鄉誼(白黒無常と骨董商) 自らの身分を骨董商と偽った――実のところ、それは偽りと言うほどの全き嘘というものでもない。単に、彼女がそこに本腰を入れていたという程でもなく、異なる仕事を本職にしていた期間のほうが長いという話であるが――威十一は、今の彼女にとって最も大事な人を取り戻すためにその荘園を訪れた。
気密性の高い西洋建築、吹き抜けの玄関ホールから階段を上がって、二階に支度された彼女のための客室は、取り立てて説明することもない、強いて言えば、どうにも古ぼけた印象のある洋館の一室だったが、彼女が荘園の客室で夜を過ごすようになってからしばらく経ち、試合での死人が客室の中で平然と生き返るといった、およそこの世の摂理に反して異常な荘園の生活に馴染んで来た頃のとある夜、前夜までは何もなかった夜の廊下から、梁の軋むような不気味な音が響いてくる。威は荘園主から、そして、彼女がここの玄関ホールに到達したときには既にそこにいた先客から言い渡されている夜間外出禁止のルールについて知ってはいたものの、それにしても不気味だと思い、早々にその正体を確かめるべく――よからぬ客の来訪であれば、叩き切ってやれば良い――客室のドアを開け、共用部の廊下を見回すと、消灯された廊下は、見渡す限り暗いばかり――と思ったところで、不意に「もし、そこの」と声を掛けられた。威が咄嗟に、声のした方向に彼女の武器である簫を振りかぶると、よく見ればという具合でそこに立ち上っていた、霞か霧のような具合の薄い人影は、みぞおちに良い拳が入ったという具合に呻く。
威が呻く空間によく目を凝らして見てみると、そこに立っていたのは、縦横に引き伸ばされたような長い手足を持つ男の影だった。つまるところ幽鬼(幽霊)だ。滑らかな黒の詰襟の上に羽織る、鮮やかに輝く程の白い生地で仕立てられた漢服を着崩したような珍妙な格好をしてはいるが、特に右袖を覆う薄絹めいたその布地は、輝く北辰と北斗の連なりを身に纏うようでいて、奇抜ながらに不気味な程美しいという点では、整っているともいえる豪華な身なりをした幽霊は、散切りの頭を晒していることもあり、一見して、東洋かぶれの西洋人らしくも見えた。
出会い頭に早速武器の切っ先を突きつけた威相手に、彼はいかにももの言いたげに目を伏せ、その美しい眦を物憂げにしたものの、文句を言葉にはしなかった(し、威としても、その幽霊相手に文句を言われる筋合いはないと思っていた。脅かされたくないのであれば、夜中に人の部屋の前で立っているべきではない。)。かくして文句を飲み込んだ幽鬼は謝必安と名乗り、威はそこで初めて、それが、この異国において初めて対峙する、同郷出身の魂であるらしいことに気が付いた程であった。珍妙であるが金銀の色合いは見事な入れ墨文様が入っているように見えるその顔色が、威が一見して西洋人と見まがう程、殊更青白いのは、その下に通っているべき血が、最早そこに通っていないからだろう。
夜分に現れた、珍妙だが美しくはある白い衣装に身を通した背の高い幽霊こと必安が、威に依頼したことは「手紙の代筆」だった。曰く幽鬼の身に堕ちてからというもの、その身でできることと言えば彷徨うばかりで、現世の物体を手にすることもできないらしい。威はそこで、彼が今まさに手にしている、面妖に透き通った布地に真新しい、しかし意匠自体は随分と古めかしく見える、まるで、骨董品がかつて新品であった頃の往時をそのまま留めているかのような、見るものに不可思議な印象を与える傘を指さすと、「魂の入れ物は別」だということだった。何でも必安は、彼の幼いころからの友人である男と共にこの傘に魂を宿し、彼らの魂の根源である骨董品を収蔵するこの屋敷の中を時折徘徊するが、そこで友の姿と見えることはできない。かわるがわる生まれ変わり、かわるがわるすれ違う。そういう決まりであるらしい。「本来は衙役の粗末な着物を着ているものですが、荘園主とそのご客人方のお眼鏡に適ったようで、美しい着物を仕立てて頂くことになりました。望まれるということは、存外喜ばしいことですね……私は、彼と、その喜びを分かち合いたいのですが、見えることは相成りません。そういう決まりです。せめて手紙だけでもと思いますが、試合の外の場で、私たちの存在は幽鬼と同じ。手はこの通り満足にありますが、これで筆を取ることも叶いません……それに、ここにいらっしゃる方は皆、異郷の方々でしょう。それが、同郷の方にお会いできるなんて、願っても無いことでした。どうぞ、この幽鬼を哀れに思って、筆を執って下さいませんか。」
時間帯を弁えないこと以外はいたって丁重な必安の態度、そして何より、異郷の地で出会った(最早生きてはいないようだが)同朋からの頼みに心を動かされた威は、夜中であること、しかも、その時間に異性を部屋に上げることといった諸々の型破りには、相手が幽鬼であることも相俟って目を瞑り――彼女はかつて良家の娘・簫七であった。しかし、皇帝に対する反逆を企てた家筋のものであることを隠匿し、日々生を拾う為の放浪暮らしの中で様々なことに目を瞑り、型破りな振る舞いも板について久しい頃合いであるが――必安を部屋に上げ、会釈でもするように軽く腰を降りながら扉を潜った必安(威には十分な高さの扉の高さも、背の高い幽鬼には狭いようだ)に、幽鬼といっても客人に立たれていては気が落ち着かないと椅子をすすめ、自分は硯を出してくるとそこに墨を擦り、筆を手に取った。
必安は威の心遣いに丁寧に礼を言うと、「明晩に無咎が来ますので、彼にそれを渡して頂きたい」と念押しをし、部屋を後にすると、廊下の暗がりに紛れるようにしてその姿、そして、ただでさえ薄く、勘の鋭いものがそこを見ればようやっと見える程の、些細な存在感は掻き消えた。
明晩、雨も無いのに廊下から雨だれのような音を聞いた威が扉を開けると、必安と同じような背格好、そして瓜二つの顔立ちをしているが、必安とは異なり、ところどころに黒い房が混じりながらも散切り頭は殆ど白髪で、これも必安の着ていたものと同じような漢服を着崩したような珍妙な衣装は彼と対照的に黒尽くめであるが、胴に巻きつけ左肩から掛けているとびきり美しい夜空のように星めいた光の輝く薄青色の布地が奇妙に美しいそれを着込んだ幽鬼が現れると、范無咎と名乗った。
前夜とは違って予期された客人相手に、威が手早く、前夜の必安の言葉を余すことなく書き取った手紙を「謝必安から手紙だ」と言って差し出すと、それを片手で受け取った無咎は、鳶色をした目を驚いたように見開いた後、あろうことかその場で手紙を開きだした。威はその振る舞いに面食らったものの、廊下に立たれて手紙を読むのも落ち着かないので、「兎に角座ったらどうか」と、自分の客室内にある椅子を勧めてみると、無咎はその時だけ顔を上げて軽く頷き、後は手紙から目を離さないまま、暖簾をくぐるような仕草で、やはり背の高い幽鬼には狭いらしい客室の扉を潜り、昨日必安が座った椅子に足を開いて腰掛けた。
それから、二人の幽鬼はかわるがわる威の部屋を訪れては手紙の代筆を依頼し、威は同郷のよしみと思って、特段の文句も言わずそれを引き受けていた。ここが俗世であれば、多少の対価を要求するべきところだが、荘園主によって荘園内では衣食の保証がされており、金銭の対価を渡されたところで、ここで活用するような宛てもない。まして、相手は幽鬼である。
「無咎は手紙を書かないのか。」
ある晩やってきた必安――その頃には「きらびやかな格好は肩が凝りますから」と、まるで生身の人間のようなことを言いながら、例の衙役の制服に結い下ろした黒髪交じりの白髪の長い辮髪と、威の感覚からすると、少々古い時代の人間らしい格好のように思われるとはいえ、初めて訪ねて来られた時に身に着けていたものと比較すれば、随分と目になじむ同朋らしい格好(身に着ける衣装を替えたことでどういうわけか顔立ちも随分と雰囲気が変わったために、威は当初面食らったものの、初対面の時に身に着けていたそれよりも随分同朋らしい格好と、物腰柔らかな声で、来訪者が誰であるかを程なく悟った。)で訪れるようになっていた――に威がそう尋ねると、それまで威の筆運びを静かに待っていた必安は、驚いたように切れ長の目を僅かに見開いた後、それが死因に関わるのかは不明だが、顔の左半分を覆い、死人らしい肉の紋様を明らかにしている瘢痕のような痣のある顔立ちを、僅かに歪ませるような、遠慮がちな笑い方をしながら「どうでしょう、彼は……私に、伝えるようなことなど……」と言い澱む。
既に死んだ相手が、自分に語り掛けるやもしれない言葉を想像する程、虚しいことはない。それは、生きているものの願望を死人の口を借りて語らせることと、何が違うのか。まして、自分の為に死んだ相手の言葉を想像することはどうだろう? いずれにせよそれは、並み一通りのことではないだろう。つまり、威の目には、傘に宿る魂は一つに見えた。「古い友」であるという彼らは、それにしても、まるで誂えたかのように瓜二つの顔立ちをしていた。橋で友を待ち続けていたという彼は、遂に水鏡の中に、在りし日の友を見たということではないか――しかし、威はその有り様を、「児戯」と切って捨てる程の冷酷さを持ち合わせてはいなかった。彼女は情に深いが故に、刃を磨き、一時は無謀な復讐を遂げようとした身の上である。
「……確かに、手紙という柄ではないのかもしれないな。」
彼はあまり筆まめには見えなかった、と事もなげに続ける威に、必安は僅かに眉頭を寄せつつ、何か文句らしいことを口に仕掛け、しかし止めておくことにした。