愛は不滅(荘園脱出後のミルエダ) 荘園はエダ・メスマー――自らを心理学者と称し、少なくとも、事実医者であり学者でもある父からの薫陶と、研究室での多少の実務経験、共著論文、及び(その後入院患者の脱走を手引した挙げ句、行方を眩ませたとしても)ホワイトサンド精神病院での実習経験を持つ彼女――に「最適な治療法」へのヒントや何らかのアイデアを与えることのないまま、「荘園主からの通知」という形で、呆気なくその門を閉じた。
しかし、望みのあてが外れたからと言って、呆然と膝をついている訳にはいかない。彼女には守るべき愛する人、そして、彼女の実験と治療を待つ従順な患者がいるのだ。エダは、忘れもしないあの病院で彼が差し出してくれた針金の指輪を通した手で、突然の荘園解体の報に接して困惑し通している招待客(サバイバー)らの中でも飛び抜けて平常通り、常に微笑んでいるように落ち着いている様子の患者の手を取り、反対の片手にスーツケースを持ちながら、豊かな髪を風に靡かせ、颯爽と荘園をあとにした。
その時点の彼女にはまだ、確信と、そして、漠然とした楽観的観測があった。荘園でサバイバーを駒に繰り返されていた「試合の再現」の中で、笛の音をトリガーにした催眠療法は効果を発揮していた。つまり、この治療方法は正しい。そして私が、この私こそが、エミールを救う唯一の手立てを持った存在だという確信があった。
深い愛情に裏打ちされた確信に凛と顔を上げるエダに握られた手を握り返しながら、エミールは普段通り、彼を所有する絶対的な存在によって、手ずから先導される安心感に身を委ね、穏やかに微笑んでいた。
結論から言うと、彼女の「実験」は失敗に終わった。
試合の中ではあれ程一定して効力を示した催眠療法は、二人が荘園を訪れるよりも前の時点と同じように、エミールの進行する病状の前には最早、効力らしいものを示さなかった。
与える刺激を強くすれば、多少の覚醒時間を稼ぐことはできる。しかしそこには、これまでの実験結果とは異なる何らかの有意を見出すほどの、期待できるような効き目はなかった。
出会ったときと同じように、不思議と穏やかに微笑む形に目元を引き攣らせたまま、エミールは目を覚ますことがなくなった。
彼の頭部に取り付けられその頭蓋を穿ち、その奥に直接電流を流す刺激にも、エミールは最早、なんの反応も示さなくなっていた。そうやってここ一ヶ月の間は、さながら己の肉の殻の中に閉じ籠もるように目を瞑っていた彼は、今や息さえ止めていた。
かくして眼前に現れた結果を前に、心理学者であると自ら名乗り、その名乗りに己の才能への自負とプライドを持つエダは、考え続けた。
これまでの実験記録上、催眠療法は一定の効果を上げていた、筈だったのだ。彼は理想的な実験体だった。一体、何を間違えたのか? 何が違ったのか。
患者が眠るベッド――限られた予算と、「自称学者とその患者」という異様な取り合わせ。そして、時に痛みを伴う実験に対する奇異の眼差しから、二人がようやく間借りできたのは、町外れのあばら家だったのだが――の横に座り込み、春を控えて微かに湿り気を帯びながらも未だに冷たい隙間風を、泣き濡れてそれを擦るあまり(涙で暈けて記録が見えない!)ひりついた頬に受けながら、エダは、考え続けていた。
何がいけなかったのか。どこを間違えたのか。この治療法は正しい。けれど、エミールを救えなかった。彼を救えるのは唯一、私だけだった。私だけが愛する彼を救える筈だった。愛情! そして正しさ。正しく最適な、最新の治療法。それらは、死を凌駕するものでなければならない。(それなのにどうして、この人は息をしていないの?)
***
春になると街外れの未舗装の道にキンポウゲが芽吹き、そこを裸足で彷徨いては“薬草”を採取していくエダは、街でもちょっとした有名人になっていた。
ただでさえ無駄な社交を嫌っていた彼女が心理学者を自称していたことを知るものは街に誰もいないが、彼女が男と二人連れでこの街にやってきたことを覚えている者はいくらかおり、小さな街の中で彼女は、「恋人に先立たれて狂った女」ということになっており、そのロマンチックな境遇は、特に街の女の間でいくらかの同情を引いた。
また、身なりをまるで気にかけてもいない彼女が、手入れもされずぼさぼさの髪を伸ばしっぱなしにし、ベージュとも灰色とも付かない色に薄汚れた、厚ぼったいワンピース(それが実験に従事する彼女が、利便性のために普段着にしていた手術衣であることを、ここでは誰も知らない)からは、顔を背けたくなるような悪臭を放っているにせよ、彼女が若く、持ち前の才気とさらに狂気に磨かれ、いっそう冴え渡る程の美しさを持つことに気づいた街の男のうちの何人かは、彼女に対して、いくらかの、関心めいた同情を寄せていた。
こうして、“彼女”が裸足のまま街の市場まで歩いてきたときには、余程のものでなければ、望むものをタダでくれてやるという風潮が出来上がっていた程度に、その小さな街で存在をお目溢されたエダは、最早誰も賃料を取り立てない例のあばら家で、街のものから言わせれば、ままごとを――彼女の立場からすると、正真正銘の実験を――尚も続けている。
それは、今はひどく無口で、体温さえも失った愛する実験体に、不滅の愛を持つ魂の反応を呼び戻すという、壮大な実験である。