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    CottonColon11

    @CottonColon11

    紫の稲穂です。
    こんにちは。

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    CottonColon11

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    とある科学者が研究所に所属していた頃、ヘーゼルの瞳を持つ少年に出会ったおはなし。


    ※二次創作
    ※口調は雰囲気
    ※本家とは無関係です

    ※年齢操作、設定捏造などあります。
    ※雰囲気でお読みください。

    その手に届いたほうき星 とある研究者が、実験体に殺されたらしい。食堂で日替わり定食を貪っていた私に、お喋りな同輩がまるで自分の手柄のように話していたから嫌でも耳に入ってきた。相槌どころか視線を向ける程度の反応すらしない私に対して永遠に喋り続けていたその男は、ただ自分の得た情報をひけらかして優越感に浸りたかったのだろう。口の中に運んだ、『日替わり』の名前に隠された元が何の肉だか推測のつかないがやけに脂っこい、恐らく何処かの部署の実験サンプルだった肉塊の揚げ物の味が分からなくなる程に退屈な気分になった私のことなどお構いなしだった。

    「なんでも、意志と人権を無視して実験を無許可で繰り返した結果、反撃されたのだと」

     お前も気を付けろよ、と笑いながらその男は語った。失礼な、と反論しようかとも考えたが無駄なことだと思い直して、止めた。私が食事を終える頃には、誰かに反応して席を立ったから、恐らく知人を見かけて今度はそちらを標的にしたのだろう。あの男には不愉快だから二度と視界に入らないで欲しいと切に願う。

     そして今、私は昼間に同輩から聞いた話と全く同じ内容を、今度は上層部の初老から聞いている。何十年か前に一つ賞を取った程度で得意げにしている爺の話を聞き流しながら、私の大切な時間を失うことになった原因である研究者に脳内で怨嗟の言葉を吐き続けた。
     その研究者は馬鹿な奴だ。同情など、カケラもない。書式を整えた同意書を用意した上で被験者を募らなければ、こう言った事象が発生するのは目に見えている。私は必ず全ての工程やそれに付随する、発生確率の高い薬物有害反応についてを明記した同意書を作成し、希望者に署名させることで『契約』という形をとっている。その結果生き残ろうが死のうが『契約』の範囲内だ。
     同意が取れそうにない実験をしたい時はクローンを作ればいい。意思や感情を持ったクローンは扱いに困るが、そのあたりを切除してしまえば本当に楽だ。まあ、このエデンて最高峰とも呼ばれる研究所でありながら、そこまで精密なクローンを生成することが出来るのは私くらいだから、彼らにそれを望むのは少々酷というものだろうか。

    「…それで、手に余った実験体を『配分』したい、と」
    「君はよく実験の志願者を募っていると聞いている。願ってもみないのではないかね」
    「まるで私がそこらから貪り集めているような言種だ」
    「事実だろう」

     上層部の…この男の名前は何と言っただろうか。ターナーだったかテイラーだったか…まあ、何でもいい。男はくすんだ青い瞳を悪戯に細めて私に語りかけてくる。神経質そうな指が数枚の書類を差し出してくるのを受け取り、中身を確認した。ざっと斜め読みして内容を把握し、すぐに顔を上げて男を睨んで笑ってやる。

    「足の機能を奪った男に、身元不明の男児。傷害に人身売買とはな。随分と不愉快なことをしたようじゃないか」

     男は、答えなかった。慈悲深いとも嘲笑とも言えない曖昧な微笑みを顔に浮かべるだけだ。答えるまでもないということか。…いや、その事実を自らの口で肯定することで責任逃れをするつもりだ。倫理観を完全に捨てて違法ギリギリな実験を繰り返す上に、ろくな成果を出さない無能どもからやっかみを受けて疎まれ孤立している私は、犯罪の隠蔽工作に適任だったのだろう。

    「食わせ物め」

     鼻で笑い、書類で男の胸を叩く。男が受け取るのを確認するよりも早く、実験体が一時保管されているらしい研究室へ行くために踵を返す。クシャリと紙にシワができる音がしたが床に落ちる音はしなかったから、ちゃんと受取れたらしい。
     私とすれ違いに、真新しい白衣に水色の腕章をつけた、まだここに所属したばかりであろう若い研究所手が室内へ入ってくる。ちょうどよく開かれた扉が閉まるより早く、私はその隙間に身体を滑り込ませて退出した。扉が完全に閉じる寸前に、若い声が上層部の男に話しかける声が聞こえた。

    「ハワード博士、そろそろ…」

    ああ、全然違った。







     足を壊され歩行が困難となった成人男性。金を目当てに実験体の志願をしたが契約外のことを実験内容に加えられ反抗的な言動を繰り返した結果、足を壊されたという事らしい。こいつはダメだ。私の被験者になるには大事な条件が足りない。『同意』と『忠誠心』。これらが欠如したこの男には何の価値もない。非協力的な被験者は必要ない。
     男は足の組織を再構築して治して家に帰した。泣いて感謝されたが鬱陶しい事この上ない。粗大ゴミに出すのも溶解液の補充をするのも面倒だからそうしただけに過ぎないのだからさっさと去ってほしい気持ちしかなかった。

     問題なのは子供の方だ。薄い茶色の髪をした少年が一人。差し出された牛乳を静かに口に含んで、しばらく迷ってから飲み込んだ少年は私のことをチラチラと見るばかりで何も言わない。

    「君。名前は」

     引き継いだ実験データを声帯に異常はないようだが、喋らない。自発的に声を出していないのか、精神的な失声症かは定かではない。
     私はひとつため息を吐く寸前で、それを少年に聞かせまいと飲み込んだ。残された少年はどうも素性がわからない。誘拐か人身売買かは知らないが、入手経路を知られまいと入手経路が意図的に消された形跡がある。まあスラムで誘拐は人身売買は日常茶飯事だからどうせその辺りから入手したのだろう。
     研究所のデータベースを漁ってみたが少年に行われた実験データすら見当たらない。血液検査の結果だけがポツンと残されていた。それをみても何の面白味もない、が、唯一興味深いことと言えばエデン人特有の遺伝子配列とは別の遺伝子情報が含まれていること。彼の先祖のどこかで異邦人の血が混じったのが見てとれる。確かに珍しさはあるが薄まり、過ぎていて実験対象にするには向かない。通常通りの老化をするだろうこの遺伝子も私の研究には向かないな。子供にできる実験など無い。私が求めているのは、大人である私が不老になるための実験台だ。リスクを正しく理解し、責任を持って是非の判断がつけられる、肉体的にも精神的にも成熟した大人が。
     私は口角を持ち上げて、少年の前にしゃがみ込んだ。

    「ふむ…まあいい。少年、私はヴィンセント博士だ。ここで不老不死の研究をしている。どうぞよろしく」

     手を差し出せば、少年はおずおずと握手を返した。私を見上げる瞳は綺麗な黄緑色の瞳をしていた。まるでペリドットのように美しい黄緑色には強烈な怯えの色が灯っているが、表情からは喜怒哀楽が見当たらない。まるで人形のように口を閉ざしたその少年の目をじっと覗き込んでいると、視界の端から青い物体が飛び出してきて視線を遮ってきた。

    「うわっ、なん…ああ、またお前か」

     ぴょこん、と頭頂部から生えた双葉を揺らしたその生物は、最近よく私の研究室に現れるハツガソライロマメネコだ。生き物は小さな身体を器用に使って、少年の肩へと飛び乗った。そして転がり落ちかけたところを少年が短い腕で抱き抱える。

     果たしてここに現れるハツガソライロマメネコが全て同一個体かは知らないが、ハツガソライロマメネコの研究施設はフロアや階層どころか棟を隔てている。わざわざこんな所で足を運ぶ(ヒレを運ぶ?)特異な個体が何体もいることはそうそうない。気が向いた時に頭部の双葉や臀部の水玉模様を観察しているが特別変わっているようには見えないので恐らく同じ個体だと思われる。
     気が付くといつのまにか姿を消しているし、特別保護観察対象であるハツガソライロマメネコの紛失騒ぎは起きていない。騒ぎにならない程度に出歩く知性と帰巣本能があるのだろう。

     そんな、人懐こいというか脳天気というか、全く反応を示さない少年に抱かれて楽しそうに双葉を揺らすハツガソライロマメネコを見ていて、ふとその双葉と少年の瞳の色が同じ緑だなあと思い至る。よく見れば茶色も混じっている黄緑色の瞳を表現する言い方があったような気がする…そうだ、ヘイゼルアイだ。ヒトの虹彩の色の差など不老不死にはなんの影響も及ぼさないからこれはどうでも良い知識だな。全くもって興味が無い。
     少年は長いうわまつ毛でその瞳に影を作る。細めた目のお陰で、口元こそ動いていないが微笑んでいるようにも見えた。

    「ちょうど良かった。そいつの世話を頼もう。そのハツガソライロマメネコがいる間、私の実験に近付けさせないよう見張って…遊んでやっていてくれ」

     少年はこくん、と小さく頷いてハツガソライロマメネコを抱く力を微かに強めた。強めた、といってもどこか縋り付くように顔を寄せただけでハツガソライロマメネコ自体は苦しんでいる様子はない。短い腕で、まるで少年の頭を撫でるようにポンポンと叩いていた。











     食堂の配膳サービスを利用したこともあるが、あれはクソだ。料理が冷める程度であれば電子レンジで温め直せばいいことだが、対面でないから交換を受け付けていないという理由で芯の部分や微妙に痛んだ端切れ部分の野菜が多く混じられているし、肉は筋っぽかったり脂身が多い。食事を蔑ろにされることがどうしても耐えきれなくて食堂に足を運んでいたが、今は子連れ。余計な噂話をばら撒かれるのも面倒で仕方なく出前やレトルトの食品を使用した。
     少年は何も文句を言わずに食べ、私が用意するサプリメントも黙って飲んでいる。寧ろ私に会釈をして感謝する仕草や祈りをするポーズをしているから満足はしているだろう。

     私が実験(しごと)をしている間は、少年は隣接している私個人部屋で大人しく待機している。住み込みが出来るレベルの私用スペースを持つことを許可された研究員は少ない。少なくとも私と同じ二十代では居ないだろう。面倒ではあったがそれなりに論文を出して学会の評価を得ておいてよかったと心の底から思う。人体実験を無垢な少年に見せようとは思わない。
     少年が来てからハツガソライロマメネコが毎日現れるようになり、昨日覗いてみたら向かい合って絵を描いたりソファで昼寝をしたりしていたからしばらくは退屈しないだろう。ハツガソライロマメネコが子守りをしてくれるのなら助かる。一人と一匹が電子ケトルを真剣に見守り、ほぼ牛乳に近いコーヒー牛乳を飲むくらいには気楽にやっているようだ。


     自分一人しかいない研究室だったのに、今はとても賑やかだ。少年はしゃべらないし、ハツガソライロマメネコは鳴かない。私も必要以上に声は出さないから、発生音自体はそう変わらない。それでも他人の存在感というか何というか…理論的ではないのだが、無機質な研究室に、温度があるような体感があった。被験者やクローンがいることだってあるのに、こうは感じない。現に今目の前で眠り続けるクローンを見たところで何の温かみも感じないのだ。
     面倒なことになったな、とため息をこぼしながら胸元を漁る。少年が来てからはあまり吸わないようにしていた紙タバコを取り出して、箱を指でトントンと何度か叩く。頭を覗かせたタバコを歯で噛んで取り出し、箱を胸元にしまいながら使い捨てライターを掲げ、回転式ヤスリを擦って火を灯した…ところで、蝶番の軋む音が耳に入る。目を向ければ、目が覚めてしまったのだろう、少年がドアの隙間から眠たげな目を覗かせてこちらを見ていた。…タバコはお預けだ。火をつける前でよかった。
     咥えていたタバコと使い捨てライターを灰皿の横に置き、ついでに実験記録を上書き保存して電子媒体の電源を落とす。眠たげにとろけた目をこする少年の側まで歩き、膝を曲げてしゃがみ込むと視線を合わせた。

    「どうした、こんな時間に。悪夢でも見たのか?」

     こくり、と頷く。よく見れば赤らんだ目元は湿っている。私は最近は悪夢しか見ないから慣れてしまった。黄緑色の瞳が涙で瑞々しく光のを見ながら、両手を伸ばして、広げる。

    「おいで」

     少年は微かに目を見開いて、でもそれをよく観察する時間すら与えずに少年は私の胸へと寄り添ってきた。腕を縮めて彼を抱き締める。少年は戸惑いながらも私の腰に手を回してきたから、私も抱き締める力を少し強めた。洋服越しでも分かる子供特有の高い体温が、冷え切った身体にじわりと染み込んでくる。早い深呼吸を繰り返している少年に合わせて呼吸をすれば、次第に彼は落ち着いていった。すん、と微かに水っぽい鼻を啜る音がする。
     この子供は愛されることを知っている子供だ。私に対して怯えていても、与えられた好意を拒絶せずに受け入れる。人を頼ることを知っている。
     もぞりと少年の頭が動いた。彼の顔を見ようと目を向けるが、少年の視線は私の背中の向こうに向いていた。視線の先にあるものは想定がつく。

    「クローンが気になるのか」

     問いかけると、少年は視線をこちらに向けて私の目を見た。そして、こてん、と小首をかしげる。気にならないという方がおかしいか。私と全く同じ存在が同じ空間にいるのだから。私は少年の体を解放して立ち上がる。クローンの元へと歩けば、少年は早足についてきた。ちょうど少年の目線の高さにある診察台に寝かされたクローンは相変わらず眠り続けている。少年は私とクローンの顔を交互に見て、やがて私へと視線を固定させた。説明を待っているのだろう。

    「『これ』は私のクローン…あー、いうなれば、『もう一人の私』だ」

     少年はもう一度首を傾げて、視線をキョロリと動かした。右上あたりに視線を漂わせて、ポカンと口を開けて考え込んでいる。私と似たようなクセをもっているらしい。
    このクローンは、一ヶ月ほど前に不老薬の試作品を投与した実験個体だ。何の栄養も与えていないにも関わらず生命活動を維持し続けている。痛覚や味覚などに刺激を与えても反応がないが脳波は反応をするから、生きてはいる。覚醒状態での不老不死の研究と言う観点では失敗か成功かの判断がつかないため処分するわけにはいかないし、スペースを取るだけでコストはかからないので、現状保留にしている。オリジナルの私はここ最近仮眠程度の睡眠しか確保せずに研究を続けていると言うのに。羨ましい限りだ。そろそろ私も半日ほど連続で寝てやろうか。
     まあ、このクローンの事情をそのまま伝えたところで少年は理解できないだろうから、少し頭を回す。考え事が終わった少年が私の目を見たところで、言葉を続けた。

    「元気になる薬を飲ませた。起きるのを待っているんだ」

     少年は私の目をじっと見つめて話を聞いてくる。不思議なものだ。私が研究内容を誰かに話すとき、相手は大抵話し手の私でなく用意した資料に目を落として、私には耳を向けるだけ。かくいう私もその傾向は強いものの、ざっと斜め読みした後は話し手の目を見て話をする癖があるからよく怪訝そうに顔を顰めて目を逸らされることが多い。挑発されるでも試されるわけでもなく、こうして互いに目を見て話すのは久し振りだ。目を逸らされないのは、何年ぶりだろうか。
     黄緑色の瞳に視線が吸い込まれる。ろくに感情を示さない表情筋に比べて、少年の瞳は感情の宝庫だ。恐れと、好奇心と、少しばかりの切なさを浮かべている。やがてひとつの瞬きと共に視線を切ると、少年の視線は実験個体へと向いた。私と寸分変わらない見た目で生まれたクローンだが、実験経過の観察用に老化の速度を二百倍程度まで進めている。私より二十歳は老けこんでいてもおかしくないのだが、何故か見た目も変わらず外部からの栄養を取らずに生命維持をする奇妙な個体(時空を隔てた場所にある、チキュウという場所に『眠り姫』という童話があったが、それに近いのだろうか)を、少年は静かに眺めた。そして子供特有のもっちりとした瑞々しい小さな手をゆっくりと伸ばして、群青色のくせ毛を撫でた。表情こそ変わらないがまるで慈しむような瞳をしている。

    「君は優しいな」

     私の言葉に少年はしばらく反応しなかった。ゆっくりと見上げてきたた少年の目元はすっかり細まり今にも閉じてしまいそうだ。私は小さく息を吐いてから、だらんと垂れ下がっていた少年の手を握る。睡眠前の放熱活動が始まっていて、少年の手のひらは普段よりも数段温かい。

    「眠いんだろう。ベッドに戻ろう」

     手を引いて歩き出せば、少年は素直についてきた。サイズの合わないスリッパがパタパタと音を立てる。私用スペースに立ち入ってそのままベッドへと導く。毛布を持ち上げると少年は大人しくベットに上がったが、手を離そうとはしなかった。不安げな顔をして私をじっと見上げてくる。よく言うことを聞きいい子に大人しくしているが、まだ幼い子供だ。人肌が恋しくもなるだろう。
     私がベットに腰を下ろし、眠るまでだと伝えれば、少年は手を離してもそもそとベッドに潜り込んだ。眠たげな目で見上げてくる黄緑色の瞳を見下ろしながら、子供をあやすように胸元あたりを撫でる。

    「私はこれから実験結果をまとめなければならないからな。君が目覚める頃には終わるから、そうしたら眠るとするよ。…そうだな、一時間ほどしたら起こしてくれたまえ。いわゆる目覚ましだ。出来るな?」

     少年は深く頷いた。任せろ、とでも言いたげた。私はそれを見届けてから、毛布を少年の肩まで持ち上げた。












    夢現を漂う。
    子供の声が、語りかけてくる。
    それを聞いて脳裏に浮かんだのは、まだ純粋に未知への夢を見ていた幼い自分の姿だった。

    ーーーどうして がんばるの。

    「…おれは…」

    ゆっくりと吐き出した吐息が舌に触れる。
    甘くて苦い、ような気がした。

    「ただ…怖いだけだ」

    死ぬのは、こわい。
    だから、命を削って走り続けるしかない。













     廃棄予定のメモ用紙の裏紙に落書きをする少年を見ていて気付いた。よく考えてみれば、分かることだ。これほど穢れのない目をして健康的な肉体をしているのならこの少年はスラム出身だとは思えない。少年はあまり絵や文字を書くのが得意ではないのか歪んだ線が走るばかりだが、少なくとも『文字』が書かれている。一般的な教育が施されているのは明白だ。
     プロジェクションキーボードを叩き、警察のホームページを検索する。行方不明者の情報提供を求めるページへのリンクを踏めば、区域ごとの管轄支部が並び、更に進めば行方不明者の顔写真がズラリと並んでいた。
     世の中にはこんなにも行方不明者がいるのか。だがこれも氷山の一角だ。被害届を出されている行方不明者がこれだけいる、というだけで、実際には消息を絶った人間は星の数ほどいるだろう。光の当たる表社会も、スラムやマフィアの管轄といった裏社会も含めて、エデンは広大だ。
     二時間ほど目を通したところで、ページを送る手が止まる。見覚えのある顔写真の下に、行方不明者の特徴を書いた文字列が並ぶ。

    『七歳男児』
    『ミルキーブラウンの、柔らかい癖毛』
    『垂れ目 色素の薄いヘーゼルの瞳』
    『目元に一つホクロ』

    「……見付けた」

     強く目を瞑り、俯く。途切れることなくブルーライトを浴び続けた視神経がじくりと痛む。メガネを指で押し上げて目頭を揉んでいると、背中に何かがぶつかってきた。目を開けて人の気配を辿ると、いつの間にかすぐそばに立っていた少年が私の背中を撫でていた。反対の手には私のよく使うマグカップがあり湯気とコーヒーの香りを立てている。少年の黄緑色の…ヘーゼルの瞳と、彼の肩に乗ったハツガソライロマメネコの目を交互に見て、私は口角を上げた。

    「少年。家に帰れるぞ」

     少年の目が、大きく見開かれた。はくはくと口を動かす少年の頭を撫でる。本当はもっと早く家に帰すことができたのだがついうっかりで失念していた。その後ろめたさを悟られないために微笑みかけた。

    「朝イチにでも車を出そうか。今日は特に早寝をさせるからな。君の両親に、不健康な君を合わせるわけにはいかない」

     うんうん、と大きく頷く少年は期待に目を輝かせている。やっと子供らしい目の輝きを見ることができた。やはり彼にはこういう目がよく似合う。子供は、抱えきれないくらい沢山の夢や希望を胸に掲げているくらいがいい。




     いつものように手渡したサプリメントを飲み、ベッドに横になる少年を見下ろす。少年の目が急速に虚になっていく。子供に薬を盛るのはこれが最初で最後だ。私は錠剤の入っていた包装シートを握り潰してゴミ箱に投げ捨てた。はあ、と大きく息を吐き出す。自身への嫌悪感も吐き出せてしまえばどんなによかっただろう。

    「少年」
    「はかせ」

     すまない、と。罪悪感を吐き出してしまおうとした所で、言葉が喉の奥で押し止まった。初めて声を聞いた。いや、初めてではなかった。夢現で返事をしたあの時、声をかけていたのは過去の自分ではなくこの少年だったのか。
    声変わり前のソプラノ声は、澄んでいた。

    「ばいばい、はかせ。たくさんたくさん、ありがとう」

     少年は何かを悟ったのだろう。垂れた目元を柔らかく細めて、小さく微笑んだ。初めて見る少年の笑顔は、人懐こくて愛嬌のある、とても優しく切ないものだった。

    「…ばいばい、少年。お元気で」

     穏やかな表情を浮かべて目を閉じた少年が、静かに寝息を立て始める。私は指先を噛み、そのまま白手袋を外して少年の柔らかいくせ毛を撫でた。子供だからというのもあるかもしれないが、私と同じくせ毛である少年のミルキーブラウンは私のそれより細くて柔らかい。口元から離れていく白手袋が、ぱたり、と軽い音を立ててベッドの上に落ちた。

    「…さようなら」



    チョキン











     小一時間車を走らせた先にあるこのエリアは、自然豊かでありながら都心からさほど離れていない、人通りも多く犯罪率も低い。都市部でありながら平和な場所で生まれ育っていたというのに誘拐被害にあうだなんて、少年は何という不運だったのだろう。死んだ研究者が特異な遺伝子を探していたのは知っていたから、もしかしたら少年の持つ微量の異邦人の遺伝子を求めてわざわざここまで拐いにきたのかもしれないが。死人に口なし。真実は闇の中だ。
     後部座席に座らせている少年のシートベルトを外して、ぐっすりと眠る彼を背負う。研究室にいたときは縮こまるように背を丸めていたし、顔が幼げだから気付かなかったが七歳男児にしては随分と背が高くて体格がいい。健康的で何よりだ。大人になったらいい被検体になるだろう。

     中流家庭が住まうエリアに立つ、三階建ての一軒家。表札を確認して、呼び出しブザーを鳴らした。出てきたのは小柄な成人女性。優しそうな目元が少年によく似ていた。彼女は私を見て不思議そうに首を傾げて…私の肩口から覗くミルキーブラウンに気づいて、甲高い悲鳴をあげた。
     私は膝を折り、しゃがみ込む。女性は、少年の母親は少年の名前と思われる名前を呼びながら一目散に彼へと縋り付き、涙をポロポロと流し始める。悲鳴を聞いて現れたのは、高身長に部類される私でも見上げるほどの大柄な男性。彼もまた少年のものだろう名前を呼んで駆け寄ってきた。両親で呼ぶ名前が違ったような気がするが、どちらかが少年の本名で、どちらかが愛称だろう。まあいい。寝息をたてる少年を母親に任せて、少年の父親に、頭を下げた。

    「私はレオス・ヴィンセント。エデン中央研究所に所属している博士研究員です」
    「…研究所の…」
    「まずは、お詫びを。ご子息をすぐにご両親の元へお返しできず、申し訳ありませんでした」

     玄関先でいきなり頭を下げたので敵意は持たれていないと最低限の信用はされたが、体裁が悪くはなることを危惧した母親に屋内へ招かれた。
     リビングへと案内され、父親と対面するようにソファを示される。母親が少年を彼の自室に寝かせた後、温かい紅茶を用意してから父親の隣に座った。私は二人の目を強く見つめ返しながら、事情を話す。誘拐された少年を、研究所の職員が入手したこと。職員の“事故死“をきっかけに私が引き取り、保護をしていたこと。研究所の機密事項には触れずに、だができる限りの真実を冷静に伝えることを意識する。あらかじめ台本は頭の中に叩き込んできた。

    「そして私も、彼に、治療以外の措置をしました。少年…ああ、いえ、すみません。私は、ご子息の名前を把握していないもので。流石に子供を被験者にするほど研究対象には飢えていないので、傷付けるようなことはしません」

     冷静に、当然のように言葉を紡ぐ。これは事実だから余計な演技をする必要がない。私は乾ききった口内を潤すために紅茶を頂戴する。緊張で痺れてきた舌をぐるりと回して静かに唾を飲んだ。一瞬厳しくなった両親の視線も、私の態度を見て出しかけた殺気をしまう。
     そのまま最後まで冷静にいてほしい。この父親に殴られでもしたら、最低限の体型維持のためのトレーニングしかしていない私の身体は簡単に吹っ飛ばされてしまう。

    「ちょっとした『暗示』をかけました。エデン中央研究所での記憶を思い出さないように、記憶処理を。なにぶん機密事項が多い上に、私の研究は政治利用や犯罪行為へ転用しやすいものですから」

     正確には暗示ではなく、人体に悪影響を及ぼさない程度の電磁波を流して脳の記憶領域をいじったのだがその辺りは伏せておく。傷はつけていないし、何かの拍子で記憶が戻ってしまうこともある不完全なものだ。子供の記憶の新陳代謝は早いから、思い出すようになる前に忘れてくれるだろう。寧ろ、忘れなければいけない。誰が好き好んで子供を『実験台』に乗せるというんだ。
     年端もいかない子供を騙して睡眠薬を飲ませた。私は結局、何の薬を飲ませてどんな措置を施すかの説明義務を放棄した。同意書も契約書も何もない。『記憶処理ができる、という機密事項を知った恐れがあると研究所に処分されないために』と言い訳をつけて、自分自身のエゴのために。これは私が背負い続ける罪だろう。
     誠実さを装うために、少年を押し付けてきたあの…ジョンストンだったかベンジャミンだったか、名前を忘れたがあの上層部の男の仕草を真似すれば、根が善人なのだろう少年の両親はうまく騙されてくれた。

    「私のことを…エデン中央研究所を訴えるというならば、私は全てをお話しします」

     私の言葉に、父親はゆるりと首を振った。母親と小声で何かしらのやり取りをしていたが、残念ながらレオスには理解できない言語だった。私に言葉を返したのは、柔らかい目元を涙で濡らした母親だった。

    「…息子が帰ってきてくれただけで、十分です。どうか、これからは心静かに、穏やかに過ごしたいのです」

     言われて、頭を下げられた。
     私はこれ以上の弁明を諦めた。これ以上の謝罪や贖罪は自己満足だと言外に言われた気がした。








     人ひとりが居なくなっただけ。それだけだというのに、慣れ親しんだこの空間がひどく静かで寒々しくなった。一週間であの少年が私に植え付けた『人間感』は私の想定以上に精神に影響を与えるものだったようだ。
     私は電子ケトルに電源を入れ、マグカップにインスタントコーヒーの粉を注ぐ。無意識に牛乳の在庫の有無を思い出そうとして、やめた。もうコーヒー牛乳を作る必要は無い。お湯を注ぎながら、引き出しの中をコーヒーミルクを鷲掴んで机にばら撒く。久しぶりに飲む、私が長年実験終わりの友人にしていたミルクたっぷりのコーヒーは、六つも入れたはずなのに味気なくて、その代わりに油分がやけにくどく感じた。次からは賞味期限切れの懸念など無視して牛乳用意して溢れるくらいにぶち込んでやろうかと血迷うくらいには、今日のコーヒーは不味かった。

    「…妙なものを残してくれたものだ」

     この研究所で、寂しさを感じるなんて。人肌が恋しくなるなんて、思わなかった。
     一人呟いて、白衣のポケットを漁る。小さな紙袋を半分に折って止めているセロハンテープの封を片手で剥がして、中身を転がす。手のひらに落ちてきたのは金細工のネクタイピンだ。
     訴訟を起こすどころか私に対して謝礼を払おうとした少年の父親が、私が頑として金を受け取らない言い張った結果せめてこれだけでも渡してきたのがこのネクタイピン。夜空を見るのが好きな親戚からもらった、かなり高価なものらしい。彗星と土星を組み合わせたような、奇妙で、しかし趣味のいいそれを光にかざして眺める。実験室の無機質な蛍光灯の下でもそのネクタイピンは美しく輝いていた。

    「こんなもの、受け取ったところで」

     今の自分の服装を見下ろす。白いシャツに濃紺のネクタイ、黒い細身のズボン。標準的なスーツからジャケットを取り除き代わりに白衣を着ただけの、なんの面白味もない格好。こんな洒落込んだものを付けるような格好ではない。分不相応なシロモノを受け取ってしまった。
     私はネクタイピンを紙袋に戻し、ポケットにしまい込む。

    「あんな恐ろしいものに、惹かれるなど」

     宇宙の果てには何があるのか。そして、宇宙が『果てる』時には、何があるのか。それこそ果てのない疑問だ。恐ろしいことこの上ない。それに、宇宙を見ていると自分がちっぽけに見えてたまらない。幼い頃に必死になってしまい込んだ筈の恐怖心と不安感が思い出されて、心臓が重く固くなるような感覚が不愉快で、コーヒーを一気に飲み干した。
     空になったマグカップを洗おうと洗浄機へと向かう途中で、診察台に乗せたままの実験個体が目を開けていることに気付いた。目を覚ましたといっても覚醒はしていないようで、私と同じアイスグリーンの瞳が虚に天井を向いているだけだ。

    「蘇生したのか…?」

     一ヶ月間、ただ生命を維持するだけの最低限の存在だったそれを覗き込む。常に正常値を刻み続け、何の変化も見せなかった………………………違う。違う違う違う!こいつは、“何も変化をしなかった”!

    「…まさか!」

     私は急いで実験個体から細胞を採取し、検査機にかける。組織幹細胞の活性率が落ちていない。ならば細胞分裂の活性化による異常な細胞増殖の具合はーー。



     全ての検査が終わった私の膝から力が抜け、床に座り込んでしまう。床の冷たさが足から腰に伝わる。興奮冷めやまぬ脳からアドレナリンが溢れ出して心臓が高鳴るのを感じる。早すぎる血流が視神経を圧迫して目の前が白く点滅している。はぁ、と深く吐き出した息は震えていた。
     完成だ。遂に、遂に完成した!肉体の老化が停止するように身体を作り替える『不老薬』を、ついに作り上げた。一定の周期で不老の機能が半減を始めてしまい最終的に不労を失ってしまうのが難点だが、新薬を投与し続ければ肉体は変化したままだ。このクローンは早く研究結果を採取するために細胞分裂の速度を二百倍まで早めているから、一年から二年に一度不老薬を摂取すれば問題ないだろう。

    「問題は、いつ、これを私が飲むかだ」

     問題なのは、肉体が不老に適応するために作り替える間発生する昏睡期間だ。この個体で一ヶ月強の昏睡期間だったのだから、私自身で換算するならば十五年から二十年はこの昏睡状態が続くだろう。面倒だ。それだけ長い間、何も行わずに研究所に所属はできない。
     ゆるやかに冷静になっていく思考。耳に張り付く激しい鼓動が少しずつ小さくなっていく。強く目を閉じれば酸欠になりかけた頭がぐらりと揺らいだ。深呼吸を三度繰り返し、デスクに手をつきゆっくりと立ち上がる。デスクに置きっぱなしのマグカップを手に取ったところで、鍵をかけ忘れた扉が大きな音を立てて開かれた。

    「おい、ヴィンセント!」

     現れたのは、あのお喋りな同輩だった。鬱陶しいから二度と目の前に現れてほしくなかった男だったが、今は気分がいいからまだこいつの存在を許せる。新しい話題(カモ)を見つけたのだろう同輩の目は輝いていて、それを一目散に伝えるのが私であるという事実に、ある予感。

    「お前、この研究所から除籍されるって本当か…!?」

     それはまるで、天恵のような知らせだった。一度は静まった鼓動がまた高鳴る。
     私は名も知らぬ同輩がもたらしてくれた両手を広げた。指から滑り落ちたマグカップが床に落ち、取手が割れる音が鳴り響いた。

    「素晴らしい!!!!今まさにこのクソッタレな研究所からオサラバするところだったんだ!!!!」









     除籍されたくなくば研究成果を差し出せ、とほざいた上層部はまさか私から出て行かれるとは思わなかったのだろう。縋り付くほどの価値があると思っているだなんて頭がおめでたい奴らだ。
     研究所に所属するメリットなんて、成果さえ上げればその潤沢な資金を私的利用できる、その程度。残念ながら不死を手に入れることはできなかったが、不老という無期長生、実質的な不死を手に入れた私にとってはただ面倒な変人ども(自らも含めて、だが)が詰め込まれたハコでしかない。慌てた様子で金を積んできたがどうでも良くて、一蹴してさっさと飛び出してきた。

     私から奪い取ることができた研究成果がほんの一握りしかなかったことで奴らは相当苦い顔をしているに違いない。数ある研究資料の中でもいっとう欲しがっていたクローン生成技術の研究データも含めて私は全てデリートしてきた。元々あの研究所のシステムを信用していなかったために研究データの大半をオフライン上で保存していたから、電子媒体を破壊して溶解液で溶かせば奴らにはどうにもできない。必要なデータは持ち出した外部メモリーと私の脳みその中にあるから問題ない。
     また、研究所の重要なデータに加え、傷害事件に人身売買、それらの事実を記憶処理できないまま私を逃したことも奴らにとっては痛手だろう。元実験体の男とあの少年には記憶処理をしてやったのだから、『適切な処理のおかげで正しく元の場所に帰された彼らをまた攫う手間が省けた』と感謝されたってバチは当たらないと言うのに、薄情な奴らだ。

     表沙汰にできない不祥事をもみ消すために、研究所の奴らは今頃必死になってエデンの中央都市を駆けずり回って私を探しているに違いない。奴らが不祥事の露呈を容認して警察を味方につけたのならば私はとっくに逮捕されていただろう。だがそんなことをすれば芋づる式に過去の“アレコレ”が出てきてしまう。資金源(おかみ)に知られるわけにはいかないのだ。そのおかげで私はこうして今でも娑婆で堂々としていられる。研究所が体裁を守るために【追放処分】したことになっているのに私は面子のために追われる身。なんとも愉快…いや、面倒なことだ。矛盾はやめてほしい。

    「お前は本当についてきても良かったのか?」

     このハツガソライロマメネコ…ああくそ、長いな、まめねこは私の言葉を理解してなのか、パッと明るい表情を浮かべて小さなスピアを振り回した。結局このまめねこは実験用に飼育されている個体ではなかった。知らない間に迷い込み、勝手に住み着いていただけだったらしい。間抜けそうなツラをしているくせによくもまあ私以外に見つからなかったものだ、という関心と、あと純粋にまめねこという生物の生体への興味もあって「お前もついて来るか?」と誘ったら迷いなくついてきた。呑気なやつだ。


     中央都市から離れた田舎の村。そこにある狭いアパートの部屋を一室が、しばらくの隠れ家になる。私は荷解きを続ける後ろ姿を見る。群青色の髪に、着古したグレーのスウェット上下。振り返った顔は私と全く同じ顔をしている。

    「どうしましたか、オリジナルの私」
    「……いや」
    「何だよもぉ〜。心配することもないでしょう。私はあなたの記憶をまるっとコピぺして生まれたレオス・ヴィンセントですよ?あなたが出来ることは私も大抵出来ますから安心なさい」
    「記憶を引き継いでおいて、人格が全く違うクローンができたのはお前が初めてなんだ。不安にならない方がおかしい。こんな間抜けヅラをあまり外でするなよ」
    「人格は引き継いでますよ。…過度な人付き合いをする気はありません。あなたに引き継ぐ際に齟齬ができたら困る、という懸念よりかは、純粋に『面倒くさい』という理由なのが証拠です」

     クローンのレオス・ヴィンセントは胸に手を当てて、ニッ、と口角を上げた。アイスグリーンの瞳が強気に光り、眉尻が得意げに吊り上がる。そういえば、私も幼少期の頃はこんな顔をしていた筈だ。学生時代もそれなりバカはやっていた。いつから、感情が顔面に現れにくくなったのだろうか。感動が失われてしまったのだろうか。何人目のクローンを手にかけた頃だっただろう。…今となってはもう、思い出せない。

    「さあ、レオス。もう眠りなさい。ここ最近ろくに寝ていなかったから、良い機会でしょう」

     クローンに促されてベッドへと移動する。さて本当にそろそろ始めようではないか。フラスコに入った赤灰色の液体を飲み干す。せめてもの抵抗と言わんばかりにりんごの甘さと豊かな風味が一瞬口の中に広がったが、すぐに押し寄せてきた強烈な苦さとえぐみで吐きそうになる。やはり月懸樹やクロハテエデンナミヘビあたりから抽出した成分がが悪さをしている。長く付き合うことになる不老薬だ、目が覚めたら味の改良に努めるとしよう。
     そう間をおかずに身体の奥が軋むような不快感と強烈な眠気に襲われる。

    「おやすみなさい、歳をとる私」
    「…また会いましょう、クローンの私」

     目を閉じる直前、顔の前までやってきたまめねこが何かのジェスチャーしたのが見えた。だが鈍った思考とぼやけた視界では動きを認識することが限界で、その表情や仕草の理由を推し量ることは出来なかった。







     脳に記憶が入り込んでくる強烈な不快感を覚えながら目を開ける。極度の近視ゆえに酷くぼやけた視界の中で、紺と白の人影が見下ろしているのを確認する。

    「目が覚めましたか、オリジナルの私」

     十七年ぶりですねぇ。と昔を懐かしむような声と共に差し出されたメガネを受け取り、装着する。クローンの言葉が正しければ私の昏睡期間は十七年だったようだ。ふむ、想定の範囲内だ。それだけ長く眠っていたにも関わらず運動機能に問題はない。若干の気怠さはあるが、これは普段の寝起きと体感ではそう変わらない。記憶の中のそれよりも幾分か老けた顔をしたクローンは私と視線を交わして、くすり、と小さく微笑む。

    「あなたが覚醒を始めて、一週間が経ちました。その間に、私が体験した十七年を詰めこみました」

     分かりますか?と問われた私は記憶を辿る。確かに、私自身が経験していない筈の『私自身が経験した記憶』を思い起こすことができる。どうやらこのクローンは学歴や出身を誤魔化すために日雇い労働を中心に生計を立てていたらしい。

    「……おい、貯金を使ってもいいとは言ったが、借金をしていいとは言ってないぞ」
    「ご愛嬌でしょ?」
    「貴様」
    「あと、分かるでしょう。私は仮ごしらえのクローンです。メンテナンスが大変だったんですよ」

     確かに、クローンの記憶を辿る限りでは自身の体調をメンテナンスするための機材購入による借金が大半だ。クローンは人体実験にしか使ったことがなかったから、長期運用を考えていなかった。その上、理論上一応頑丈な個体を用意したとはいえ、十分な時間と手間をかけられず追放までの短い期間で急遽こしらえた。記憶と倫理観と感情を引き継ぐための処置を特別にしただけで本当に“仮ごしらえ”の、言ってしまえば粗悪品。
     平気そうな顔をしているクローンの内臓は劣化が激しく、通常の人間だったならばとうに命は尽きている。そんな中で、このクローンは投薬と外科的処置を繰り返して何度か命を繋いだ。レオス(わたし)の目覚めを待つために。

    「さあ、レオス。私は随分と頑張りましたよ。そろそろ目を覚ましてください。死への恐怖を持たない私は、生への渇望も無いんです」

     クローンは私が体を起こしたことを確認すると、朝から敷いたままの敷布団の上で寝転び、私を見上げてきた。勝ち気な顔だったクローンの顔が、へにゃり、と情けない表情になる。
     まるで、今にも泣きだしそうな顔だった。

    「もう、疲れた。休みたい」
    「…いいだろう、お前は―――」

     ぱた、と言葉を止める。クローンの記憶を辿って湧き上がった感情を思い出した。心を乱さんばかりに押し寄せる喜怒哀楽の起伏は研究所にいた時に忘れていたものばかりだ。メシの美味しさに幸福感を感じ、理不尽な叱責をする上司に憤り、タバコの値上げに悲しみ、バイクや映画鑑賞を楽しんだ。特別押し殺したわけではないが、感じることを放棄していたものばかり。ああ、私は…。
     私は両手で頬を叩く。パチン、と我ながら小気味よい音がなる。口角を吊り上げて、腹に力を入れた。

    「いいでしょう!レオス、あなたはよく頑張りました。褒めてあげましょう」
    「…え?」
    「ここから何百年、何千年と生きていくんです。どうせなら楽しく、素直に、前向きに生きなければ」

     今までは迫り来る寿命による死に抵抗するために、思考と感情の全てを捧げていた。これからはありとあらゆる実験を、好奇心のままに行えるのだ。どうせならば凝り固まった慎重で打算的なレオスはそのままに、積極的で能天気なレオスを取り戻してもいいじゃないか。折角クローンが見失っていた自分を演じてくれていたのだ。やってみるのも面白い。

    「だから、レオス。私はレオス(あなた)に“戻ります”。研究に没頭するばかりでメシの味すら忘れたレオス・ヴィンセントはおさらばです。」
    「……あはは。なら、私という存在を余すとこなく利用してください」

     クローンは楽しそうというよりかは嬉しそうに微笑む。人懐こくて愛嬌のある、とても優しく切ないそれは、近くて遠い記憶の中で見たことがあるような気がした。

    「さようなら、新しい私」
    「おやすみなさい、いつかの私」

     クローンが目を閉じる直前、いつの間にか近くまで来ていたまめねこが、小さい尾鰭でぽてぽてと歩き、クローンの目の前で停止した。そして短い腕を伸ばしクローンの頭に触れる。そのまま上下に動かすその仕草は、まるで頭を撫でているようだった。

    「……まめねこ。お前は…私にも…そうして、くれるんだな…。…………」

     最期の言葉は、声になっていなかった。しかし唇の動きである程度の予測はつく。嬉しそうに微笑んだクローンはゆっくりと目を閉じた。

    ―――ありがとう。

     すう、クローンが寝息を立て始める。やがてそれも止まるだろう。クローンが眠ったことを確認したまめねこは、こちらに駆け寄ってくると私の体をよじのぼり始め、肩に乗ってきた。クローンの記憶を辿る限りでは、何度か頭の双葉から花を咲かせた個体と分裂してまた一匹に戻るという奇妙な現象を繰り返してはいるものの、遺伝子配列が全く同じ個体がずっと住み続けているから、恐らく眠る前にいた個体と同じまめねこだろう。不思議な生き物だ。

    「…お前は、これからもレオス・ヴィンセントについてくる、ということでいいんだな?」

     敢えて尋ねてみれば、まめねこは丸い目をじっと私に向けた。ヒゲと耳がピクピクと動いている。やがて笑顔のような表情を浮かべると短い腕ごとスピアをぶんぶんと振り回した。可愛いやつだ。不老の研究もひと段落ついたところだし、まめねこの生態について研究をしてみるのも悪くない。私には長すぎるほどの時間がある。気長にやっていこうじゃないか。

    「さあ、魂の輪廻と人の倫理から外れた天才マッド・サイエンティスト…レオス・ヴィンセントの幕開けです!」

     衝動のまま大声を上げた途端、隣人に壁を強く叩かれた。クローンの処理が…いや、弔いが済んだらまずは二度と壁ドンをされなくてもいいよう騒音問題を気にしなくていい場所へ引っ越しだ。それに、いきなり若返ったレオス・ヴィンセントを近所の人間に見られたら面倒だしさっさとこの地を離れるとしよう。村の中でも更に田舎…字あたりにでもいくか。













     長い眠りから覚めてから少しして、クローンが熱心に見ていた動画サイトを見始めた。そこで見つけたバーチャルライバーグループを特に気に入り、数年後、その一員となるべく応募。研究資金調達のための仕事の合間に面接を何度か行い、無事Vtuberにじさんじのライバーになることが決まった。
     同じ時期にデビューすることになった、偶然にも全員が同じエデンの出身だと言う四人とも何度か顔合わせも済ませている。公務員二人に、教職が一人に、護衛職が一人。私以外はお堅い職業に就いているようだが全員もれなく金欠という残念具合。少し欠点がある方が愛されやすいというが果たしてどうなることやら。…不老の薬の継続摂取を停止して半減速度とそこからの再不老化の実験中に不手際があり、少しばかり老化してしまったため申告年齢を『オリジナルのレオスが生きた時間』を参考に二十九歳にしたところ一歳差で最年長になってしまったが、年長者というアドを得ただけ良しとしよう。

    「ーーーこんなところでしょうか」

     本日遂に、スタイリストの丁嵐あたらよ氏との打ち合わせで実際にライバーとしてやっていくための標準服を決定する。何度も打ち合わせを重ね、その度に着せ替え人形にさせられた日々も終わる。随分と派手な格好をさせられたこともあったが、スタイリストの彼のセンスと私自身の好みを照らし合わせ、比較的落ち着いた服装に落ち着いた。
     慣れ親しんだ白衣と、研究所時代ののものから若干柄を変えた紫の腕章。構造式が散りばめられたケミカルな柄の暗い色のシャツに、ラインの入ったエメラルドグリーンのワイシャツ。お固く見えすぎないシャドーストライプ柄をしたダークネイビーのパンツに、よく磨かれた革靴。なかなかキマっているじゃないか。
     いつも胸ポケットに身体をねじ込んでくるまめねこも、新しい白衣にご満悦だ。確かに薬品で裾や袖がドロドロになっていたりタバコの灰で焦げていたりする白衣よりはマシだろう。ワックスで髪型を整え終わったところであたらよ氏に顔を覗き込まれる。

    「あとは何か、アクセサリーなどは付けますか?レオスさんの格好はシンプルですからね。アクセントにでも」
    「アクセサリーですか…」

     正直に言えば乗り気ではない。耳飾りも首飾りも指飾りも、昔は興味はあったが今は装飾品にとんと興味が湧かない。今では生活必需品となったメガネですら運転免許を取るのに視力が足りなかったからかけ始めた程だというのに。あたらよ氏が言うことには従った方が良いとは思うが…まめねこがいるからアクセントには困らない、と断ろうとしてはたと思い出す。そういえば、とバッグの奥底に手を突っ込み、かき回す。色々なチラシやゴミをかき分けて一つの紙袋を捕まえた。
     袋の口を止めていた茶色いセロハンテープをちぎり、中身を手のひらの上に出す。ころん、と転がり出てきた『それ』は、記憶の中のものと寸分違わず美しく輝いていた。

    「あったあった。あたらよさん的にはどうです?これ」
    「おっ。なかなかオシャレですね。良いもの持ってらっしゃいますね」
    「昔、人に貰いまして。なんかに使えねぇかな〜って思ってたんですけど、まあ、機会がなくて」

     私からネクタイピンを受け取ったあたらよ氏が私の胸元に手を伸ばす。夕暮れと夜闇の真ん中のような深い紫のネクタイに、彗星と土星を組み合わせたような、奇妙で、しかし趣味のいい金色のネクタイピンがよく映えていた。譲り受けたあの頃はシンプルすぎる服装のために装着したら浮いてしまっただろうが、今の小洒落た格好なら釣り合ってるのではないだろうか。

    「うん。悪くない。お前もそう思いますよねぇ、まめねこ?」

     胸ポケットから見上げてくるまめねこに同意を求めれば、まめねこも笑顔を作るように口を開けてスピアを振り回した。




    「おおー博士のくせにおしゃれじゃん」
    「うまく化けたな…本当に本人か?」
    「ヴィンさん、ちゃんとサイエンティストだったんだな」
    「お前らなんだよその言種はァ!!私はちゃんとマッド・サイエンティストやってんですよ!?」

     怪訝な顔をして私を見てくる若い同期たちに文句を言うが、ハイハイと軽く受け流されてしまった。私は良い歳をしたフリーのマッド・サイエンティストである以上、スローンズのように所属組織を示すような制服は着れないし、だからといって紅一点のレインくんのように遊びすぎる訳にもいかない。これでもし普段から研究所にいた頃の格好を最初から見せていたならば反応は変わったのだろう。そして何より、髪型を整えたのも妙に反応された原因か。寝癖は整えたが私のくせ毛はあちこちに跳ねていたから、丁寧に整えただけで随分とマシな格好になった。
     同期たちに噛み付いていると、同じく服装を整えてきたエバンスくんも戻ってきた。…コイツも私服か?若干髪型がふわりと軽やかになったが、この格好は見たことがある。確か他の教授の長話に付き合わされて自宅に寄る時間がなかったとかで、エデン大学からそのままバーチャル東京に来た時だ。
     まさか洋服と髪型の両方を完全にスタイリングされたのは私だけか?だが、まあいい。日用品として機能性を重視する装いと、仕事着としていた研究所時代の装いと、エンタメとして人々に見せる装いが別なだけだ。味方を増やすべく私はエバンスくんに向いた。

    「エバンスくん聞いてくださいよぉ。彼ら私のこと見て笑ったんですよ?」

     エバンスくんは私の格好を見て、微かに目を見開いて固まった。確かにスタイリングを受ける前とだいぶ印象が変わったのは自覚しているがそれにしても反応しすぎではないか。不満に思ったのも束の間、彼はゆっくりと瞬きをした後微笑みながら首を傾げた。

    「……なんで?とても似合っててカッコいいじゃない。その髪型もすごく素敵だよ!」
    「ほらぁ!三人とも聞きましたか!これが正当な評価ですよ!」
    「仲間できてイキる勢いめちゃくちゃ増したやんけ」
    「まあエバさんの言うとおり似合ってはいるよ。科学者ってぽさはある」
    「なんか賢そうだもんね」
    「先生はほんと優しいな〜」
    「君は本当に優しい男ですねぇ〜、エバンスくん」

     私は満足してエバンスくんの肩をバシバシと叩く。えへへ、と照れくさそうに笑う彼を見習って欲しいところだ。しばらくするとスタッフ数人が待機所へ来て、立ち絵の写真を撮るためにまずアクシアくんが連れて行かれた。私はローレンくんの次だから、三番目だ。
     少し時間があるだろうからタバコ休憩でも行くとするか。そう決めた私がバッグの中を漁っていると、背後から声をかけられる。一旦タバコは諦めて振り返り、高い位置にあるエバンスくんの顔を見上げた。

    「……はかせ」
    「なんです?」

     まるでペリドットのように綺麗な黄緑色の瞳が、じっと私を見下ろしてくる。よく見れば茶色も混じっている黄緑色の瞳を表現する言い方があったような気がする…そうだ、ヘイゼルアイだ。
     同期となった五人の瞳の色が全員違うように、エデンにはさまざまな瞳の色がある。同じ『緑系統』に分類されていても、私はアクアマリンに近いアイスグリーンで、ローレンくんはエメラルドに近いウォーターグリーン、そしてエバンスくんはペリドットに近いブラウングリーン…つまりヘーゼルだ。単なる色素の違いだが、なかなかに興味深い。彼はしばらく真顔で見下ろしてきたが、やがてにっこりと微笑んだ。

    「なんでもないよ。さっき、素敵なネクタイピンだなあと思ってさ」
    「あーコレね。昔、迷子の子供を家に送り届けたら謝礼にと貰ったんです。いいでしょお?」
    「へぇ。君、優しいんだね」
    「いやいや。アレは優しいというより証拠隠滅に近かったので」
    「証拠隠滅?…あ、いい、いいよ。その顔、聞いたら後悔するとでも言うんだろう?」
    「察しが良くて助かります」

     エバンスくんは苦笑いしながら右手を私の顔の高さまで上げて「ストップ」と手のひらを向けてきた。賢い男はとても助かる。流石に中央にある大学の教職をしている彼に聞かせるわけにはいかない話だ。それに、子供を親元に帰さないで手元に置き続けた挙句、脳をいじくり回した、なんて武勇伝には決してなり得ない大失態を嬉々として話すほど自尊心がない訳ではない。…そもそも、昏睡期間に記憶が一部あやふやになってしまっていて、あの子供と過ごした…一週間程度だっただろうか?その期間のことはあまり覚えていないから、話しようがない。聞かないでくれて助かるくらいだ。
     私が笑顔を返したのを見たエバンスくんは手を下ろして、快活な笑顔を少し鎮めて静かに見つめた後、ふわりと微笑みかけてきた。その人懐こくて愛嬌のある、優しく切ない微笑みは、何故だかひどく懐かしい気分がした。

    「ヴィンセントくんが僕の同期になってくれて嬉しいよ」
    「はぁ…。私も、君のような気のいい男が同期でなかなか楽しいですよ、エバンスくん」

     私のどこに私的な価値を見出したのは不明だが、その好意は受け取っておくことにしよう。私も彼が一番歳が近いということで、これは本人にも伝えたが、勝手ながら親近感を持っている。これからそれなりに長い期間、彼とは共に仕事をするんだ、ポジティブな心持ちでビジネスパートナーを始められるなら何よりだ。

     ついさっきまで人見知りをしていたまめねこがやけにテンションを高くすると私の白衣から飛び出して、エバンスくんに抱きついたのは、そのすぐ後のことだった。

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    CottonColon11

    DONE※小諸商工のモブ、ショートの奥田くん視点。
    ※守備コレをそのままさせると不可解な行動になりそうなので、三年生をそのまま入れた形になります。
    ※打席ログを見て書いてますがたまに間違ってるかも。雰囲気でお読みください。
    まめねこ工科高校、夏のドラマの裏側で たくさんのカメラの前で甲子園の黒土を掻き集める、まめねこ工科高校の選手たち。甲子園初出場、初戦敗退。ありきたりな終わり方をしたまめねこ工科高校。去年突如として岡山のベスト4に現れて、今年甲子園に出場した。
     前情報がほとんどない高校だったけれど、難なく突破した。先輩たちと笑いながらベンチへ戻る。甲子園の第一歩としては十分すぎる、6-1の快勝だ。


    「来年また来よう!」


     まめねこ工科の監督の声が、広い広いグラウンドを隔てたこちらにまで届いた。
     俺は振り返ってまめねこ工科の方を見る。マネージャーと一緒に監督に慰められている、どうやら俺とタメらしい、ピンク色の髪のピッチャーが目に入る。二年生が甲子園の先発ピッチャーなんて珍しいと田中先輩が言っていたのを思い出した。俺の打席では、フォアボール2回と凡打2回で、燃え切らない勝負になったけれど、チームが勝てたからまあ良しとしよう。
    12629

    CottonColon11

    DONEこちらはパロディボイスの発売が発表された時にした妄想ネタを、言い出しっぺの法則に則って書き上げたものです。
    つまりボイスは全く聞いていない状態で書き上げています。ボイスネタバレは全くないです。
    ※二次創作
    ※口調は雰囲気
    ※本家とは無関係です
    科学国出身の博士と魔法国出身の教授が、旅先で出会うはなし 高速電車で約五時間乗った先の異国は、祖国と比べて紙タバコへの規制が緩い。大きい駅とはいえ喫煙所が二つもあったのは私にとってはとても優しい。だが街中はやはりそうもいかないようで私が徒歩圏内で見つけたのはこのひさしの下しか見つけることはできなかった。

     尻のポケットに入れたタバコの箱とジッポを取り出す。タバコを一本歯で咥えて取り出して、箱をしまってからジッポを構える。……ザリ、と乾いた音が連続する。そろそろ限界だと知ってはいたが、遂に火がつかなくなってしまった。マッチでも100円ライターでもいいから持っていないかと懐を探るが気配は無い。バッグの底も漁ってみるが、駅前でもらったチラシといつのものか分からないハンカチ、そして最低限の現金しか入れていない財布があるだけだった。漏れる舌打ちを隠せない。
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