生きる者とて寂しさは募る。早くお前の手を握りたい。あたたかな唇に触れて、互いを貪り、愛を紡いで睦み合いたい。
「お前の口から、私の名を聴かせてくれ……」
そう言って、男は目を閉じて、ゆっくりと目を開く。そうして、机の上に置かれたままの軍帽にゆるりと触れて微笑んだ。
「──決して逃しやせん」