患者(ミルエダ+オフェンス) 荘園においてエミールに与えられた肩書き(ロール)は「患者」であるので、試合の場で彼が、およそ患者らしからぬ立体的な動き――鉤爪を使った逃走――を見せようと、多くのサバイバーは彼を「患者」と認識して疑わなかったし、彼が何故患者になったのかの来歴に興味を持つような奇特な者もいなかった。
彼は常に、例の女の「心理学者」に連れられ、彼女よりも背の高い身体の肩を丸めながら女の影に隠れるようにしているが、試合の場での動きには申し分なかった。肉体に問題がないという事であれば、彼の病は精神か頭に関するものなのだろうと、消去法で推測することはサバイバーらにとってそう難しいことでもない。
それ以前に、試合の場での活躍を見ずとも、日頃エミールが身に付けているのは、時に攻撃的な態度を見せる精神病者のための薄汚れた拘束衣だった (「心理学者」による治療は一定の成果を上げているようで、患者がそのような攻撃的な態度を荘園で見せたことはなかったが)し、汚れた包帯を巻き付けたボサボサ頭に拘束衣、しかも裸足という、少なくともあまり身なりに気を払っている風には見えない彼の容貌、特にその下瞼は、およそ「通常の人間」らしからぬ引き攣り方をしていたから、患者を一目見た時点で、彼の抱える「病気」が、精神か或いは脳機能に起因するものと検討を付けることもできない話ではない――つまり、エミールは一見して「患者らしい」容貌と身なりをしているということだ。しかも、彼の治療を行っているという「心理学者」に聞けば、その辺りの事情は特段の隠し立てもなく開示される。
兎に角、エミールがその頭脳か精神かに何らかの「問題」ないし「障害」を抱えているということはサバイバーらにとっては知れたことで、それは特段、特別なことでもなかった。「精神を病んでいる」ということは、サバイバーの多くが属している19世紀末の西欧社会でなら兎も角、そこから隔離され、今や荘園の中に閉じ込められているサバイバーの面子には、そう珍しいことでもない。
故に、患者エミールは、サバイバーの中で妙な目立ち方をするでもなく、「いつも例の「心理学者」に連れられている患者の男」、という程度の見られ方をしていた。
荘園に閉じ込められたサバイバーの一人、オフェンスことウィリアム・ウェッブ・エリスはいたって陽気な性質であり、彼自身がスポーツ選手としての経歴を持つことから、チーム戦におけるチームメイトとの結束の重要性をよくよく理解している。
その朝、時間を問わず夜のはじめのように薄暗い試合前待機(マッチング待機)での待ち時間は、刻一刻と伸びていた。ハンターの側の調整に不具合が起きているのかもしれない。今朝の試合の面子として掲示されていた一等航海士は、まあどこかで酔い潰れているのだろう。もう一人、ここに姿を表していない顔ぶれの踊り子は、化粧に時間が掛かっているか、衣装選びに時間が掛かっているか、アクセサリーの選択に時間が掛かっているか、或いは、他人に試合の代理出席を頼むのを忘れて、すっかり寝こけているか。兎に角、彼は長机の置かれた試合前待機室で待たされており、彼の横で所在なさげに肩を丸めながら座っているのは、例の薄汚れた拘束衣を身に着けた患者であった。
時間を持て余しながら、その状況でウィリアムが思ったことはこうだ。俺はこれまでこの男とはあまり話したことはないが、これを機に親交を深めておいてもいいだろう。即席とはいえ、チームメイトだ。チームメイトとは関係を築き、信頼し合い、結束しておくに越したことはない。
ウィリアムの予想に反して、声をかけられたエミールはいたって自然な受け答えをした。挨拶をすれば鳥の巣めいてぼさぼさとした頭を揺らしながら挨拶を返し、質問をすれば拙いながらも、的をそこまで外さない答えが返ってくる。
「きみは患者だっていうからさ、もっと話が通じないと思っていた」
ウィリアムは清潔感を感じさせる程度に短く刈り込まれ、整えられた髭の生えた自らの顎を擦りながら、そう言って人好きのするように清々しくカラッと笑う。エミールはそれを、普段通り平常ではない目元――下瞼の引き攣りはあるものの、別段気を悪くした風もなく聞いている。試合が開始になるような気配は、一向にない。
「まあ、早く良くなると良いな」
ウィリアムは社交辞令程度の言葉としてそう言ったし、現に、それは彼の本心でもあった。そこからさらに続けた「試合に勝ったら、荘園主が特効薬を出してくれるかもしれないし」というのは、病に苦しんでいるやもしれない患者相手には若干軽率な軽口だったかもしれないが、荘園主が招待状の中で提示した条件というのは、得てしてそういうことだ。金が本当の望みであれば望むままに金で報いられ、物の奪還が目的であればその物で報いられる。ウィリアムが望んだものは、ゲームの創始者としての「正当な評価」とそのための援助だった。
しかし、エミールはそれに「ううん」と首を振って、だらしなくうねり、乱れている癖毛の黒髪を揺らしつつ否定する。
「俺はそれ、いらない」
「……は?」
引き攣った普段の病者の顔のまま、微笑むような面で治癒を否定したエミールの言葉は、ウィリアムの理解を越えていた。え? どういうことだ。俺の聞き間違いか? だって病気なんだから、当然、治った方がいいもんだろ? ウィリアムが改めてそのようなことを聞いてみると、エミールは拙い故に和やかに響く声で、「俺は、エダがいればいいから、」と改めて答えた。
「エダは、俺の治療を完成させるためにここに来たんだ。エダは、ここで俺がじぶんを取り戻せるって言ってた。俺は、エダがいればいいから、しょうひんとかは、いらない……俺を治してくれるのは、彼女だけだから」
「……あ、ああ、そうか……」
予想外の回答に驚くままに目を丸くしていたウィリアムは、ぎょっと驚いたところからすぐには戻ってこれず、半ば茫然としながらも、首を竦めて軽く了承した。俺からしたら、怪我なんて手段は何でもいいから直してほしいもんだが、彼にとってはそうではないらしい。
「……ま、兎に角、早いこと治ると良いな。俺はそう思うよ」
そもそも身の回りに大病を患った者がいるかいないかといえば、ウィリアムの周りにはそうそういなかったが、治療の「され方」に拘りがある患者というのはあまり聞いたことのある話ではないし、それは一般的な患者の――病に苦しめられている者の――態度ではないと、ウィリアムは思う。
しかし、前述の通り病気とは縁の無い暮らしをしてきた彼に、病気や治療にあたって一家言あるという訳もなく、さらに言えばエミールに対して、「即席のチームメイト」以上の関心を持っているわけでもないウィリアムは、それ以上その会話を続けようとは思わなかった。
とはいえ、そうやって適当に会話を打ち切ったところで、試合待機室に近づいてくる人影の気配もなければ、試合開始の(或いはそもそも今回の試合の再現がキャンセルされるような)予兆もない。これは相当待機時間が掛かっているな、と思いながら、ウィリアムは次なる暇潰しに、ラグビーボールを指先の上で回転させ始めた。