「ふむ……こんなものかな」
天上界の何処、田園にて。神力を適度に注ぎ、育ちきった作物を眺めながら、腰を下ろした。
金色の稲が揺れる様はさながら、高価な反物の様だ。これら全てを収穫したとして、一斗分といったところだろうか。
……此れが、大食らいの犬神に渡すや否や、一瞬で消える量だというのだから恐ろしい。
まあ、この程度の作物を実らせる事如き、どうということはないのだが。
──どうということは無い、か。この身がまだ地上に在った頃は苦戦していたであろうに。
ああ何時の間にか、天上神と相成った事に違和感を抱かなくなっていたらしい。いやはや、愉快なものだ。
そうくだらない事を思い巡らしていたところ、金色一色だった視界に青い物が映り込んできた。其れは時を経る度に此方へと近付いて来、人間大と成った所で留まった。
そうして青い角、青衣、青い目の男と目が合った。
彼が口を開く前に、此方が声を掛けた。
「御前が此処に来るとは珍しい事も在るものだな、青行燈」
「すまない、九尾。忙しいのは承知の上なのだが急用があってな」
「急用?」
「嗚呼。御前は豊穣の神だろう?ひとつ、花を咲かせてやって欲しい作物があるのだが」
「それはそれは。真逆、人間に神の介入が有ったと悟られるようなものじゃないだろうね」
「すまん。その、まさかだ。」
「何?」
「いやあ……悪い事だとは分かっているんだが、どうしても、な。後日、悪行の片棒を担がせた埋め合わせはしてやるから……そんな目で見ないでくれないか」
「青行燈。俺はな、酒呑童子の奴にクソ真面目と揶揄される程度には神と人とを分ける境界を踏み外す気は無い。」
「だが、まあ……埋め合わせとやらが如何程に面白い物なのか、興味が湧いてきたから乗ってやろう」
「ありがとう。だが、ひとついいか」
「何だ」
「そこまで期待しないでくれると助かるのだが」
「くどい」
「駄目か、残念だ」
青行燈の導きに従って、地上へと降り立った。其処に在ったのは一面の薩摩畑と一軒の庵。庵の中には紫の衣を羽織った青年が、筆を握ったまま手を動かす事なく、こめかみに眉根を寄せていた。
「彼、見えるか?」
そう青行燈が問う。
「嗚呼、書状でも認めているのかな」
「少し違うな。彼は物語を書こうとしている。だが、行き詰まっているんだ。──そこで、貴殿の出番なんだ、九尾」
「彼の様な文豪というものは、行き詰まっている時でも些細な切っ掛けさえあれば即座に物語を書き進められるらしい。だから、其処の薩摩芋の花でも咲かせてやって、切っ掛けを与えて欲しいのだ。……できるか?」
「可能か不可能かと問われれば可能だが。此の時期に花を咲かせるには些か早すぎて不審だろうから嫌な節がある。加えて、これの何処が火急なのか全くもって分からないのだが?如何なんだ、青行燈」
「嗚呼それは……その、彼の人間は彼の薩摩の花が咲かなければ生きる意味を見出せず、手ずからその玉の緒を絶やすだろうと予見してな。そう、まるで全ての木の葉が散った時己も命を落とすであろうと嘆く病床の娘のような風体で」
「……成程?」訳が分からない。まあ如何でも良いか。
手をかざし、軽く神力を送り込んでやった。薩摩芋は抗うことなく力を飲み込み己の糧とし、葉々の隙間から蕾を覗かせ花弁を開かせた。
「咲いたぞ。後は気づかせてやれば良い。」
「嗚呼。」
青行燈は蝶を具現化し、呆然と空中を睨む青年の目の前を横切らせた。
青年の目線が蝶を追うのに併せて、花の方へと導き──。花の存在に気づいた彼が、間近で見ようと近付いてゆくのに伴って、俺達は地上を後にした。
暖かい地域ならばいざ知らず、本州での開花は珍しいと聞く薩摩の花。其れも、此の時期に咲くことは到底有り得ない事象なので、神々の存在を知るものならば即座に何の仕業であるのか察するに違いない。
だが、人は神の業によるものであろうと、自分に都合の良いものであったなら奇跡と称してただ事実を受け入れるのだろう。正しく、神の思し召しだと宣って。
天上界に戻るや否や、青行燈が口を開いた。
「ありがとう、九尾。──ふふ、彼は既に執筆を始めている……この様子なら、明日には一節書き上がるだろう。楽しみだ」
「其れは何より。では、俺は稲藁の収穫に──」
「九尾」
「何だ、青行燈」
「ひとつ、御前に告げておかねばならぬ事があるんだ」
彼の眼差しが、真剣なものになった。突然どうしたんだと言うのだろう。何か不手際でも在っただろうか。面倒事は勘弁してもらいたい。
「実はな、嘘なんだ」
「は?」
嘘……?嘘、だと?何がだ……いや、何処からだ?
「あ、急用だったというところだけだぞ」
そこだけか。ならば良いのだが、しかし。
「何故、こんな事を?」
「御前は犬神の為とはいえ働き詰めだったような気がしてな、多少の息抜きは必要だろうと思って。お節介を焼くのは善いが、抱え込み過ぎも良くないぞ」
「それだけか?」
「嗚呼、其れだけだ。」
「……」阿呆らしい。お節介は何方だ。まあ──悪い気はしない、かもね。
「埋め合わせ」
「えっ」
「御前、埋め合わせはすると言っただろう。嘘の対価も含めて、愉快なものを持ってきたら許してやる。楽しみにしておいてやるから、俺の満足するものを出せ」
「ははっ、調度良い。御期待に沿えるものが今まさに創りあげられているからな。待っていてくれ」
翌日、彼の持ってきた其れは彼の青年が一筆認めた物語だった。其れが中々如何して悪くない物だったので、彼の無礼は許してやることにした。
最も、稲作はある程度のコツを掴んだ後に全ての動作を自同律で行わせる心持だったので彼のお節介は文字通り余計な世話であった事は、俺ひとりだけが知る話である。