淑女の夜(泥庭) 少し前のことだ。羅刹緋春――例の、異国風の派手な赤いワンピース――を着ていた試合中に頭を強く打ったせいで、ただでさえ緩い頭のネジが弾けとんだのか、それまでの記憶のすべてが飛んだエマ・ウッズを捕まえて「自分たちは恋人同士」だと騙すことに成功したので、彼女はもうクリーチャーを拒むことはない。何なら少し構ってやらないで放ったらかしていると、どこで覚えたのかピッキングなんかしてドアの鍵を開けた挙げ句、クリーチャーの部屋に勝手に上がり込んで、帰りを待ち構えていたりする(最初はさすがの俺様もぎょっとしたが、しばらく続くと慣れた)。
とはいえ、そうやって部屋の鍵を勝手に開けて、中で「待ち構えている」といっても、まあ可愛いもので、物々しい面持ちをしているわけでもなく、彼女は部屋の中で勝手に掃除をしていたり、そこらに放っておいたクリーチャーのシャツを繕ったり、繕うようなシャツがない時には、自分で持ち込んだ布に、何かを熱心に縫い付けたりなんかしていて、それで、クリーチャーが戻ってきたのを見ると「おかえりなさい!」と言って、花の開くように笑うので、クリーチャーは「留守の部屋の鍵をピッキングで開けて上がり込むんじゃない」「一体何のために鍵をかけていると思っているんだ」「だいたい、ピッキングなんかどこで覚えたんだ!?」というようなまっとうな苦情をずっと言い損なっている。
それで、女ににこっと微笑まれてしまって、何を言うべきか忘れたクリーチャーが暫くぼーっとしてから、こうやって部屋に勝手に上がり込んでいるのだから、何か用事があるのだろうと思い立って、わざわざ用向きを聞いてやっても、彼女は「今日は先生とこういうお話をしたの」だの「庭でお花が咲いたの」だのとしょうもないことばかりをぺらぺら喋るので、まあ、これは誘いに来たんだろうな、と、クリーチャーは考えて、女のぺらぺら喋ることを適当に聞き流しながら彼女をベッドに寝かせて、シャツのボタンを外してやっているところで、少し頭の鈍いところのある彼女も流石に気付くようで、それまであけすけにペラペラ喋っていたところからふと口籠ると、(端からそのつもりがあって上がり込んでいるくせに)恥ずかしげな小声で「するの……?」と続けながら、膝を擦り合わせる。その仕草は、なかなか悪くないので、もじもじと擦り寄せられる膝を掴んで開かせながら、クリーチャーが膝頭で股の間をぐりぐり擦ってやると、彼女は腰を引くどころか、「んっ」「あっ」と、息を詰めて控えめに喘ぎながら、膝頭に股を押し付けて来る。
ある日、クリーチャーが遊興室にあるバーカウンターで酒を引っ掛けてから部屋に戻ると、また鍵が開いていて、ああウッズさんが来ているのかと思って、扉を開けてみても人影がない。あいつ部屋開けっ放しにして帰りやがったかと腹立たしく思っていると、彼女はクリーチャーのベッドの端の方に潜り込んで、すーすーと随分健やかな寝息を立てていた。
普段の仕事着――ところどころにツギを宛がった緑のエプロンと、シャツに細身のジーンズ――を着たままだから、まあ、寝るつもりはなかったんだろう。寝るつもりなくベッドに潜り込んだ時には手に持っていたのか、少し擦り切れた麦わら帽子が、ベッドからだらんと垂れている彼女の手元から床に落ちている。クリーチャーはそれを拾って、一旦ベッドの上に投げておきながら、空いている手で彼女の頬を抓ってみると、彼女は顔をうっすら顰めながら目を覚まして、「あ、ピアソンさん……」と眠たげに言うので、別に、眠っている女を起こして相手をさせる程、今のクリーチャーは相手に飢えているわけでもないし、そもそもペニスを使う気分ではなかったので、「お、おお、起きなくて、い、いいぞ」と言ってやりながら、起き上がろうとする女の顔を手の平で押してベッドに戻して、「ま、まだ、ね、寝てな」と嘯いたところで、そういえば、そもそもこいつ、何でクリーチャーのベッドを勝手に使っているのか? 自分の部屋に戻ればいいじゃないか、というぐらいの、文句を言い忘れていることを思い出す。ただ寝るだけで男のベッドを使う奴がいるか。誘っているのか? まあ、誘っているんだろうが。
男の骨ばった手の平で、力任せに、というには多少の手加減はあるものの、多少乱暴な手つきでぐいとベッドに押し戻されて、うーんと眠たげに唸っている彼女の、縛ったまま仰向けに寝るものだから、今はぐちゃぐちゃになっている髪留めを解き、付けたままのエプロンを外してやって、そのままここで、朝までぐっすり眠る気なら、衣服を緩めておいてやるのが良いだろうし、取っておいたほうがいいかと、ジーンズの留め金を外してやりながら、ピアソンは若干辟易していた。
無論、彼は求められるのが好きな性質であったし、特段の工夫もなく適当に撫でているだけで、簡単に喜んでしがみついてくる、至極単純な彼女の肌の滑らかさと、暖かな体温を好んでいた。そもそも、それを好きなようにいじくり回したいのもあって、記憶が飛んだエマを相手に「クリーチャーがあんたの恋人だ」という嘘(もとい希望的な観測)を言って、彼女を騙したのだ。
とはいえ、こうも夜な夜な、顔を合わせる度にべたべたとされて、何かと求められるのは、正直、きついところがある。今もクリーチャーが寝てろと言ってやったのに、あいつは誘うように気怠く目を細めたまま、寝ぼけ眼でクリーチャーを見上げながら、「したいの?」と、眠たげというには甘ったるい声で言いながら、シャツのボタンをもたもたと外し始めている。
「…………いや、お前、き、きょっ、今日は、いい、いいよ……」
ピアソンは、自分の考える「男らしさ」――女から求められれば、当然それに応じるようなその態度――と、既に酒を飲んでいる上、連日求められていると流石に食傷する、という現実問題を天秤に掛け、眉間に気難し気な皺を寄せながら、複雑そうな面持ちで断ると、その「男らしくなさ」に、きっと呆気にとられたような態度をしているに違いない彼女から目をそらしながら、その顔を見ないために、中途半端に脱がしていた手を止めると、ベッドに仰向けになっている彼女の上にどさっと覆いかぶさり、両腕で彼女の頭を抱き込んだまま、寝返りを打つように彼女の隣で横になる。
「ウ、ウウ、ウッズさんもさあ、たまには、しゅっ、淑女らしく、しし、してくれよ……」
「し、淑女はな、夜には、ち、ちゃんと、寝るもんだ」と、歯切れの悪い調子でぶつぶつと続けるピアソンの痩せた胸板に顔を押し付けられながら、エマはキョトンとはしていたものの、彼の想像するような、「男らしくなさ」への呆れや失望というものは、そこにはなかった。寝ていろというピアソンの言葉に、彼女はうんと返事をしようとしたものの、頭を強く抱き込まれているせいで、硬く薄い胸板に顔を押し付けられて、「んん」に近い音になる。
彼女は(それをピアソンにはっきりと伝えたことはないが、)ピアソンが思っているように、毎度彼の肩に凭れ掛かりながら性行為を期待しているわけではなく、そもそも、特段性行為が好きという訳でもなかった。ただ、「恋人」がそれを求めるのなら、恋人としてきちんと応えるべきだという義務に近い感覚があるだけで、彼女は、恋人にもたれ掛かったり、その身体を抱きしめたりして、それにただ、ぎゅっと抱きしめて返してほしいだけだ。だって恋人なのだから。それで、恋人がセックスをしたいというのならそれでもいいし、そうやって服を取り払って肌と肌を合わせているのは、この上なくぎゅっとしているし、されているような心地で、悪くはないけれど、普段下着で隠している恥ずかしいところを触られながら、ひっきりなしにぐちゅぐちゅとお腹を掻き回されるのは落ち着かないし、それに、彼はそうやってひどく興奮すると、時々すごく乱暴な振る舞いをするので、それが少し怖い。
けれど、今は呆れたようにため息を吐きながらエマの頭を撫でてくる手は、力こそ強いけれど、怖くはない。頭をがっしりと抱き込まれているエマは、若干の息苦しさからもぞもぞと身動ぎをして彼の腕から逃れ、ぷは、と息を吐き出すと、その頃にはもうさっさと寝ることにしたのか、それとも、エマから追及を受けないために寝たふりをしているのか、とにかく瞼をしっかりと瞑っているピアソンを見上げ、円らな緑の目を明るいほどに輝かせながら、閉じたままの口元を緩め満足気に微笑む。そして、彼の鎖骨の辺りに頬を摺り寄せながら手を伸ばして、早くも鼾をかいているピアソンの痩せた背中に、腕を回して抱き着いた。