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    カナト

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    カナト

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    🦐 こんなにも自分の存在感が薄いことを感謝した日があっただろうか。
     続く言葉は反語だ。つまるところ、いやない。
     自分の勤務地は栄光あるファラザード城、その食堂である。
     とはいっても自分はコックではない。それにコックならば厨房だと言っているだろう。
     自分、食堂で給仕やってます。
     目の前で副官、給餌、やってます。
     昼食時を少し過ぎた時間帯のこと、各々己の職務に戻り、食堂のヒトは疎らだ。
     そこにやってきたのが副官殿である。
    「食事を頼む」
     その一言で慌ただしくなる午後の時間。副官殿はそのまま個室へと向かった。
     ここにあるのは大衆が集う食堂部分、特定の人物が使える個室だ。更に会食用の部屋が別の場所にある。
     副官殿は朝夜はともかく昼はあまり食堂に現れることがない。仕事が忙しく、仕事をしながら摘めるものを好んでいるからだ。
     珍しいこともあるものだと、厨房に要望を通し、俄然張り切る厨房に苦笑した。
     ユシュカさま、そしてナジーンさま。大柄な彼らはその体格に相応しく、よく食べる。その食べっぷりは見ていて気持ちがいいものなので、コックたちも俄然張り切るのだ。
     次々と供される熱々の食事を溢れんばかりにワゴンに載せる。コース料理は接待でもなければ基本的にないので、その日にある食材で作られる。
     本日は新鮮な海産物を仕入れたらしく、海の幸が砂漠特有のスパイシーな味付けになっていた。
     見ているだけで美味しそうだが、賄いを食べた後なので我慢ができる。ウチのコックはさすが王城勤めだけあって腕がいい。
     ノックをして入室を許可される。稀にここに仕事を持ち込むことがあるため、部屋前に置くように指示されることもある。
     指示に従い入室して、次々と机の上に料理を並べる。冷たい飲み物をご所望されたので、地下水でよく冷えた果実水を供した。
     グラスに注がれたそれを手に取り、ひとくちこくりと干したナジーンさまは、そのまま懐の方へとそれを滑らせた。
     びっくりしていると、懐から小さな手がにょきっと伸びて、両手でグラスを受け取っている。ナジーンさま? 一体何を拾ってきたのですか!?
     ぎょっとしているうちにこくこくと可愛い音を立てて果実水が干されていく。どうやら喉が渇いていたらしい。
     干されたグラスをナジーンさまが受け取り、今度はひとくちずつ食事を食べていく。
     さすがナジーンさま。食べ方が上品だ。ユシュカさまとは大違い……ってそうじゃない!
     びっくりして固まっていたら、完全に部屋を去るタイミングを逃した。そんな自分が取れる行動はひとつだ。
     そう、つまり、空気になることである……!
     本能ゆえか壁際に控えた状態で置物と化す。それが自分に出来る精一杯。そして、隙あらば出入口にジリジリと近付くのだ。
     そのためには隙を伺う必要がある。そう、隙を……。
     対象人物に目を向け、ぎょっとした。ナジーンさまが手ずから懐の物体に食べさせていたからだ。
     その様子はさながら給餌、もしくは餌付け。幼い子に食べさせるのでなければ、倒錯的なくらいに溺愛している姿だ。
     与えている食事は、比較的辛さが控えめなものだ。
     ユシュカさま、ナジーンさま共に辛いものを好んでいるので、数少ないその品だけが減っている。
    「はい、あーん」
     蕩けるような低音ボイスが、口を開けることを促し、大きな手の匙が小さめのひと口大の料理をねじ込む。
     もしょもしょと咀嚼しているであろう間に次弾が装填され、再び甘ったるい指示が出された。
     誰だこの人。いや知っている、ナジーンさまだ。
     ファラザードのおかたい副官。隻眼の苦労人。ため息と頭痛が絶えない、生真面目な性格の方だ。
     基本的に冷静沈着で淡白なお方。そんなお方がどう見ても溺愛している。おかしい。
     眺めていると、次に装填した料理は断られたらしい。匙が上方向へと滑っていく。
     そのまま皿にでも置くのかと思いきや、ぱくりと口にした。うん、それ、同じ匙だな?
     どうやらナジーンさまは懐の物体と食器を同じくしているようだ。俗に言う間接キスというやつではないだろうか。
     そういえば最初の果実水も共有していた。でろ甘じゃないか。
     しかしながら、小心者でいち国民である自分に、その相手を確かめてやろうなんていう心は湧かない。むしろ知りたくない。絶対に知りたくない。
     ただでさえナジーンさまは高位魔族。それほど身の程知らずではない。まあ、魔界には身の程知らずはわんさかいるのだが。
     遠い目をしていると、いくつかの料理を同じ匙ですくって食べたナジーンさまは、手ずから置かれていたピッチャーで果実水をグラスに注いだ。
     カランと氷の音がするのは、魔法で氷を出したからだろう。
     少し水滴のついたグラスを懐の人物へと手渡し、ナジーンさまは皿へと手を伸ばす。
     伸ばした先にあったのは海老の皿だ。殻ごと供されているもので、ものぐさなユシュカさまはそのままバリバリ食べる。
     殻はそれ程かたいものでもないので、しっぽまで食べてしまう不精なヒトはそのまま食べることが多い。
     ナジーンさまはせっせと剥きづらい殻を器用に剥いて、ぷりんとした身を取りだした。
     付け合せのソースはいくつか用意されており、ナジーンさまはそれらに小指をつけて味をみている。選ばれたのはいちばん辛くない……というか、甘めのソースだった。
     普段ならば辛いソースが減っているのだが、甘いソースを選んだということは案の定だ。
     殻を剥かれてソースをつけられた海老は、ナジーンさまの懐に与えられた。
     その後もせっせと海老を剥くナジーンさま。普通海老を剥いてやるなんてことしない。ユシュカさまがねだっても拒否している。
     それがどうだろう。目の前のナジーンさまの姿をしている何者かにさえ思えるヒトは、嬉々として手ずから給餌しているのだ。
     動物の中に求愛給餌という行動をとるものがあるが、その行動だと言われて遜色はない。
     片目を無骨な眼帯に覆われた瞳はどろりと蕩けているし、声音は聞いたことがないほどに甘い。もちろん行動は言わずもがな。
     パリパリと乾いた音を立てて、足の一本、触覚の一つでさえもするりと抜きとる程に丁寧に殻が剥かれていく。皿の上に残された殻は、脱皮後のものですと言われても信じてしまうだろう。
     普段書類を捌くところをよく見る指先が、海老のしっぽの辺りを摘んで下へと下ろされていく。
     ちゅ、と吸い付くような音がして、思わず見蕩れていた自分は我へと返った。おかえり、自分。
     いやもうこれどっちかというとこのまま意識飛ばしていた方が幸せだったかもしれない。意識が戻ってきてしまったことを少しだけ後悔する。
     なぜなら海老を持っていた指先が、そのまま迷うことなくナジーンさまの唇へと寄せられ、珍しくも指に残ったソースを舐めたのだから。
     その壮絶なる色気といったら筆舌に尽くし難い。同性なれど見惚れて真っ赤になってしまう。
     その後ナジーンさまは懐の物体を愛でに愛でて拒絶されるまで食事を与え、残された食事はナジーンさまが見事に完食してみせた。
    「さて、そこのきみ」
     呼ばれてびくーっと肩が跳ねる。やややヤバい! 気付かれてた!
    「後片付けを頼む」
    「しょ、承知いたしました!」
     歯の根が噛み合わないがしょうがない。大魔族に睨まれたらどうしようもない。
     ナジーンさまは懐の物体を大事そうに抱き締めて席を立つ。片付けるために机に近づいた時に聞こえたのは健やかな寝息で。
     ちらと盗み見たナジーンさまの、見たこともないほどに穏やかで優しい表情に、どうか末永く睦まじくあって欲しいと給仕の末席ながら思った。
     苦労人のナジーンさまがお幸せそうで、自分もなんだか嬉しい。
     ……という思いは、その後幾度かこの求愛給餌の席にご指名に預かることとなって、少しだけ萎んだ。
     ……自分も彼女ほしい。

     ファラザード城の厨房に、どこで生息していたんだそのサイズ! と聞きたくなる海老が届いて、ナジーンの掌中の玉を察してしまった哀れな給仕は泡を吹いて倒れたとかいないとか。
     なお玉本人が「海老じゃなくて蟹だった……?」と呟いたらしく、あだ名が蟹になった。
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