初恋「ねえ、先生の初恋っていつ?」
その日は午後から体術訓練の授業だった。昼食を終えた五条がグラウンドへ向かうと、何やら楽しそうに話していた三人の一年生たちは会話を一旦止め、担任教師の方へとやってきた。そして最初に五条の元へと駆け寄ってきた虎杖悠仁が開口一番にそう尋ねたのだ。
「初恋?」
五条はそう訊き返した。虎杖は目をキラキラさせながら「そう!初恋!」ともう一度言った。その両脇に立っていた伏黒と釘崎は、対照的に冷めた表情で虎杖と五条を交互に見やる。
「初恋ねえ。一体どうしたのいきなり」
「今みんなで恋バナしてたんだけどさ、伏黒は全然口割らねえの!そしたらちょうど先生が来たから、先生にも訊いてみよーと思って」
「なんか初恋なんて可愛らしいエピソードが想像できないわね。既に爛れた話が出てきそうだわ」
「野薔薇は僕をなんだと思ってるの?」
「伏黒!伏黒はなんか聞いたことねーの、先生の初恋エピソード!」
「聞いたことねえし興味もねえ」
三人はまた五条を置いてわーわーと騒ぎ始める。五条の視線はふと、グラウンドの隅に植えてある一本の桜の木に止まった。今の季節は当然花はなく、赤に染まった葉が風に乗ってハラハラと散っていた。
「……初恋、ねえ」
そのときの五条の脳裏には、満開の桜の花と、その花弁の中で聞こえる美しい歌声が浮かんでいた。
「ねえ、僕の初恋っていつだと思う?」
その夜、五条は歌姫の膝の上に頭を預けながらそう訊いてみた。
ここは都内のビジネスホテルの一室。歌姫が東京出張の際によく利用している宿だ。その日はちょうど歌姫が任務で東京に宿泊する日だったので、五条は恋人との時間を過ごすためにわざわざホテルの部屋まで押しかけていた。付き合っていることを秘密にしておきたい歌姫が、高専内の五条の自室を訪れるのを拒否するためだ。
「……初恋?」
歌姫は自分の膝の上にある五条の白髪を撫でていた手を止めて、そう訊き返した。
「そう。僕の初恋」
「なんだってそんなこと訊くのよ」
眉を顰めて歌姫は言った。
「今日さー、学校で悠仁たちに訊かれたんだよね、『先生の初恋っていつ? 』って。ね、いつだと思う?」
「……知らない。興味ないわ」
歌姫は冷たく言い放った。
「えー、なんで」
「なんでもクソもあるか」
「だって言いたいんだもん」
歌姫はため息をついた。本当は今日、五条がホテルに来ることもあまりよく思っていなかった。任務は明日の早朝から。恋人の相手をしている時間があるならば、それより早く眠って明日に備えたい。それがこの年下の恋人は「今日は絶対歌姫のホテル行くから!」「絶対先に寝ないでよ」「僕が着くまで起きてなきゃ怒るから!」とメッセージを連投してきた。それで仕方なく部屋に迎え入れて膝枕をして甘やかしてやっているというのに、なんだってこんなデリカシーのない質問をしてくるのか。
「聞きたかないわよ、私は」
歌姫は体を横にずらして五条の頭を自分の膝から離した。膝枕を強制終了された五条はむくれながら上半身を起こす。
「僕は聞いてほしいのに。冷たくない? 」
「……あのねえ。逆に考えてみなさい。アンタは私の初恋の話聞きたい?」
そう言われた五条はふむ、と指を顎に当てて考えるポーズをする。
「……嫌だね。聞きたくない。もしそんな話されたらその相手の消息突きとめて半殺しにしちゃうかも」
「物騒なこと言うんじゃないわよ。とにかく、いい気持ちはしないでしょ? 私だって同じよ。恋人が最初に好きになった女の話なんか、聞きたくない」
そう言って歌姫はぷい、とそっぽを向いた。その耳は心なしか赤く染まっている。
その言葉を聞いた五条は歌姫とは逆に、にんまりと表情が崩れるのを抑えられなかった。付き合っていることを知られるのは嫌がるし、五条が「会いたい」というメッセージを送っても塩対応なことが多い歌姫だが、こうやって不意に五条に対する愛情を漏らすことがある。その度に五条は愛しさを覚え、この可愛らしい恋人を独占したい気持ちを抑えられなくなる。
この時もそんな感情が溢れ、五条は歌姫を背後から優しく抱きしめた。
「ごめんね歌姫。でも怒らないで」
「うっさい。余計なこと話そうとするからでしょ」
「でも本当に聞いてほしいんだよ。僕の初恋」
五条は歌姫の耳元に口を近づけてそう囁いた。
そして、五条が始めたのは、こんな昔の話だった。
五条悟が、呪術高専に入学した春の話。
その春、五条の心は解放感に満ちていた。面倒で窮屈な家からようやく逃げ出し、晴れて呪術高専での学生生活が始まった。これまで五条家からほぼ出ない生活を送っていたので、高専で触れるもの全てが新鮮だった。同期の二人、夏油と家入とも馬が合いそうだし、担任は強面だが話のわからなそうな人ではない。ここでの生活は悪いものではなさそうだ、と思うと自然と足取りも軽くなり、目に映るもの全てが輝いて見えた。
そんな麗かなある日の昼休み。早々に昼食を終えた五条は授業までの時間つぶしに外を散歩していた。呪術高専は広い。こうやって自由に広い学内を歩き回ることでさえ、やっと手にした自由を象徴しているような気がしてそれだけで気分がよかった。
体術訓練に使うグラウンドに出て、ふと一本の桜の木が満開になっていることに気づき、そこを目指して歩いていった。すぐ側に立って、桜の花が風に舞い上がってはらはらと散る様を見上げた。柄にもなく、美しいと思った。こんな風にわざわざ花を愛でる心の余裕だって、家にいるままだったらきっと持てなかっただろう。
その時だった。
五条の耳に、心地よい女性の歌声が響いてきた。美しい旋律を、まろやかで優しい声が奏でている。五条もよく知る、花の美しさを歌った曲だ。ハッとするほど澄んだ、透き通った声で歌われるそれは、しばらく五条を捉えてその場から動けなくなるような可憐さをたたえていた。
しばらく立ちすくんだ後我に返った五条は、この歌声がどこから聴こえるのかときょろきょろ辺りを見回してみた。しかし、学舎のどこかから聴こえているということ以外、正確な場所はわからない。場所を探すのを諦めた五条は、桜の木の根元に腰を下ろして暫くその歌声に聴き入った。
不思議な歌声だった。ただ美しいだけでなく、癒されるような、包まれているような安心感を伴って耳の奥に響いてくる。心が柔らかくほどけていくような感覚を覚えながら、五条はそっと瞼を閉じ、いつの間にか意識を手放してしまった。
「ああ、こんなところにいた」
「五条 五条ー、そろそろ授業だぞ」
ゆさゆさと身体を揺さぶられる感覚がして、五条は目を覚ました。夏油と家入が五条の顔を覗きこんでいる。
「え……、俺、寝てた 」
五条は慌てて立ち上がった。生まれた時から命を狙われながら生きてきた五条は、こんな屋外で、そしてこんな無防備な姿勢で眠ったことなどないに等しかった。高専の結界内とはいえ、そんなに気が緩んでしまったことが五条は心外だった。
——あの歌のせいか?
さっき聴こえた歌声の、包みこまれるような安心感。あれが眠り込んでしまった原因であると五条は確信していた。この自分が無防備な姿を曝け出してしまったことに対する悔しさを覚えながらも、同時に五条はいつの間にかもうあの歌声が聴こえなくなっていたことにがっかりしていた。
「歌……。お前らも歌、聴いた?」
夏油と家入に尋ねてみたが、
「歌?そんなの聴こえた?」
「いいや。私たちがここに来たときには何も聴こえなかったよ」
そう答えが返ってきた。どうやらあれを聴いたのは五条だけだったらしい。しかし、決して幻聴などではなかった。あの不思議に心地よい、美しい歌声。一体誰のものだったのだろう。
その日から五条の心に、ある欲望が取りついて離れなくなってしまった。
「あの歌声をもう一度聴きたい」という欲望が。