きいろの黎明●
目が覚めたら暗闇だった。
ここは病院で、ベッドの中で、大人達がたくさんいて、家族が死んだことを伝えられ、警察があれこれ聞いてきた。
……よく、分からなかった。
ただ、真っ暗で、真っ黒で、「なんで真っ暗なん?」「電気つけへんの?」と聞いたら、眼球が二つとも壊れてしまったことを知らされた。
それからのことはよく覚えていない。
気付いたら、吹雪の中を――病院から抜け出して――暗闇を――素足で歩いていた――目を覆う包帯を引き千切り、空を仰いだ――太陽も星もない、果てしない闇が、暗闇が、ぽっかりと空いた大穴のような空が、そこにあった。
「見えへん……」
目を見開いたまま、呆然と呟いた。……だが、どうしたことか。
見えるのだ。ここまで歩いてこれたように。暗闇の中で……そこに何があるのか、見えるのだ。壁や木の向こう側すらも、見えるのだ。音の反響が、空気の震えが、風が、少年の黒い世界に白い輪郭を作り出す。
……目を失った者が、他の感覚が研ぎ澄まされる話を父から聞いたことがある。きっとそれだ。少年はそう思った。
(見えるなら……狩りができる……!)
込み上げる激情を狂笑に変えた。悲しむものか。涙を流すものか。悲しみとか涙とか、寂しいとか怖いだとか、家族に会いたいとか、そんなものを心の中で衝動のまま殺戮する。ほろに砕いて、丁寧に壊して、二度と直らぬようバラバラにして、殺戮する。この復讐に正気が足を引っ張るのなら、そんなものは豚にでも喰わせてしまえばいい。
「殺してやる――」
少年の情動に合わせて、風がいっそう強く渦巻いた。吼え叫ぶような激しい旋律を、雪を舞い上げながら狂おしく奏で始める。
「侠太郎くん――」
後ろから、大人達の声と駆け寄ってくる足音が聞こえる。
少年は振り返った。笑ったことで顔の筋肉や皮膚が動き、縫われた傷が裂けて、だらだらと、おびただしく流血していた。
血だらけの顔と、縫合痕だらけの悍ましい顔と、爛々炯々と見開かれたぐちゃぐちゃの目玉。怪物、としか呼べない異様に、大人達はぎょっとたじろぐ。
「おう先生、俺もう元気やし退院するわ。おおきにな、ほなの」
そこまで言って、身体が痛くて、嫌に寒くて、無理やり動いたから体の傷まで血が出ていて、少年は雪の上に倒れた。その瞬間、吹き荒れていた風もフッと止んだ。
●
「――のう侠太郎、負けるちゅうんはなんやと思う?」
「え〜……? うーん……どつかれて倒されてもた時?」
「ちやうで。負けやと思うた時じゃ。おどれが負けやと思わん限りはの、まだ負けやないっちうこっちゃ。ええか? どんだけしばき回されても……なんぼぶっ倒れて気ぃ失うて、歯ぁ折れて血尿ちびっても……気持ちで負けたらあかんど、侠太郎」
「……おう!」
「侠太郎、ええか、覚えとけよ、侠太郎の侠は男気の侠や。『漢』であれよ。分かったな?」
「任せときいな〜! ……のう、オトン? オトンはさあ、負けてもたな〜思うたこと、人生で一回でもあるのん?」
「そ〜〜〜れはアレじゃあ、オカンにゃ毎日惨敗じゃあ! ダハハハハ」
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ああ、覚えとるよ、オトン。
教えてもろたこと、全部全部覚えとるよ。
俺は未だ、負けとらんよ。
寂しうないよ。悲しうないよ。辛ぁないよ。大丈夫。痛いのも平気じゃ。俺は最強や。俺は最強の男やさかいにの。
「――先生ぇ! 見てくれ! 指が……俺の指が動くぞお! ハハハハハ ちょっち痛いが……まぁささいなこっちゃ!」
くすねた釘を、右手の五指の根本に包帯の上から挿して。黒い細い歪な『指』を、ぎこちなく、血を垂らしながら、少年は動かしてみせた。
「侠太郎くん! な、な、なにしとるんややめなさい!」「消毒液持ってきて急いで!」「八代くんそないなことしたらあかんよ!」
たくさんの声が聞こえる、白い輪郭の『のっぺらぼう』達がベッドを取り囲んでいる。なぜ彼らがそこまで狼狽するのか、少年には分からなかった。
「これであの怪物をブチ殺せるのう! 逃がすもんかよあの畜生風情がよお……待っとれよ、覚えとるからなあ、覚えたからなあ、ブチ殺したるからなあああああ」
見えるし、指も動くし、生きてるし、もう病院には用はない。少年はベッドから降りようとしたが――たくさんの手が、それを阻む。
「やめろっ……触んなや! どかんかい! やめろ! 離せコラ殺すどボケえッ! 武器が要るんじゃ! オトンの銃取りに行くだけや! アイツをブチ殺しに行くんじゃ! クソがあ! 離せ離せ離せおまえらから殺されてえかぁあああああッッ」
鎮静剤を、とか聞こえて、針を刺されて、意識が遠くなったのを覚えている。
●
あの子――八代のとこの侠ちゃん――
ああ――熊に襲われたっちゅう――
なんで歩いてはるの? 目ぇ見えへんて――
それが、侠ちゃん見える言うてはって――
嘘やろ? だって――
目は目蓋を閉じればいい。
だが耳に耳蓋はないので、筒抜けだ。聞きたくないものまで、聞こえてくる。
見た? オバケみたいな顔――
なんで右手に釘刺してはるの――
ずっと銃の練習して――
盲学校行かへんて――
どないすんねやろ、あの子――
それがどうした。
だからなんだ。
文句があるなら直接言いに来い。
熊の話したらえらい怒りはるわ、まだ心の整理が――
佐藤さんちの子、侠太郎のことからかってえらい殴られたって――
あの子、ちょっと変やで――
熊にやられたせいちゃうか、頭に衝撃が――
普通のいい子でいれば復讐が果たせるのなら、そうしてやるさ。
そうじゃないから、こうしてるんだろうが。
侠太郎がまたよその人殴ったって――
あの子は気ぃ違えてしもたんや――
怖いのう――
女子供は近寄うたらあかん、何されるか分からへん――
キジルシじゃ――
キジルシ侠太郎じゃ――
「キジルシ侠太郎、のう――」
聞こえてくる音の中、幾らか成長した少年は――口角をつりあげた。
狂気上等。地獄上等。あれを殺さぬ限り、己の心に安寧は二度と訪れないのだから。どうせ目に映るのは、真っ暗闇の奈落の底なのだから。
少年は、嗤うのだ。
「――ええのう! ほな……俺はキジルシ“狂”太郎じゃあ」
『了』