歌姫先輩、彼氏と別れたらしいよ。
昼休みに家入硝子が何気なく発した言葉に、五条悟も何気なく「ふーん」とだけ答えたつもりだった。しかしにんまりと口角が上がるのを抑えられていなかったらしい。夏油傑に「悟、顔がにやけてるよ」と突っ込まれ、硝子にも「だからってお前にチャンスはないからな」と冷静に諭された。
「別ににやけてねーし。それになんだよチャンスって。俺が歌姫に気があるみてーな言い方すんな」
そう言い返したものの、午後の授業の間じゅう五条はふわふわした気分から抜け出せなかった。ほとんど空を見ているような状態で、担任の夜蛾は「悟は一体どうした」と気味悪がっていた。思っていた以上の反応に、硝子と夏油は「あいつ結構重症だな」と目配せし合っていたとか。
その噂の当人、庵歌姫が最近恋人と別れたのは本当のこと。付き合っていたのは一年くらいだったろうか。一年前に「歌姫先輩、彼氏できたらしいよ」と硝子が言ったとき、五条がものすごく面白くなさそうだったのを硝子も夏油も覚えている。この一年間歌姫は幸せそうに笑ってよく硝子に恋人の話をしていたし、右手の薬指には銀色の細いペアリングが光っていた。その指輪が目に入るたびに五条の面白くない気持ちが募っていって、ずいぶんひどいこと−–−–歌姫と付き合うやつなんて女を見る目がない」とか−–−~を言ってしまい、その度に歌姫を怒らせていた。
その歌姫が、「彼氏と別れた」と聞いて、にんまりしてしまうのは−–−~まあ要するに、五条は歌姫のことが「好き」ということになるのだが、始末が悪いのは、当の本人がその感情に気づいていないことだった。
「お、歌姫じゃーん」
次の日、たまたま高専に顔を出していた歌姫に遭遇し、五条は声をかけた。歌姫は振り返ると「げ」とあからさまに嫌そうな顔をする。その指にもう指輪が嵌められていないのを確認した五条はニヤッと笑った。
「彼氏と別れた歌姫センパイ、お仕事お疲れ様でーす」
「……硝子から聞いたのね」
歌姫はぎっと五条を睨んだ。
「そだよ。かわいそー歌姫、歌姫のこと好きになるような男、これからまた見つけるの苦労すんじゃない?」
「……っとに、腹たつことしか言わないわねアンタは……!」
歌姫はますます五条を睨みつける。その様子を見て楽しくなってしまった五条はこう続けた。
「何が原因で別れたわけ?相手が歌姫がガサツで乱暴なことにようやく気づいちゃったとか〜?」
五条がそう言ったのに深い意味はなかった。歌姫が恋人と別れた理由に特別興味があるわけではなかったし、単に歌姫が反応を示してくれるのが嬉しくて、怒らせるような言葉を選んだだけだ。歌姫はまたいつものようにきーきーと言い返してくるだろうと予想していた。しかしその予想に反して、歌姫はぐっと声を詰まらせ、ふいっとそっぽを向いて静かにこう言った。
「別にアンタに関係ないでしょ。……報告書出さなきゃなんないから、私もう行くわ」
そう言うと歌姫は五条を置いて、スタスタと廊下を歩いていってしまった。
「んだよ」
置いて行かれた五条は歌姫の背を見送りながら独りごちた。
「呪術師だってこと、言ってなかったんだって」
「それが振られた原因?」
硝子に歌姫の態度が妙だった、と話すと、こんな答えが返ってきた。
「相手は非術師だったんだ。いきなり私はあなたには見えないものが見える、なんて言ったら怖がられるのは当たり前だろ。いつかは言おうと思ってたけど、言いそびれたまんま一年たっちゃったらしい」
パンをもぐもぐと食べながら硝子は言った。
「んだよそれ。どうせいつかはバレることなんだから、最初にとっとと言っとけばよかったのに」
「非術師の人間に、いきなりそれを言って受け入れてもらえるかな。呪いが見える、って」
夏油がコーヒー牛乳を飲みつつ、五条の意見に反論する。
「先輩だってそう思ったから、言えなかったんだろう」
「でも付き合ってんならいつまでも隠し通せる訳ねーじゃん。なら最初に言っちゃった方が良くねえ?」
「そんなこと先輩だってわかってたと思うよ。……でもいつ言えばいいのかタイミングがわからなくて、一年経った記念日に意を決して話したら、「受け入れられない」って言われたんだって」
「ふーん。その男も根性ねえな」
「悟。一般の人にとって「呪い」が存在する、それが見える人間がいる、って私たちの想像以上に拒否反応が出るものだよ」
夏油は諭すように話した。硝子もうんうんと頷く。非術師の家庭で育った二人には、五条が経験していない苦労があった。
「それはわかるけどさ。……結局、その程度の関係だったってことだろ」
食べていたサンドイッチの残りを一気に口に入れる。馬鹿な歌姫。そんな程度の男に本気だったなんて。
「まあ先輩なら、心配しなくてもすぐに次の人見つかるだろうけどね」
「あ?」
「五条は知らないかもしれないけど、先輩モテるんだよ」
「歌姫があ?」
「補助監督の人とか、庵術師いいなあって言ってる人結構いるよ。美人だし、誰にでも礼儀正しいしね」
五条を除いてだけど、と硝子は笑いながら言った。
「悟も自分の気持ちに素直になった方がいいかもしれないねえ」
夏油もにやにやしながらそんなことを言う。なんなんだこいつら。この間から俺が歌姫に気があるのが決定事項みたいな言い方しやがって。
「だから、俺は歌姫のことなんかどうでもいいんだっての」
ズズーっと手に持っていたカフェオレを最後まで飲み干し、五条は二人に対してそう言い切った。
歌姫のことなんかどうでもいい。
半ば自分に言い聞かせるように、五条は心の中でそう繰り返した。
それから数日後のこと。
五条は、医務室前で項垂れて、硝子が歌姫に治療を施しているのを待っていた。
なんでこんなことになったんだろう。
五条は足元を眺めながら、そう自問自答していた。
ことの起こりは、歌姫と五条が同じ任務にアテンドされたことだった。
「なんでよりによってアンタと二人で任務なんだか」
「こっちの台詞ですうー。なんで俺が弱々の歌姫センパイと一緒に組まなきゃなんないんですかあー」
「誰が弱々よ!先輩を敬え!」
「だから敬語使ってるじゃないですかあー」
「そんなの敬語とは言わない!馬鹿にしてるのがダダ漏れよ!」
「被害妄想やめてくださーい」
「あはは。お二人は本当に仲がいいんですねえ」
「「どこが!」」
五条と歌姫は、補助監督の運転する車の後部座席に並んで座っていた。そして当然のごとく、いつものように言い合いになっている。だが同行する補助監督には、単なるじゃれ合いにしか見えなかったらしい。
「補助監督の間でも結構話題になってますよ、五条術師と庵術師は仲が良くて微笑ましいねって。僕はお二人の任務に同行するの初めてですけど、なんか納得しちゃいますねー」
横山というまだ新人の部類に入る補助監督は、バックミラー越しに二人を見ながらにこやかにそう言った。歌姫は心底迷惑そうな顔になる。
「横山さん、やめてください。こいつはもう、心から私のこと馬鹿にしきってるんですから。先輩に対する敬意なんてかけらもない無礼なやつなんです。仲がいいなんてとんでもないです。今度そんな話題になったら思いっきり否定しておいてください」
「えー、そうは見えないけどなあ」
「見えなかろうが、そうなんです!」
五条はシートに深く身を沈め、黙ってそのやり取りを聞いていた。歌姫のやつ、そんなに頭ごなしに否定しなくてもいいだろ。そんなに俺と仲いいと思われるのが嫌なのかよ。俺は別に歌姫とどういう風に思われてたって−−−–
そこまで考えて、五条はぶんぶんと頭を振った。いやいやいや。何考えてんだ。それじゃまるで、歌姫と仲良く思われたいみたいだろうが。
「あ、そういえば庵さん。この間はお土産どうもありがとうございました。あれ、京都の老舗の和菓子屋さんのなんですよね。すごく美味しかったです。いつもお気遣いいただいてすみません」
「あ、いえいえ。こちらこそいつも補助監督の皆さんにはお世話になってるのに、そんなことしかできなくて」
「庵さんのお土産、いつもすごくセンスがよくて評判なんですよー」
「ふふふ。そう言ってもらえてよかったです」
横山と歌姫はそんな風に穏やかに言葉を交わす。そのやり取りを聞いてまた五条は少し面白くない気持ちになる。なんだ「ふふふ」って。妙におしとやかな笑い方して。俺にそんな態度取ったことあったか?そして何故だか、この間硝子が言っていた「先輩モテるんだよ」という言葉が脳裏を掠めた。この横山って補助監督、まさか歌姫に気があるんじゃないだろうな。そこまで考えて、五条は再び頭をぶんぶんと振った。だから、歌姫のことなんかどうだっていいんだっての。隣で何度も頭を振っている五条を見て、歌姫が怪訝な顔をしていた。
「五条、何してんのさっきから。大丈夫?」
「……別に」
「ちゃんと集中しなさいよ、これから任務なんだから」
任務自体は、それほど難しいものではないはずだった。場所は都内の廃ビルで、近々取り壊されてマンションが建てられる予定らしい。「窓」によって呪霊が視認されたので、取り壊しの前に祓ってほしい、とのことだった。呪霊の等級は二級相当。人的被害はこれまでにはないものの、視察の結果かなり強い呪力を察知したため術師は念の為二人必要、とのことだった。
「つっても二級呪霊ね。こんなの軽いもんじゃん」
「ばか、そうやって油断してると命取りになるかもしれないのよ」
「はいはいっと」
横山が降ろした「帳」の中で、五条と歌姫は呪霊の気配を追った。
「どうやら2階ね」
「だな」
もともとは飲食店、美容院などが入るテナントビルだったようだ。狭い階段を上り、2階へと向かう。すると、禍々しい呪力の気配がどんどん色濃くなった。
「ここだな」
五条は薄汚れたドアの前でそう呟く。歌姫もうん、と頷いた。
バンッッッッッ
五条が思いっきりドアを蹴破った。すると、真黒い強大な呪力が部屋の中から噴出する。
「何、これ……ただの呪力よね。本体は奥にいるはず」
「どうやら「あれ」みたいだな」
五条が指差す方を、歌姫も目を凝らして見る。五条の目には難なく見えていても、歌姫には黒い呪力の靄ごしに見るのがやっとだった。
「……気持ち悪い」
呪霊の「本体」を目にした歌姫は思わずそう呟いた。その呪霊は巨大なアメーバのような形をしており、ねばねばと床から天井までべちょ、ぬちょ、とぬめぬめした体を移動させていた。
「ま、確かにキモいけど、どうやら二級でも知力はねーな。歌姫の出番なしだわ」
「え、ちょっと五条何するつも–−–−」
「蒼」
歌姫が尋ね終わるよりも早く、五条の指先から呪力が弾けた。放たれた呪力は呪霊の本体に命中し、禍々しい気配が一気に爆ぜる。と同時にミシミシミシっとビル全体が揺れ、壁と天井、床にも亀裂が入った。歌姫は体が浮いたかと思うとドンっっっ!と思いっきり地面に叩きつけられた。
「痛あ……」
歌姫が自分の体を庇いながら上半身を起こすと、五条は腰に手を当ててケラケラと笑いながら歌姫を見下ろしていた。
「はい、任務完了っと」
「アンタね、もう少し加減ってものを知りなさいよ!」
五条が放った「蒼」は呪霊だけではなく、ビルをほぼ半壊させていた。瓦礫の中で歌姫は五条に向かってきゃんきゃんと叫ぶ。
「別にビル丸ごと壊すことないでしょうが!」
「えー、最初っから取り壊す予定なんだし別にいいじゃん」
「帳が上がった後いきなりこんな惨状じゃ怪しまれるわよ!」
「そこは補助監督に任せとこーぜ。ほら、早く帰ろ」
五条はまだ座り込んでいる歌姫に向かって手を差し出した。歌姫はやれやれとため息をつきつつ、その手に自分の右手を伸ばした。その時だった。
歌姫の背後から、呪力が立ち上る気配がした。五条がはっと目を向けると、さっき払ったはずの呪霊がねばねばとした体を思いっきり広げ、歌姫の背後に迫っていた。
「後ろ!」
五条が叫ぶと、歌姫もはっと背後を振り返る。立ち上がり、懐から護符を取り出すと呪霊に向かって投げようと左手を振り上げた。それは、五条が咄嗟に掌から自らの呪力を放ったのと同時だった。
ぱあん、と五条の呪力が呪霊に命中し、呪霊が爆ぜる音がする。呪霊は今度こそ完全に消滅したが、歌姫は左手を押さえ、うずくまった。
「歌姫!」
五条は歌姫に駆け寄った。歌姫の巫女装束を、彼女の血が汚していた。
五条の放った呪力は歌姫の頬をかすめ、彼女が護符を使おうと振り上げていた掌を貫通してしまっていたのだ。左手からは、とめどなく血が流れている。
まずい。早く医者に診せないと。
「歌姫、立てるか⁉︎」
五条は歌姫の体を抱き抱えた。その瞬間に、ビルを覆っていた「帳」が上がった。待機していた横山が、五条に抱き抱えられている歌姫を見て目を見張る。
「っ庵さん⁉︎一体何が……」
「横山さん、早く高専!硝子のとこ送って!」
五条の悲痛な叫び声が、あたり一体に響いた。