1965相変わらず軍歌の大合唱は続いている。外にまで漏れ聞こえるその声を右から左に流しながら、小池は一人煙を吐き出す。皆して肩を組んで拳を振り下ろしながら歌っていたその前を、右手を立ててすまんすまんと頭を下げながら通り過ぎたのは、あれはかなり前のことのように思うが。一体どのくらいの時間が経ったのだろう。中の熱気は茹だるようだったが、外は少しひんやりと乾いた風が心地いい。
「ここにいたか」
ふと背中にかかる声は、小池が記憶しているあの頃の狭山よりだいぶおとなしくて静かだ。出会い頭に正面から思いっきり殴ってくるようなあの威勢は今や影もなく、背中を撫でるような甘くやわい調子はぞわぞわとくすぐったかった。もう何度も聞いているのに、だ。
「そろそろお出ましになる頃だと思ったぜ」
振り向かずに声を返せば、フンと小さく鼻で笑う。そういうところはあの頃のままのような気もする。
「ほら、入口の灰皿のとこに他の隊の奴らがいっぱいいたろ? 池の鯉みてえにうようよ⋯⋯捕まったらめんどくせえと思ってさ、厨房通ってこっそり裏から出させてもらった」
「お前らしいな、そういう変なところにばかり頭が働く」
「お、褒めてくれてる? めずらしー⋯⋯コウジンノイタリです」
「慣れない言葉を使うと舌噛むぞ」
はは、と互いに笑って、そしてふうともはあともとれるため息をほぼ同時に吐いた。狭山は疲れていた。この会も楽しいことには楽しいのだが、やはり大勢というのは気も張るし久しぶりに会う面子とは多少緊張もする。当時うまくやっていた奴はいいがそうではない奴もいるし、戦争の話もなんだか気が滅入る。あの頃いくつ撃墜しただなどという武勇伝も今となっては虚しいし、互いの近況もいいことばかりならいいが苦労話は酒が辛くなる。借金だの病気だのの話を聞くとなんと言っていいやら。大声で軍歌を歌う気にはならない、今は亡きかつての上官に文句を言う気も起こらない。楽しくやっていたように見えた小池も、あの酒の場の空気にだいぶ当てられていた。一服したい気持ちはもちろんあっただろうが、本当のところはそれを盾に逃げてきたのだ。狭山も同じだ、煙草など持っていないのに〝ちょっと〟と言いながらそれを吸うジェスチャーをしたのはあの場から一刻も早く逃れたかったからだ。連城がそばにいる間はよかったが、他のテーブルの連中に連れて行かれてしまってなかなか戻ってこなかった。あの頃から彼は面倒見がよく他の隊の人間にも親切にしていたので、今頃次から次へと感謝の言葉と共に酌をされていることだろう。
「ざっと半年ぶりか」
「ああ」
ふたり隣に並んで星を見上げた。星はいい、変わらないから。無造作に開け放たれた入口の扉から漏れくるのはガチャガチャと膳を運ぶ音や手拍子、どこかの誰かの笑い声、貴様前から気に入らなかったんだ、貴様こそ偉そうにしやがって、などというひどいバックミュージックだ。
「本当にお前は変わらんな、ほっとするよ」
他がどんなに変わってしまっても、小池は変わらないでいてくれたと狭山は思う。今頭上に広がっている星のように。そこまで言ったら気味悪がられるので言いやしないが。
「大袈裟だな! 他の連中みてえに二十年ぶりに会うわけでもねーのに」
「はは、そうだな」
何を話そうか、せっかくあの喧騒から、居心地のよくない場所から逃げてきたっていうのに。夜の空気を星空を、こんなにも贅沢に味わっているのに。小池の声をもっと聴きたいと思うのに。沈黙の隙間にあの軍歌が流れ込んできては、耳から入りぐるぐると頭の中をめぐっている。
「あ! そうだ! ありがとな」
「ん?」
「合格祝い」
「なんだ、去年の話をしやがって」
「お中元もすまんね」
「別にお前のためじゃない、お前の家族のためだ」
小池のかわいい子供のためだ。ああその子ももうすっかり大きくなって立派に高校生をやっている。
「まだ小さい頃いっつも持ってきてくれてたろ、どっか行くたび土産だっつって」
ブリキのおもちゃ、セルロイドの人形、珍しい洋菓子。ありがとうおじちゃんという子供の声を聞くのが、嬉しそうな顔を見るのが、戦後を生きる狭山のささやかな喜びだった。お前にはないぞと言いながら、小池にもちゃんと酒を持っていった。お前に会いに来たわけじゃないと言いながら、小池の顔を見るのが本当は楽しみだった。
「ほら、みっつの頃だったか? 真っ赤なセーター着てきたろクリスマスに! おかげで結構な年まであんたのことサンタさんだと本気で思っちまって⋯⋯そうだ! おまけにあの時小難しい本プレゼントしてくれたっけな」
「小難しくはないだろ、確か小学校高学年向けの本だ」
「だーっ! 三歳児にはむつかしーんだよ」
ああ、楽しいこうしていると。このままでいたいと願ってやまなかった、小池も、狭山も。自分だけがそう思っていると思いながら。
「もうでかいんだからプレゼントはいらんぜ?」
「俺が好きでやってるんだからいいんだよ」
「人の子供をかわいがってどうすんだ」
「仕方ないだろかわいいんだから⋯⋯お前の子供だから余計にな」
困ったみたいに笑う小池をもっと困らせることになるかもしれないと思いつつ、狭山はそう言うしかなかった。言葉をなくされて慌ててそこに付録をつけてやる。
「本当にかわいい、お前に似なくてよかった」
「なんだとー!?」
まばらに帰っていく連中を横目に送りつつ会話を続ける。こうして見ると宴会場にはたくさん人がいたんだなあと思う。あの頃ただひとつの目的のためにそこに集まった同士が二十年後、知った顔も知らぬ顔も一緒になって同じ夜に集まる。まるで夏の日の蛍。狭山が煙草をねだるので、小池は気前よく渡した。いつも吸わないくせにと笑えば、普段は吸わないが特別だ今日はと返事。小池もわかっていたのでそれ以上何も言わなかった。火をつければあの頃に戻るようだ。まるで魔法、夢でも見ているかのように。狭山は思った、あの頃に戻れたらやり直したいことがいくつもある。今度はうまくやる、うまくやれる自信がある。それなのに冷たい夜の空気が引き戻す、ここはもうあの暑い夏の鹿児島ではないと。
「なあ、大丈夫か?」
ふーっと煙を吐きながら、そしてまた吸いながら、狭山は小池の心配そうな声を聞いていた。
「お前の〝大丈夫か〟ももう何度聞いたかわからんな」
大丈夫になったということにしている。が、もう二十年も経つのにまだやっぱりこたえる、特に今日は。そんな狭山の言葉に頷いて小池はただ一言「そうか」と言った。言ったっきり黙る。黙られると言いたくなる、言わなくてもいいことを。人の話を聞きたくはないくせに狭山は話したがる、あの頃のことを。
「気づいてたんだろ? 俺があの頃お前に会いに行き始めた理由を⋯⋯お前の子供が産まれてからは子供かわいさに行っていた、それは本当だ⋯⋯だが最初は⋯⋯」
「いいんだよ狭山さん」
小池は遮った、なのに狭山は蒸し返す。聞いて欲しいからだ。なじって欲しいからだ。小池がそれをしないことを重々承知した上で。ずる賢い男だと、罵られるべきは。
「あの当時は逃げ場が欲しかった、現実から逃げたかったんだ⋯⋯お前だけは変わらないままそこにいてくれるから甘えた、利用した、それで何かと理由をつけて俺は」
「理由なんかいらないから利用しろよ。あんたは思ってることちっとも言わねえし⋯⋯もっと俺を使え、頼れ、甘えてこい、支えてやるから」
それくらいの借りはあるつもりだ、なんて。そんな格好つけた台詞は似合わないあの頃から。そういうのは全然似合わない男だと、小池自身もわかっていた。
「頼れだの支えるだの簡単に⋯⋯俺はお前が思うほど軽い男じゃあない」
「わかってるって、そういう意味じゃねえよ」
ジッと短い悲鳴をあげて、二つの赤い火が蛍のように明滅していた。
「おおい狭山! そろそろ戻ってこい!」
「ああ、今行く」
これ、ありがとうな。そう言って狭山は短くなった吸殻を指に挟んだまま背を向けた。もう玄関の灰皿付近には誰もいないようだった。
「なあ、この後用事ないならウチに来いよ、泊まってけ、みんな喜ぶ」
「遠慮しておく。ゆっくり家族で過ごせ」
「じゃあ、じゃあせめて体に気をつけろよ⋯⋯! お歳暮待ってるからな! 正月も待ってるからな!」
「ああ⋯⋯いい酒でも持ってってやる」
狭山が挙げた左手に、光るものは何も無い。独りでいるのが気楽だと言う男にそろそろ家庭を持てなんて小池は言えなかった。狭山の身上を心配している振りで進んでそう仕向けない自分を自分でもずるいと思った。そしてまた狭山も小池に言えなかった。俺にとってもかわいいかわいいお前の子供は、目の中に入れても痛くないと思えるほどかわいいお前の子供は、本当にお前によく似ているからかわいいんだなんてことは、言えなかった。
【完】