ヴォックスは長い時間を生きてきた長命種であった。
どこからやってきたのかも分からない、どんな生き物かも分からない。人の心にするりと入り込み、絆て、懐柔する声だけが彼を彼たらしめるものだった。いわずがな彼は人ではなく、彼の声に宿る魔性を垣間見た者は皆口を揃えて【声の悪魔】と呼び畏怖した。
そんな彼にも昔は家族とも呼べる五百二十二人の仲間たちがいた。お互いを必要としあい良い関係を築けていたと思う。しかし激しい戦火渦巻く日ノ本の、時代の荒波に揉まれ全てを失った。
…
強く拒絶するかと思われたがヴォックスは周りが思うより、素直にミスタの死を受け入れたように見えた。
そうしてミスタが色も温度もない肉塊になって棺に納められた時、ヴォックスは彼の家族と彼に関わる人達にどうしても喪主を務めさせて欲しいと頼んだ。
彼を愛している。これからもずっと。
ミスタも私にもお別れする時間は必要だから、だから、自ら送り出したいのだ。
彼の切なる願いは聞き届けられた。
葬儀は仏教式で執り行われた。
これには周りも瞠目したが、ヴォックスの強い希望でミスタは息を引き取ってからわずか三日で白い骨になって二十数センチの真白い壷に収められた。
四十九日を迎えるまで、ヴォックスはミスタを納めた小さな壺と一緒に住んでいた家で過ごす。
仏教の意味合いとしては死の穢れを周りに振り向かないためだが、気持ちの精算をするためだった。
ミスタが火葬されるまでの三日間は全く眠れなかったためか思考が冴えない。骨壷を大事に抱えて家に入った瞬間にヴォックスはミスタが死んでから初めて泣いた。
なんとなく、玄関のドアを開けたらそこに待っていてくれてる気がしていた。
おかえり、遅かったね。なんでもない、いつものように迎えてくれるのではないかと。
そう思ってしまっていたけれど、開ければそこには冷えた空気と明かりのない真っ暗な空間が、現実を押し付けるように口を開けて待っていたのだ。
もうミスタは居ない。会えない。話せない。
その事実を痛いほど思い知らされてヴォックスは声を出すのも厭わずに泣いた。
彼がミスタの前で泣くことなど一度としてなかったが、今ここにミスタがいたのならどうしたのダディ、苦しいの、どうしよう、大丈夫?じゃないよね?なんて慌てふためいてもヴォックスの涙を拭ってくれただろう。
今ほどミスタが恋しい瞬間なんてなかった。
後悔しても仕方の無いことと長い時間の中で培った経験から頭では分かりつつも、ミスタの名前を呼んだ。
愛していると伝えたい。
伝えたいが、音に発せられた言葉を受け取る人がもう居ないことが、言い表せないほどに恐ろしく、悲しい。言葉を飲み込むようにギリと唇をかみ締めた。
喉がきゅうとしまって苦しい。目が腫れぼったくなった頃にヴォックスは蹲っていた玄関の床からゆっくり立ち上がって寝室に向かった。
すぐにでも眠りたかった。意識を落としてこの苦しみから逃れたいと思うほどに。
ベッドのヘッドボードに寄りかかる。ミスタの特等席である腕の中には、地模様の光沢が繊細な布地を通り抜けてヴォックスの体温が移った骨壷。
未だにポロポロと温かい水滴が精悍な造りの顔を伝ってはこぼれ落ちていた。顎から離れた雫は自身の服やシーツを濡らしていく。
パタッパタッという音がどこか心地良い気さえするほどに、ヴォックスの感性はやせ細っていた。
ゆっくりと瞼を下ろす。
ぷつりと糸が切れるように、ヴォックスは眠りについた。
何時いかなる時も残酷に朝陽は昇るものだった。
閉めるのを忘れたカーテンの隙間から日差しがヴォックスの顔を照らした。瞼越しにジリジリを感じる眩しさが鬱陶しい。
視界に一番最初に飛び込んできたのは愛しい人の入った入れ物。
おはよう、と言葉にしそうになった。昨日感じた恐れからそれは音になることは無かった。僅かに開いた唇から引きつった空気が漏れて、つんとした痛みが鼻の奥に走る。
意志と関係なく瞳が潤んで、自分はこんなに涙脆かったかと動揺した。辛うじて零れる前に涙を拭って、部屋を見渡すと雑に畳まれたミスタの着替えが枕の横に置いてあるのを見つける。
ミスタの死因は誰にでも起こり得るものだった。
事故や殺人に巻き込まれた訳ではなく、突然の心不全によるものだ。
その時ミスタは朝家を出て探偵事務所まで車をかっ飛ばしてる最中だったらしい。急に胸部の苦しさに襲われて、何とか安全に停車出来たものの一人で、助けを呼ぶことも出来ずそのまま。
道路に面したカフェの店員が不自然な停車に不信感を覚えて、様子を見に行った時にはミスタの心肺は停止していた。
もちろん然るべき対応はしたとの事だったが、ミスタの魂は身体を出て行って戻ってくることはなかった。
二人でこれから生きる時間全て互いに寄り添うことを誓った時、ミスタは両者の間には覆せない理があることを承知していた。
「俺は絶対にヴォックスを置いていくよ。考えるだけで怖いけど、間違いなく俺の方が早く死んじゃうだろうからさ」
ヴォックスもこれを承知していた。正直ミスタを人でない者にしたとしても同じだけの時間を共に過したいと思わないこともなかったが、ミスタ自身が望まなかったので諦めざるを得なかった。
人ならざるものになったとしてヴォックスはそんなミスタの事も受け入れるし喜んでくれるかもしれない。ミスタとて同じだけの寿命を得たなら本来より多くの時間をヴォックスと過ごせることは理解していたが、ミスタの心根が拒んだ。日頃から自分に自信がないことがあるミスタだが、一心に愛を注いでくれる唯一の存在に、ミスタもまた一途に応えていた。ヴォックスが愛してくれた自分のまま彼を愛したかったのだ。
お互い沢山この事について話し合って、伝え合った結果の決断だった。
そう、覚悟はしていたはずだったのだ。
自分の感覚からすれば人が一生を終えるのは余りにも早い。
覚悟が足りなかったかもしれないな。
線香を絶やすことなく燃やす。
静かに燻る先端からは細い煙が登り続けている。
こんな煙はあの子の口に合いはしないだろうに、それでもこうするしかもうヴォックスが彼にしてあげられることは無いのだ。