Chase for L(弁護士と医師) リディア・ジョーンズを探している、という話をすると「そんなことは警察に任せておけば良いだろう」と返されることがある。目の前の愚鈍は、怪訝に眉を傾けながら首を傾いでいる。時にそれは、他人の事情に首を突っ込みたくて仕方がないという、いかにも下世話な態度を隠しきれていない角度に上がった口角を、それとなく手で隠しながら、「それとも、なにか折り行った事情でも?」などと続けることもある。
そのようなとき、どのように振る舞うべきかをライリーはよく心得ており、彼はさも心を痛めているように歯の出た口元を結びながら「まさか! むしろ、“先生”にはお世話になったんです」と返すのだ。
「彼女は今、色々と大変な身の上でしょう……恩人に恩返しをしたいんですよ」
だから警察よりも早く、内密にお話がしたいのだというと、さも感心したように目を丸くする愚鈍な面や、つまらなさそうに鼻を鳴らすこれもまた愚鈍な面を拝むことになるが、どれもこれもどうでもいいことだ。簡単な挨拶の後別れた質問者の面が見えなくなると、ライリーは誠実を取り繕っていた表情をみるみるうちに、そしてあからさまな程不機嫌に歪ませる。
不愉快な気分から顔を顰めてはいるが、「リディア・ジョーンズを警察よりも先に見つけ出したい」、というのは、ライリーの本心だった。現在指名手配を食らっているあの女は、刑事事件として告訴されればいずれにせよ、重罪にはなるだろう。しかし、そうなると、裁判において彼女は、マーシャは、あの女が殺した俺の幸福は、「1」という、あまりにも軽い数字でしかない。それは許し難い冒涜だった。
自己弁護などさせるものか。あの女に汲まれるべき事情など、何一つ存在しない。あの人殺しは、生まれてきたことを心底悔いながら死ぬべきだ。
故に、ライリーは“彼女”の意識が戻る瞬間を待っていた。
西暦201X年、どういうわけか、自分に与えられたものではない名前の人生ーー仏教徒(ブッディスト)の宗教用語で言うところの“前世”ーーの記憶を持ったままこの世紀に物心付いた彼の人生は、始まる前から終わっていた。
彼は決して熱心というほどではないが、人並みのーー19世紀末のロンドンにおいて一般的とされる程度のーーキリスト教徒であり、人生は線路の上を一度通過するき、りの一過性の事象である筈だった。しかし、これでは、死後に見えるという希望も叶わない。
(これが"俺の"地獄か)
ライリーは試合の場で惨たらしい死を迎えようと五体満足に生き返ってしまう荘園で噛み締めた遣る瀬無い怒り、というには若干乾いてしまったそれを、荘園に囚われていた頃よりも心なしか若い体で日々噛み締めた。
ひょんなことから「再会」したその女は、ライリーよりもずっと死に近いところに横たわっていた。
その女が自分と同じように記憶を持っているのか否かはわからないが、その女は未だに医師を続けていた。そして、階段で足を滑らせた患者を庇い、自分が頭を強く打ち付けて、それから数年の間、昏睡状態に陥っているらしい。
病床に揃えられている筋肉の瘦せ衰えた手足は、人間のものというよりむしろ作られた人形のそれのようで、この身体が眠りについてからどれほどの時間が経ったのかを明らかにしているようだった。
その女の所在を偶然知り、『高校時代の卒業生を集めて久しぶりに同窓会を開くんだが、彼女と連絡が取れない』などと、もっともらしい顔で嘘を吐いてその病院を訪れ、昏睡状態の女が置かれた病室の存在を知ったライリーは、それ以来、月に二回はその病室に通っている。
毎回、病院と道路を挟んで向かいにある花屋に寄り、適当な花束を買って持ってくるのは、手ぶらで病室に来るのは悪目立ちをするからだ。
念願の医師の夢を叶えた娘がいつ目覚めても問題の無いよう、老後の資金を切り崩して“維持費”を出し続けるその両親の話もライリーは知っていたし、定期的に花を持って見舞いに来るようになった自分が、病棟をうろつく看護師からどのように見られているのかも知っている――というのも、その階の受付で面会名簿に記入するたび、名簿を出してくる看護師はきまって緩く微笑み、「熱心ですね」という回りくどいものの言い方をするからだ。
リディア・ジョーンズの個室に入ると、ライリーは荷物でしかない花束を病床横の棚に置き、棚とベッドの間に立て掛けてあった面会者用の折りたたみ式パイプ椅子を引き摺り出し、開き、座り、黙り込む。
病室には昏睡状態の患者の他にはまるで誰もいないように、心電計の刻む規則的な音だけが繰り返されている。パイプ椅子に座るライリーは、惰性で肩を丸めながら背もたれに深く腰掛け、やり場のない腕を取り敢えず組んでみる。土曜午前の日差しが窓から入ってくる病室はあくまでも白く、長らく病床に差し込む窓越しの光のみを浴びて眠る女の顔は、青白く痩せていた。
この女が、覚えているのかそうではないのかだけを確認して殺そうと、ライリーは思っていた。そこに意味がないことも、彼は十分知っていた。彼女を手に掛けて、あまつさえのうのうと逃げ延び生きているこの女の息の根を止め、彼女を失ったくそったれの人生を終えることだけが、ライリーの望みだった。彼の幸福は、遥か遠い昔に過ぎ去ったあの一瞬だった。それは最早、決して訪れることのない日である。
ライリーは諦めたわけではない。わけではないが、この女を殺したところで、彼女と同じ地獄に落ちることが出来るのかを逡巡し、そうしたところで、彼女の痕跡がこの世に一つも存在しない世界で、再び息を吹き返すのだとすれば、それは、最早、何を、どうするべきなのか。
ライリーにわかることは何もなかった。彼にわかることは人間社会を支配する法律であって、この世界を支配する「法則」といった衒学的なコンセプトは、全く彼の趣味ではなかった。今もそうだ。彼はこの社会を支配する法律という仕組みを熟知することを好んでいる。それを武器に他人を捌くことを愛してすらいる。
愛を知る前であれば、彼はいずれの地獄、いずれの時代に堕とされたところで、上手くやっていくことが出来ただろう。法律の運用は社会の要だ。社会の運用に重要とされた学問を修め、それを実用できるものは、いずれの世においても相対的に高い社会的地位を占めている。
しかし、その愛の記憶を知ったまま、その痕跡を一つも残さない世界で息をすることを、ライリーは上手くイメージすることが出来なかった。彼女を切り刻んだメスですら、今となっては、彼女の存在を証明する一つのピースですらあるように思えた。
だから、この女が目を覚ました時に、覚えているか、覚えていないのかを聞くことにしている。答えがどうあれ、この女を殺すことに変わりはない。
ライリーは不愉快に巡る考えを前に知らず知らず詰めていた息を吐くと、組んでいた腕を解いて嵌めている腕時計を見る。入室から15分間が過ぎていた。