restoring the balance(弁護士と医師)※現パロ 世間における一般的な理解として、事前の内諾があることを前提にした上でも、「プロポーズ」という段取りには何らかのサプライズ性を求められていることは、ライリーも承知していることだった。彼は弁護士という所謂文系専門職の筆頭のような職業に就いていることを差し引いた上でも、それまでの人生で他人から言い寄られることがなく、また、それを特別に求めたり良しとしたりした経験を持たなかったが、そういった個人的な人生経験の乏しさは兎も角、彼はそのあたりの機微にも抜かりのない性質である――つまり、そもそも万事において計画を怠らない性質である。
その上で、彼は彼の婚約者に対して、プロポーズの段取りについても具体的な相談を付けていた。ある程度のサプライズを求められる事柄において、「サプライズ」というからには、サプライズを受ける相手である当の本人に対して内諾を取っておくのは兎も角、段取りについての具体的な相談を持ちかけるということはあまり望ましくないとはいえ、実のところ、彼女がどういったものを好むのかを今一つ理解しきれておらず、自分自身もこういった趣向にしたいという希望を持たないライリーにとってそれは重要な段取りであり、その日も互いに暇とはいえないスケジュールを縫い合わせるようにして、個人経営のレストランの薄暗い店内で待ち合わせ、そこで段取りについてひとつひとつ提案していたかと思うと、途中でふと言葉を止め、「待て、もっとロマンチックにできるぞ……」と計画案を前に独りごちるライリー相手に、クリームパスタをフォークで巻き取っていた彼女は、見るものに知的な印象を与える目尻を緩め、呆れたような気安い笑い方をしてそれを窘めてから、考え事を止めたライリーが彼女の顔をじっと見つめていることに気付くと、自分のした物言いに「ロマンチストな」彼が傷付いたと感じたのか、少し慌てる風に言い繕う。いかにも自然体なその振る舞いに、彼は鼻からふっと息を漏らして自然に零れた微笑みを装いつつ、「君の笑顔に見惚れていた」といういかにもな台詞をさらっと適当に言ってのける。雰囲気を重んじている風に薄暗いレストランの中、シミ一つないクロスを敷かれた手狭なテーブル――デキャンタとグラス、それに二人分の料理皿を置くと手狭になる程のサイズ――の中央に置かれている雰囲気づくりの蝋燭の光に照らされている彼女は今更驚いた風に目を丸くすると、柳眉を下げて控えめに微笑みながら、「またそんなこと……」と言い淀みつつはにかんだ。
ライリーが今、自分の対面に座ってプロポーズの計画を聞いているエミリーと出会ったのは、病院でのことだった。患者の家族らしいヒステリックな三人組に彼女が絡まれているところに通りかかったライリーが、関係者を装って声を掛け、その場から彼女を逃がしたのが切っ掛けだった。どうやらそれが声高に医療ミスを主張する性質の悪い連中(医療によって治癒を期待したのであるからして、その期待が果たされなかったとき、その期待の分だけ医師に向かって感情が裏返ることは、決して理解に苦しむような心の動きではないが、中でもしつこい連中ということだ)だったらしく、連日の訴えによほど参っていたのか、青白い顔に強張っていた表情を少しだけ安堵めいて緩めながらしきりに頭を下げて礼を言う彼女に向かって、「良かったら食事でも」と持ちかけたのはライリーの方からだった。
彼女に向かってつい、その文句を口走るまでの彼にとっての「結婚」というのは、生殖をベースとした財産管理を行うための社会契約の一形態であり、恋愛は、人間の理性を曇らせる精神異常や認知障害の一種だと理解していたのだが、連中に絡まれているエミリー医師の、端正な顔立ちを少し神経質に映る程に強張らせつつ、肩を少し丸めて周囲を見回す怯えたような立ち姿をひと目見たとき、彼はその白い額と、しゅんと下がった柳眉、精神的或いは肉体的な疲弊から半ば瞑る風に降りている瞼から、目を離せなくなっていた――ある特定の人間の容姿から目を離せないということは、これまでの彼の人生に起こったことのない、いわば異常事態だった。最初は手配書に人相が乗っている相手かどうかと疑い、そうでないことを確認すると、かつて裁判所で遭遇した厄介な事例の原告か被告かを疑ったが、その後食事の場で「どこかで会ったことは無いだろうか」と言ったライリーの質問に対する返答によると、彼女に裁判歴はない。つまり、原告になったことも、被告になったこともないということだ。仮にこれから先、例の性質の悪い連中から訴訟を起こされれば、それが人生初の被告の経験になるけれど、と続けて、物憂げにため息を吐く彼女(当初連中から彼女を逃がした見ず知らずの男が弁護士であることを知ったとき、エミリーは弁護士の側から厄介事を察知して、自分を宣伝しに来たのだと考えたらしい)の顔をまじまじと見つめてしまうに値する「適切な理由」を未だに見いだせていないからこそ、彼は自らの異常な行動について、仮に、それこそが好意や愛情というものだろう、ということにしている。
一般的に、好意や愛情を向ける先の相手に取り入り、相手にとって自分を無害かつ有益なものと理解させるには、その対象に気分良くいてもらうことが重要であり、そのためには、まず相手を知る必要がある。ライリーはエミリーが比較的親しくしている同業にもそれとなく接触して自分の好印象を売り込みつつ、その相手からダイアー医師は今のところ特定のパートナーがいるという話を聞かないことや、結婚願望といったものが無い訳ではないものの、マッチングアプリや見合いサービスを活用する程の強い目的意識を持っていないこと。そして、ライリーのことを尋ねられた彼女が、『医師と弁護士は、取り合わせがちょっとくどいわよね』と言いながらも、案外満更でもなさそうに微笑んだという周辺情報を聞き取っていたし、彼自身も「恋をするもの」のように振る舞って見せ、自分自身もそうであると思い込んだ(敵を欺くためには、まずは自らを欺く必要がある。)。何せ、弁護士が将来的な裁判の可能性を見越して自分を売り込みに来たと見られるよりは、一目惚れの上で好意から度々連絡していると理解されたほうが、情報を聞き出すにあたっても都合がいい。
また、実際に、彼女の容姿はライリーにとって、不思議と忘れがたいそれであった。勿論エミリーは、端正な顔立ちをした細身の、所謂魅力的な容姿の女性であったが、ライリーはそもそも他人の容姿にあまり好ましいといった感情を持つことがない性質だったからこそ、自分が他ならぬそこに目を奪われたことは、彼にとって誤算に近い意外性だ。彼女の白い額と青白い表情にはひとつの引力めいた力があり、できる限りそこに近付きたいとライリーに思わせた。そこには「恋」と言われるものにつきものとされる燃え上がるような高揚感や幸福感というものは存在しなかったが、それにしても、恋する者の振る舞いについて、手本となる教材はこの世にごまんとあった。さらにライリーは弁護士という職業柄、反面教師となる存在には事欠かなかった。
約束を取り付け、顔を合わせるたび季節に応じた花束(病院の斜向かいにある雰囲気の良い花屋でバケツ売りされているものだ。ライリーは、エミリーに手渡す手土産のようなそれをコミュニケーションツールとしてしか見做していないため、敢えて店員に相談して、ブーケに使う色や花の種類等を決めたりはせず、その日バケツに入っている安くて見映えのするものを適当に選んでいた)や、ちょっとした茶菓子(エミリーにはこれの方がウケがいいことは彼も感じ取っていたが、多忙な相手に毎回賞味期限のあるものを手渡すのも印象が悪い上、第一コストがかかり過ぎると考えて、それを贈る回数は控えていた。)を手渡し、食事に連れ出したりしている内に、彼女も彼の好意を理解した上で、ライリーが時折接触する彼女の友人、もとい情報源の言う通り、「満更でもない」とは思っているのか、自然と腕を組んで隣り合って歩き、先々のことを話し合うような間柄に収まったところで、彼はひとつずつ賭けに出るようにして、確認を行った――暮方の空が素晴らしい菫色に染まる時分に、彼女の手に手を重ねて、簡単に振り払える程度の力でしばらく待った。雲間から金色に近い月の光が時折差し込む別れ際の時間には、定型文の挨拶を口にしながらそれとなく腕を広げる仕草をして、一拍分待ってみた。
あくまで応じるか否かの最終判断を彼女の意志に委ねるあり様は、エミリーにとって好感を覚えるポイントでもあれば、今ひとつ物足りない(理性的が過ぎるらしい)ポイントでもあるようだという話をライリーは後から情報源経由で耳にしたが、いずれにせよ彼女は、夕暮れにはライリーの手を振りほどかず、別れ際には、ライリー自身がそういったコミュニケーションを求める身振りにあまり慣れていない上、痩せ型のライリーはエミリーと並んでもそこまで上背の差がないことから少し不格好に見えただろうが、そうだとしても、彼女は一歩距離を詰めるように歩み寄ると、社交ダンスに応じるように優雅な仕草で、その腕をライリーの背中に回し、少し逡巡する間を置いてから、珍しく口を噤んでいる彼の口端に、親愛らしいキスを贈られたところで、ライリーの胸の内に、恋愛によくある高揚というものはなかった。そこにあるのは、チェスの予想問題を解いている時にあるものと同じような、淡々とした手応えでしかない。それ以外に強いて何か、感慨らしいものを挙げるとすればそれは、「彼女が厳密に容姿で相手を選ぼうとする相手でなくてよかった」という安心感程度のものだ(もしそうであれば、お世辞にも整った顔立ちをしているわけではなく、その容姿を有名人で例えるのならば、まずコメディアンの顔立ちを参照されるだろうライリーは、端から選外になった可能性が高いからだ。)。
結局「サプライズ」として、いくつかの候補地から選び、彼女の反応を見て決めたクルーズ船の甲板で、クリーニングに出したばかりのスーツに身を包んだライリーがその場に跪いて彼女を見上げた時、日頃の薬品の臭いは流石になりを潜め、いかにも正装らしい身体のラインがはっきり浮かぶターコイズブルーのドレスを身に着けたエミリーは、年相応に着飾ったその姿に反して、子供のように頬を染めながら、少し垂れた眦が重々しい印象を与えるものの形のいい、今日限りは、夜の水面に光る月の色を移し込んだように青みがかったブラウンの瞳で真直ぐにこちらを見詰めて、存外にあどけなく微笑み、前もって筋書きを共有していたのにも拘わらず、何か感じるものがあったのか、シルクのオペラグローブの指先で、自分の潤んだ瞳の眦を軽く拭っていた。
それを目の当たりにしたライリーは、表面上は、この世で一番幸せな瞬間に立ち会うことを許されたという風な気の緩んだ微笑みを口元に、ロマンチックな芝居を続けながら――彼は自分の本心とかけ離れた仕草をすることに慣れていた――彼の内心としては矢張り、極めて醒めたものだったが、それは、「釣った魚に餌をやらない」という言葉で言い表されるようなそれとは違うように思えた。彼にはまだ、目の前で感極まったように返事をする彼女の存在に対して、ともすれば引力めいた、高揚はないものの奇妙に引き付けられる力を感じ続けていたのだが、喜ぶように微笑んでいる表情には、(ライリー自身も意外だと感じる程に)大して魅力を感じなかった。
彼女がそれまでライリーに見せた表情の中で、最もライリーの中で強く印象に残っているのは、出会ったその時の、疲弊し、傷つけられ、自信を失い、俯きがちになった、いかにも不幸そうなそれだった。自分のサディスムの傾向があるとライリーはそれまで知り得なかったが、不幸そうに俯いている表情の方が好ましいと思えるのであれば、それが近しいのだろう。そう考えてみれば、最初からそれらしい兆候はあった。ライリーが彼女を食事に誘い、彼女に物を贈り、彼女の手を取ったのは、それが「友好的な振る舞い方」だからであって、彼自身が彼女の手に触れたり、彼女の喜ぶ顔を見たいといった気持ちはそこには特になかった。彼女から向けられる礼の言葉は、自分が正しく義務を履行し、この存在に接近する権利を得たという保証以上のものをライリーに与えることはなかった。
ただ、この女を放ってはおけないという奇妙な引力めいた力が働いていることをライリーは自覚しており、現代社会において他人の身柄を拘束するに近しい力を持つ契約を取り結ぶには、結婚制度が最も確実だというだけのことだ。また、不幸そうに俯く顔に惹かれるからといって敢えて突き放すようなことも、彼は考えていなかった。今後の生活の為、折を見て自分の性癖について、彼女に打診をする必要があるだろう。そうでなければ今後の訴訟リスクが跳ね上がる。まして彼女は医者だ。社会的な地位が高く、結婚後も仕事を引退する気はないことは予め伝えられている。
互いに多忙な時期を各々やり過ごし、それから殆ど半年後に迎えた式の場でも、花婿の白いタキシードを身に着けたライリーは、今一つ釈然としないながら、しかし特段偽る気持ちはなく、「命ある限りその愛を誓うか」という牧師の問いかけに対して、社会的に求められる程度の感慨らしい間を置きつつ「誓う」と答えた。勿体ぶった仕草で咳払いをする牧師の立つ説教壇の前でライリーと向かい合う花嫁に、たっぷりのギャザーが広がるプリンセスラインのウェディングドレスを着ることを勧めたのは彼だった。ドレス選びの場で、彼女はプランナーの進める高価なドレスを断る理由として自分の年齢を挙げていたが、彼女は年のわりに可愛らしいものを好み甘いものが好きだということを知っていたライリーが、別にいいだろう折角の記念なんだからと声を掛けると、彼女の方が心外だと言いたげにライリーの方をきっと見遣り、「値段だって馬鹿にならないんだから」と、いかにも先々の生活についてを考えている風にこめかみに手をやって瞑目したものの、実際提案されたドレス自体を気に入ってはいるのか、ドレスを見比べる目にははっきりと迷いが現れている。
「君は綺麗だから、何を着ても良く似合うよ」
その上で、この形のドレスは君もあまり手持ちにないだろうし、一度しか着ないんだから、気に入っているならこれを着ておいたらいいんじゃないか、と続けて提案をすると、彼女はその場では歯切れ悪く、「少し、考えてみるわ……」と言ってもう二着比較的安価なプランのものを試着してから、結局そのドレスに決めたのだ。
花嫁のヴェールを頭から被り、ウェディングブーケを両手で祈るように持ちながら、真摯な祈りめいて瞑目したまま俯いていたエミリーが、ライリーに向けられたものと同じ牧師の質問に応じて、「……誓います」と口にした時にも、やはり、ライリーの胸に特段感慨めいたものが湧いてくることはなかったが、ライリーはそれに特別違和感を覚えるようなことはなかった。何せ彼は今に始まったことではなく、元より人々が「愛」の為にするあらゆることを嘲笑していたからだ。その気持ちは今も変わりなく、彼女を喜ばせる為に行動しているとき、自分が道化師になったような心地になることもあったが、それでも彼は、エミリーに近寄る為のこの芝居を投げ出そうという気にはならなかった。奇妙な話だが、これこそが、自分の持つ「愛情」というものかもしれない。彼が自分の内側にある、エミリーに向かう奇妙な引力についてそのように理解することにした時に、それは訪れた。
天啓であった。
夢に現れた亜麻色の髪を揺らす女性の後ろ姿を目の当たりにしたとき、彼は全てを理解した。自分がかつて愛情を持ち、それを捧げていたこと。計画の果てに手に入れた彼の美しい暮らしが、殺人者の手によって無残にも中断されたこと。復讐を求めた先に現れた「情報提供者」からの招待を受けて、かつてあの荘園の門を潜ったこと。試合。エミリー・ダイアー。結論として彼は、望んだ復讐を果たすことが出来なかったということ。
彼女は花の好きな女性だった。風のそよぐ草原に立っている彼女は、白い日傘をさし、鍔の広い帽子を被り、簡素な形の白いドレスを着て、膨らんだ腹を抱えるようにして、そこに立っていた。地平の果てまでどこまでもなだらかに続く草原地に立っているライリーは、抱えていたカスミソウの花束を手に彼女の方へ一歩歩きだそうとするが、彼の脚は柔らかな沼地に嵌り込んでいて、体重を移動させようと試みるたび、身体がそのぬかるみの中にずぶずぶと沈んでいく。
彼女は花の良く似合う女性だった。花束を誰よりも喜んでくれた。これまで社交の道具でしかなかった花束を、幸福の象徴のように抱えて微笑む彼女を見た時に、ライリーの心臓に血が巡ったような暖かさが刺した。その時、彼は初めて愛を知り、心に暖かな血が通ったのだ。彼女の瞬き一つで、胸の奥にあるそれが跳ねまわった。彼は恋を知り、愛を知っていた。そこではあらゆる原則もどんなプライドも、全く意味を成さなかった。草地の中に隠れていた底なし沼に身体を引きずり込まれながら、ライリーは遠くに立っている白い服の彼女を一心に見つめていた。太陽が眩く煌めき目の前が白く眩んで、その顔が良く見えない。その名前を思い出せない。かつて心臓に通っていた血は冷え切り、心は鉄のように固くなった。
目を覚ますとそこはホテルの一室で、清潔なベッドの上にバスローブを羽織った格好のまま、自分が俯せにばったりと倒れていることに気が付いた。手元に転がっている眼鏡を拾い上げて掛けると、手を伸ばせば触れられる程の距離の先に、同じベッドの上に似たような格好で仰向けに寝そべっている女が居り、彼女も丁度今しがた目が覚めたのか、ぼんやりとした寝起きの顔でこちらを見遣ってきている。式自体の行程や披露宴の行程を成し遂げ、諸々の撮影とあいさつ回りを済ませ、日の沈んだ頃から鎧のような重みをもった礼服をようやく脱いだところで、二人してばったりと倒れたのだろう。彼らはその他多くのパワーカップルの例に漏れず、年若い訳ではない。ライリーは不惑があと数年のところに見えており、エミリーも一般的な適齢期よりも数年遅れている程で、故に後のことを早く進めるべきだと口にする者もいれば、かえって年齢のつり合いが取れていて好ましいと好き勝手に評する者も居たが、家族計画があって彼女に話を持ち掛けた訳ではないライリーにとってそれはどうでもいいことであったし、エミリーも今のところ、彼が見る限り、それについて何か思うところがある風にも見えなかったが、それらのことは最早、全てを思い出したライリーには、全く取るに足らない些事でしかなかった。
彼女を奪われた後の暮らしも、いくら繰り返しても終わらない試合も、その先に、自分が何であるかも理解できなくなる程認知機能に問題をきたしたか、或いは、肉体的な損壊がある閾値を超えたのか、何であれ誓った復讐を果たすこともできず、ゴミのように潰えたかつての人生も、始まりがあって終わりのある筈の聖書に説かれていた世界とはまるで異なる、この人生――「それ」が何であるかを理解しないままぼんやりと生きて来たこれまでの人生も、何もかもが全て、このために――長らく傾いだままになっていた天秤を吊り合わせる為にあったのだろう、と、今のライリーは、はっきりと理解していた。
長い道のりの果てにここに至ると、最早そこに怒りは無かった。大騒ぎをして何晩も費やした大仕事が、呆気なく書類の一枚で終わる時に感じる安堵に近しい徒労感が、ライリーの冷たい心臓の周りを、生ぬるい油の膜のように包んでいた。
呆けたような顔をしたまま何も言わないライリーに焦れたのか、二人してベッドに寝そべったところから黙り込んでいたエミリーはおずおずと「おはよう……」と切り出し、少し困ったように微笑んで見せ(気後れするような表情の作り方をするのはその女の癖だ。後ろめたいことがあるのか、職業柄自分ごとに対して気後れする傾向があるのか。)ながら、フレディの名前を呼んだ。彼女はこれまで彼を「ライリーさん」と姓で呼んでいたが、昨日付けで彼女もその姓を名乗ることとなったからだ。
「今起きたのよ、私も……」
寝起きの顔なんて見られてしまって恥ずかしいと続けながらはにかみ、自分の頬に手をやってから今度は本当にぎょっとしたのか目を丸くした後、化粧も落とさないで倒れたんだわ! きっと見れた顔をしていないと、両手で顔をすっかり覆ったエミリーの手首をライリーは握り、抵抗する彼女の手をその顔から放させると、露わになった丸みのある頬に、伸ばした手で触れる。それから、彼が億劫そうに身体を起こすと、つられて起き出そうとする彼女を手で制止し、手の甲で彼女の頬をそっと撫でたとき、驚くことに、ライリーは笑っていた。
彼女の顔も名前も奪われたのは、約束をここまで果たすことが出来なかった自分への罰だと彼は理解していた。だが、それも、今日までのことだ。俺は愛までを見失うことはなかった。ライリーに制止され、ベッドに寝そべったまま傍らに座った自分の夫を見上げるエミリーを、彼はようやく、心から笑いながら見下ろす。
「ああ、やっと……」
成功した、と、それに続いた独り言を、次の瞬間には、男の両手で細い喉を握りつぶすように締め上げられたエミリーが、聞き届けたかはわからない。