夢の話藍曦臣には婚約者がいるという噂は、少しながらも流れていた。
藍氏宗主なのだから、当たり前と言えば当たり前の話。
座学時代にも、斜日の征でも、彼の周りには女性の影は見ることは無かったはずだ。
「江澄、江澄」と、江澄に木陰から手招きをしている義兄の魏無羨に導かれるように近づく。
彼が示した先に視線を送れば、藍曦臣が慈しむ様に見つめて微笑んでいる少女の姿があった。
「誰だ?」
「知らない。だけど、藍氏の校服着てるから修女かな?」
しかも抹額をつけているために、内弟子だ。
十代の頃の姉を思い出させる穏やかでありながら、藍氏にもれずに美しく控えめな女性だ。
「花々(ファンファン)」と藍曦臣が呼び掛けるのが、聞こえてきた。
なるほど、花のような女性には花の名前というわけだ。
音を立てずに、義兄を連れて江澄はその場から立ち去った。
「随分、親し気だったけど誰なんだろうな?」
「藍宗主には、婚約者がいるという噂があった。その婚約者様なんだろうさ」
「結婚する前に、会うのか?」
「会うだろうよ」
ふん、と鼻を鳴らして玉砂利を踏みしめた。
そもそも彼の婚約者なら、藍忘機に聞けばいい。
未練たらしく後ろを気にしている魏無羨に、江澄は少しならず苛立ちを覚えた。
しかし、胸に生まれた締め付けられるような悲しみが勝っており、その場から早く立ち去りたかった。
「……あんな人、さっさと妻帯してしまえば世のためだ」
ぽつりとこぼれた声は、思った以上に哀愁がこもっていた。
******
それからしばらく経ってから、江澄は再び雲深不知処に訪れていた。
魏無羨と金凌の様子見もあるが、今回はそれはついでだ。
仕事で必要な資料なのだが、
蓮花塢の蔵書は燃えてしまっていて自力で修復したり集めなおしたりした物もあったがどうしても足りない。
そんな時には、藍氏の蔵書閣に助けを乞うのだ。
「江宗主、只今沢蕪君と藍先生は所要で立て込んでおりまして案内は不肖ながら藍景儀がさせていただきます」
普段は藍思追と並んでいるため、
ガキっぽくて騒がしいという印象を持っていた藍景儀であったが、
さすがは藍氏というようで礼儀正しく美しい所作で拱手をする。
「頼む」
「はい」
所要があるというのなら、藍曦臣と藍啓仁に挨拶をするのは無粋だろう。
なんせ案内を、内弟子に任せるくらいだからだ。
寒室のある方を見て、小さくため息をついた。
雲深不知処に来たからと言って、彼に必ず会えるわけではない。
「滞在の予定は、七日間でよろしいでしょうか?」
「ああ」
「時間になったら、客坊に案内しますね。
あ、調べものは手伝った方がいいですか?
こういうのは、俺より思追のが向いてるんですけどそれなりに場所は把握してますよ」
「それは頼もしいな。だが、小双璧も暇ではないだろう」
からかうように小双璧と呼ぶと、大きな目をこぼれんばかりに丸くした。
「どうした」
「あ、いえ。江宗主にそう呼ばれるとは思わなくて」
「そうか」
まぁ、いつもは『騒がしいの』と呼んでいる。
字を何度も景儀が名乗っても、その呼び方は変わらない。
思追に至っては『大人しいの』と呼ぶ。しかし、それ以外で呼ぶことは無かった。
他家の内弟子の字など、覚えるほどに江澄は心配りはできていない。
現に、小双璧以外の藍氏の内弟子なんて顔すら覚えていないのだ。
魏無羨だって似たようなもので、顔は覚えているが字が解らない者は多いだろう。あまたいる兎と一緒だ。
「そういえば、藍宗主と親しい修女はいるのか?この前、見掛けしたが」
「ん?んー…多分、藍桜桃(らん いんはお)かな?」
「やはり、藍氏なのか」
なんとなくホッとした、同じ宗族であるため婚約者ではないだろう。
「はい。沢蕪君からしたら俺よりも遠縁だったかな?」
「そうなのか?」
「はい、藍翼様よりももっと前の…」
三代前の宗主の名前が出て、ほっとした気持ちがすぐに沈む。
さらに前となれば、五等親以上離れている可能性は高い。
しかも藍景儀が、どれほど宗家から離れている分家なのかわからない。
同姓であっても五代離れていれば、結婚はできる。さらに遠ければ、確実だ。
「そうか」
藍景儀の説明もそぞろに、ふらふらと蔵書閣へと入っていく。
あとは仕事に集中しなければならない。
むしろ仕事に没頭したほうが、余計な事を考えなくていい。
膨大な本の中から目的の資料が分けられている場所に案内すると、藍景儀は筆と紙を用意したり墨をすったりと仕事をした。
てきぱきと働く姿は好ましいが、たまに落ち着きがなくなるのは玉に瑕だろう。
他にも利用者が出入りをして、挨拶をしてはそれぞれの調べものに没頭していく。
時刻を告げる鐘が鳴ると、藍景儀は江澄を蔵書閣の外に連れ出した。
まだ日は高いが?と首をかしげると、藍景儀は腰に手を当てて「休憩時間ですよ」と告げた。
一刻ごとに休憩時間を設けて、また次の事を取り掛かる決まりだ。
他の利用者も似たようなもので、外に出されているため江澄だけという特別は許されないようだ。
体や目を休ませるのも修業の一つだ。
蔵書閣の周りを散歩してくると藍景儀に告げて、離れていった。
しばらく歩いていると、女性の声が聞こえてくる。
「桜桃様、大丈夫ですよ」
「そうです。きっと、先生が相手になさいませんわ」
桜桃という名前に引っ掛かりを覚えて、立ち止まる。
泣いている少女を、数人の女性が慰めているように江澄から見えた。
「ですが、相手は姚宗主のゆかりの方です。啓仁様も無下にはできません」
声が震えているやはり泣いているのか……と、思う。
それにしても、藍啓仁と藍曦臣がそろっての所要とはもしかして見合いだろうか?と、
見合いにはいい思い出がない江澄は苦虫を噛んだような気持になる。
しかも相手は、あの姚宗主のゆかりの者とくれば藍啓仁といえど無下にはできないのは同意であった。
きっと無理やりにでも見合い話を、ねじ込まれたのだろう。閉関後の藍曦臣は隙だらけだ。
好いた女を泣かせるとは、とんでもない色男だ。
「かくなる上は……」
ん?なんだか、少女の様子がおかしい。
慰めていた女性たちの手が置かれている場所の服のしわが、なんだか違和感を感じる。
「私があの方の妻なのだと、乗り込むしか手はございませんよね!」
「なりません!桜桃様!!これより先は、われら修女が入っていい場所ではございません!!!」
「落ち着いてくださいませ!先生もおとなしく待っていなさいとおっしゃってましたよね?ね?!」
「ああ、やはり私たちだけでは、抑えきれない!!」
彼女たちの足元を見れば、大きな荷物を引きずったような後がある。
江澄が、見ているうちにずるずると大人の女性を三人も引きずりながら前に進んでいく。
女性たちも必死で連れ戻そうとするけれど、土をえぐる勢いで引っ張られていた。
もしかして、少女は泣いていたのではなく怒りで震えており、彼女たちは慰めるのではなく宥めていたのでは?
「では、どうすればいいのです?!
あの方、いつもいつも私の夫に色目を使って!この前なんて、恋文なんて送り付けていたのですよ!
背の君はお優しいから、黒々とした墨でお返事を書いていらしたのよ!それなのに!!」
まるで舞うように、女性たちの手を振り払う。
強くつかんでいたはずの手は、するりと羽衣を外すかのように簡単に取れてしまった。
しかし彼女たちも藍氏なのか、くるりと体を回転させて地面との口づけは回避していた。
桜桃は、近くにあった木を殴る。すると、めきめきと音を立てたと思うとずぅううんと彼女たちのかわりに折れた木が地面と口づけをする。
「どうして背の君は、私の事をかくすの?!私が若いからいけないのですか?!
年の差なんて関係ないじゃありませんか!同じ姓であっても五代以上も遠縁なのだから、結婚しても問題はないはずよ」
婚約者どころか既婚者だったのか、とあの優しい笑顔を思い浮かべて江澄はめまいがした。
四大世家で最も浮いた話のなかった藍曦臣は、いつの間にか婚姻を結んでいた。
しかもあんなに若い少女と……。
宗主ならば、もっと大々的に広めてもいいはずだ。同じ宗主である江澄にすら知らせが来ていないのは、どういうことだ?
「私、背の君のために努力してまいしましたのに」
「……そうですね」
「藍氏の女性として花嫁としては、とても立派です」
「桜桃様の努力が、少しばかり変化球でしたけどね」
「うあーん、ちょっと力の加減を間違えただけですわぁ」
ちょっとで、木を殴り折れるのか?
殴り折った木に縋って、ぽかぽかと殴っている。
しかし、ぽかぽかは可憐な少女の外見から見せる幻聴であって、本来はずどんずどんという擬音が正しい。
「それでは、表に出すこともできないのは納得だな」
相手の命が危うい。
そう言葉に出さないのは、江澄の珍しい気遣いだった。
声をかけると、女性たちは少女を庇う様に江澄の前に立つ。
「いくら江宗主と言えど、奥方様に近づくことは許しません」
「……随分と、大切にされていらっしゃるようだな。
それなのに、貴方は夫を信じられないというのか?」
皮肉を言う様に鼻で笑ってみせれば、彼女たちの背後で顔を隠していた少女が顔を上げる。
「信じています!
ですが、ですが、あちらの方はきらびやかで豊満なお胸をしていらっしゃいます。
とても積極的で、蠱惑的な優美なお方なのです」
必死に抹額を握っているその姿は、恋する乙女で愛らしい。
しかしその手にある抹額がぎちぎちと悲鳴を上げているのを、江澄は聞かないようにする。
「あなたの夫は、力が強いとお見受けしております。
薬を使われたとしても、金丹でどうにでもなりましょう?
万が一に押し倒されても、回避すると思われますが?」
「ですが…」
「ですが、なんなのです?」
ぐっと唇をかみしめてから、まっすぐに江澄を見つめる瞳には涙がたまっている。
「はっきりおっしゃい。私は、人の気持ちを汲むというのが、苦手なのです」
はっきり言って促すと、するっと抹額から手を離してから俯いた。
それゆえに我慢してきた涙が、ぽつぽつと地面に吸い込まれていく。
「私が、イヤなのです」
「ほう」
「私が、あの方に誰かが色目を使っているのを見るのが、イヤなのです」
自分で涙をぬぐう姿は、江澄にすら守らなければならない乙女のように思える。
「やっと娘じゃなくて、妻として見てくれるようになったのにっ
もっと早く生まれていればよかった。
私が、大人であれば、背の君は私を隠さずに隣に立たせてくれたのではないのかと、不安になるのです」
確かに藍曦臣と目の前の藍桜桃は、親子ほどの年の差だろう。
金凌よりは年上だろうが藍思追よりは年下。藍景儀くらいの年齢か。
彼女も、きっと娘ではなく一人の女性として見てもらうために努力をしてきたのだろう。
振り向いてと袖を引き手を伸ばして、藍曦臣が手に取ったのは無骨な男の江澄ではなくこの可憐な少女なのだ。
桜と桃とは、ずいぶんと相応しい。儚く美しい清楚な少女。
叶わない想いだと、諦めていた感情じゃないか、今更傷つくような心なんて持ち合わせていない。
「なら、それを伝えればよろしいのではないか?」
「え?」
「あなたが、表に出たのは私が連れ出した事にすればいい。行くぞ」
「よろしいのですか?」
「本当はよろしくないんだろうが、俺とて男だ。可憐な女性が泣いていれば、手を貸さねば男が廃る」
手を差し出すと、藍桜桃はおずおずと手を伸ばす。
女性たちは、たしなめたり諦めたりしていた。
******
藍曦臣は、ため息を内心ついていた。
閉関を解いたとたんに、見合いだなんだとか縁談の話が舞い込んでいて疲れていたのだ。
厚化粧の臭いも、きんきんとした高音の声も、彼を疲弊させるには十分なことだった。
心に決めた愛しい人に会いたいと思いながら、険しい顔をしている叔父を見つめた。
姚宗主の言葉に「必要ない」と、きっぱりと切り捨てている。
もうどれくらいこの押し問答をして、経っただろうか。
廊下が騒がしくなり、そちらに視線を向ける。どうやら、誰かがこの部屋に近づいてきている。
「失礼する!」
ばん!と扉を開いたのは、江澄である。
彼の手には女性の手首が握られており、連れられているのは藍桜桃。
申し訳ないと彼女の侍女たちは、頭を下げていた。
「……花々、なぜここに?」
藍曦臣が中腰になり立ち上がろうとすると、江澄はぎろりとにらみつけた。
「彼女を泣かせておいて、見合いとはな」
冷たく言い放たれて、藍曦臣は瞬きをして動きを止めた。
藍桜桃が泣いていた?それは、雲深不知処の木は無事だろうか?それとも岩?小川の形は変わっていないだろうか?
侍女たちの足元を見ると、必死で止めたのだろうか土で汚れている。
江澄と藍桜桃の乱入に、姚宗主と彼の縁の女性は驚いた顔をしていた。
藍啓仁も「桜桃、何をしに来た」とたしなめる声をかける。
しかしその声を無視して女性を見定めた藍桜桃は、つかつかと近づいた。
「何かしら、お嬢さん?」
藍桜桃が儚い小さな花と例えるのなら、姚の女性は大輪の牡丹と言ってもいい美女だ。
「私の夫に、言い寄るのはおやめになってください」
「あら、夫?あなたの夫というのは、どちらにいらっしゃるのかしら?」
少女という域を出ていない藍桜桃は、きっ!と睨む。
その気迫に、姚の女性はびくりと体を震わせる。
藍曦臣は、いけないと思い一歩前に足を踏み出した。
「私の夫は、藍啓仁その人です!
いくらあなたが着飾って言い寄っても、私の背の君はなびくことはありません!」
はっきりと言い切った藍桜桃の言葉に、事情を知っている者以外藍啓仁を見た。
江晩吟なんて「そっちかよ!」と驚いた声を出していた。
藍曦臣、自分の叔父を見た。眉間にしわが寄って、肩を上げていた。しかし、すぐにため息をついて肩が下がる。
それを見て、藍曦臣は江澄の隣に並んだ。
今だに信じられないという顔をしている姚宗主。
姚の女性は、色づいた唇を引きつらせて「何をおっしゃってるの、嘘よ」と震える声で告げた。
藍啓仁が藍桜桃の隣に並び立ち、細いけれどしっかりした肩に手を添えて引き寄せた。
「紹介が遅れました。妻の藍桜桃です」
他家の宗主二人の前で、妻と紹介された事に感動したのか口元を隠して自分の夫を驚いた顔で見つめる。
「随分とお若い奥方ですな」
「そうですな。ですが、誰よりも愛しく唯一の人です」
若いという理由で侮辱をするな、と藍啓仁は姚宗主にくぎを刺す。
姚の女性は、体をわなわなと震わせてから「こんな屈辱初めてだわ!」と怒鳴って、出て行ってしまう。
慌てて付き人たちが彼女のあとを追っていく。
礼儀のなっていない女性だと、藍啓仁は冷たい目で見つめていた。
姚宗主は、標的を変えたのか藍曦臣に向き直る。
だが、藍曦臣は江澄の腕をつかんで引き寄せる。
「私も弟と同じなもので」とはっきりと告げた。
何が同じなんだ?そして、なんで俺は手を引かれた?と江澄は疑問だらけで、藍曦臣を見つめていた。
******
姚宗主がいなくなり、藍氏関係者と江澄だけがその場に残った。
「桜桃、なぜこちらに出てきた。部屋でおとなしくしていなさいと告げたはずだが?」
「はい。この小花は、背の君の言いつけを守れませんでした」
藍啓仁は、妻の藍桜桃の肩に手を置いて腰をかがめて視線を合わせる。
しかし、藍桜桃は視線を落として胸の前で両手を握っている。
「江晩吟に手を引かれて、私がどのれほど胸が引き裂かれる思いをしたかわかるか?」
お?自分に矛先が向いてないか?と、江澄は藍啓仁を二回見た。
なに?どういう事?むしろ、藍桜桃の夫が、藍曦臣ではなく藍啓仁だったという事にすらまだ受け入れられない事実なのだが?
藍桜桃は、首を横に振る。
「江宗主は、泣いていた私に勇気をくださったのです。
背の君、愚かな妻に教えてください。私が、大人ではないから、お隠しになるの?
私が藍氏の…背の君にふさわしくないほどに子供だから、妻として紹介してくださらないのですか?
いまだに私は、背の君にとっては娘なのですか?」
幼い妻の問いかけに、藍啓仁は「そのようなわけがない」と告げた。
「そなたを娘として育ててきたのは、本当だ。
しかし、曦臣や忘機、思追や景儀と親しくする姿はいつしか見るに堪えないほどになっていたのだ。
桜桃、そなたはとても美しく藍氏の女性として妻としてふさわしく育った。
そなたを皆に紹介しないのは、確かに若すぎるからである。しかし、それ以上にそなたをほかの誰にも目に触れさせたくないのだ」
自分で作ったと言えるこの場面を、江澄は見て居られなかった。
「うれしい!」と、親子以上に年上の男に抱き着く少女。
その背中を、戸惑いながら抱きしめ返す藍啓仁。
育ての親である叔父のそういった場面を見たくなかったのか、藍曦臣は江澄を連れ出した。
「てっきり、あなたの奥方かと思った」
部屋から出た江澄は、肺にたまった甘い空気を吐き出すように言葉を紡いだ。
藍曦臣はきょとんとしてから、から笑いをする。
「あの子は、斜日の頃に生まれた子でしてね。不夜天の時に、両親を亡くしたのです。
思追と同じように叔父上が育てたのです。
私か忘機の嫁にしようと思っていたのでしょうけど、花々は物心ついた頃には叔父上を好いていましてね。
私たちも心に決めた方がいたので兄弟妹三人で、同盟を組んだんですよ」
藍曦臣は、江澄の手を握りしばらく歩き続ける。
恩師夫婦の熱に当てられて、手をつないでいる事に気づけないでいた。
蔵書閣近くの東屋にたどり着くと、藍曦臣は江澄を椅子に座らせる。
自身は椅子に座らずに、江澄の前に膝をついた。
何をしているのだ?と首をかしげていると、藍曦臣が手を取る。
「江宗主、私はあなたを昔からお慕いしております」
「は?」
「あなたしか、私の心に居ません」
告白されていると気づいた時には、江晩吟は口を開いていた。
「あなたの心にも私がいると、己惚れておりますが……どうでしょうか?」
「な、なんで……」
「本当は、義兄上や阿瑶とあなたと一緒に平和な世界で生きたかった。
けれど、それはもう叶わない。二人とも死んでしまった、殺してしまった。
だから、せめてあなたと共に生きたい。生きたいと思えるようになりました」
藍曦臣は、江澄の手を自分の額に持っていく。懇願するように、抹額を触れさせる。
「私は強くありません。あなたを助ける事も支える事も出来ないでしょう。
でも、あなたが居てくれたなら、私は強くなれる。私を助けて、私を導いて……江澄」
「……俺で、いいなら」
江澄は、藍曦臣の手を握り返した。
―――この数日後、藍曦臣が道侶を迎えた事が発表され、藍啓仁の妻が紹介された。
幼な妻を隣に立たせている藍啓仁は、まるで袖で隠すかのように彼女の傍から離れずにおり、
険しい顔は彼女を見つめる時だけは優しい笑顔を浮かべていた。
それから一年の後に、雲深不知処に新な命が芽吹いたである。