🦟 ぱしっ、肌が軽くぶつかるような音が響く。
それは平手打ちや背中を叩くような強さではなく、もっと弱いものだ。
修羅場でもない音に反応するものはいない。その音を出した者たちを目撃したものがいれば話は別だったかもしれないが。
音の発信源は、細い少女の手首だった。色素の薄いペールオレンジの肌に、大きく無骨な薄紫の男の手が絡まっている。
男は眉間に深い山脈を築き、赤い左目は険しく冷ややかだ。
対する少女は何が起こったのか分からないと言いたげにきょとりと瞳を瞬いている。本当に分からない。
「ナジーン、さん?」
手首の骨の辺りに固定されている視線が怖い。もしやこれは日頃から食事を疎かにする少女が、更に痩せたとでも思っているのだろうか。
世話焼き気質なところがある男、ナジーンは隙あらば少女に食事を摂らせる。
ファラザードの食事はスパイスが効いた辛いものが多く、少女は辛いものが得意ではない。その事に気付いてからは、わざわざ辛くないものをより分けて食べさせている始末である。
例えるなら、ボンゴレビアンコの輪切り唐辛子をせっせと別皿に移すレベルだ。
スパイシーなカレーも、少女に合わせた甘口がいつの間にやら食堂のメニューに追加されているくらいだ。
献身的とも言える食事の斡旋を、少女とてひしひしと感じている。しかし、なにかに夢中になると周りが見えなくなることが多々あるのが少女である。
常にナジーンがいる訳でも、ファラザードに居住している訳でもないのだから、そんなものは付け焼き刃に過ぎない。
また食事をサボったことがバレたのか。いや、そう簡単に痩せるはずない。これ以上手首の骨だって浮かないだろう。
内心真っ青になっている少女に対し、ナジーンは骨の上をざらりとした指先で撫でた。
(……かゆい?)
そう思ったのもつかの間、ナジーンの口が開かれ、重苦しい声が響く。
「誰にやられた?」
なんの事だと少女は再び瞳を瞬く。断じてドライアイでは無い。
まるで理解出来ていない少女に、ナジーンは深い深いため息をついた。
掴んでいた手首を回し、骨の上にあった皮膚を少女へと見せれば、そこは赤く変色していた。サイズ的には少女の爪くらいだろうか。
(ん? “誰”?)
そこで少女はナジーンの言葉に違和感を覚えた。何か、盛大に勘違いなさっていることだけは分かる。
ぎらぎらと輝く赤い瞳。その奥深くには、熾火のような熱く、しかししっかりとした感情が灯っている。
「ナジーンさん」
その感情がなんだか擽ったくて嬉しくて、少女はふわりと微笑んだ。
対するナジーンは眉間の渓谷をより深いものに変えている。その瞳は笑い事じゃないだろうと物語っているようだ。
「なにと間違えているかは知りませんけど、これは虫刺されですね」
「むし、さされ」
予想外の単語にナジーンは思わずきょとんとした。毒気はびっくりするほどすぐに抜けてしまったようだ。
先程の嫉妬に染まっていたのであろう姿にもときめくが、やはり甘い視線の方が嬉しい。
「さっき触って分かりませんでした? ちょっとボコってなってるハズです」
指摘されてナジーンはもう一度赤い部分に指を這わせた。なるほど、皮膚は少し盛りあがっているようだ。
触れられてまた痒さがぶり返したがこれは仕方がない。誤解も解けただろう。
そう思って腕を引こうとした時、何やら整った顔が手首に吸い寄せられ……。
「……っ!」
虫刺されの部分を、いつも引き結ばれている唇が食む。そしてそのまま強く吸われた。
「虫か。そうだな、世の中“悪い虫がつく”とも言うしな」
「本物の虫ですからね!? 多分ヴァース大山林でやられたんだと思いますけど!?」
先程までの余裕はどこへやら、真っ赤に染って動転した少女があわあわと言葉を紡ぐ。
唇にキスをしたこともあるというのに、手首の方が反応がいい気がするのは何故だろう。
「とっ、とにかく痒いですから薬を塗ります! だから口付けちゃダメです! あと何か毒みたいなものが入れられているっていいますし、口に含んじゃそもそもダメですよ!」
言い募りながら腹が立ってきたのだろう、ぷんすか怒りながら早く口をすすげとナジーンに言い募る。高々アストルティアの虫ごときが魔族であるナジーンに有効な毒性を持っているとは思えないが、滅多に怒らない少女がぷんぷんしているのが可愛いので素直に従う。
されるがまま引っ張られ、渡された水の入ったコップを傾け口をすすぐ。
きちんと吐き出されるまでを少女は穴が空くほどじっと見ていた。ユシュカじゃあるまいし信用はあるつもりだ。
心配性なのか何度か繰り返すよう指示を受け、ナジーンは言われるがままに行動する。周りから見ていれば、ああこれはナジーンさま尻に敷かれるな、という具合だろうか。
「私が言えた義理じゃないですけど、軽率な行動はダメですよ」
「実にその通りだな」
普段は少女が耳にタコができるほどに聞く台詞である。だがしかし、自分の女にあんな痕をつけられたのだ。上書きしたくなるものだろう。
湧き上がるのは独占欲だ。
大部分が昆虫である虫も、比喩表現の虫も、ナジーンには到底許容できそうにない。
まあ、比喩でもない虫刺されに対していちいち嫉妬していられるわけもないのだが。
ナジーンは口元に柔らかな笑みを刻んで、困ったような表情をする少女を抱き寄せた。怒ったのはいいが、普段から怒り慣れていないのだろうことが察せられる。
「なんです……っん!」
首筋にかかる髪を払い除け、ナジーンは顕になった肌に唇を寄せて強く吸う。
「っ、ん! なじ、さ……?」
痕がついたのを確認してもう一度、と吸えば、びくりと肩を揺らして反応する少女に理性がぐらついた。
しかしそこはメタルスライムよりおかたい理性を駆使し、ナジーンは少女の首筋から顔を離した。
先程の虫刺されにも似た、赤い痕がふたつ。
「これは虫除けだ。消えたらまた来るように」
ふっと微笑んで、今度はぱくぱくと言葉を紡げないらしい唇を重ねた。