きさらぎ駅でさようならopening
冬の気配が近づいてくる。高専に訪れるその寒さに、よく分からない懐かしさを感じながら歩く。この寒さはどこから来て、どこへ帰るのか。そう思って振り返ろうにも、そうだなと笑って答えるあの友の姿はどこにも無い。
くだらない時を愛おしく感じて、悴んだ手を一度握って、解いた。
何で鑑賞に浸ってるいるのかと、自嘲するように吐いた息が白く灯って霧散する。
その色は彼の髪色によく似ていた。
1
所々錆び付いた、景観ぶち壊しと言った様子の黄色い看板を見上げた。「コインパーキング 一日最大五百円」。そう書かれた赤文字の一部は掠れ無に帰している。伏黒が隣の自販機へと歩いて行くのを視界の端で捉えた。野薔薇は大きく伸びをしながら口を開く。
「奢ってくれてもいいのよ、ココアで」
「誰が買うかよ」
そう言いながらも伏黒は長い指でブラックコーヒーとココアのボタンを押す。ん、と投げつけてくるココアの缶は温かく、悴んだ野薔薇の指先を癒した。大方、指先が固まって釘の操作に支障が出ることを危惧しているのだろう。
「ありがと」
「後で金は貰うぞ」
そう言って、渡しても要らねえと受け取らないくせに。優しさに甘えることにする。ビュ、と木々の間を風が通り過ぎた。まだ十月中旬であるにも関わらず冷たい風に、堪らずココアを両手で握る。駐車場には先程まで乗っていた黒い車以外何も無く、経営状況が心配になってきた。錆びた看板といい、落ち葉とひび割れだらけのアスファルトといい、管理者などいないも同然なのだろう。
それもそのはずだ。心霊スポットの近くとはいえ、「本物」のため若者も寄り付かない。最も、その原因は霊などでは無く呪霊、それ以前に結界であるのだが。こんな状況じゃ経営しても意味が無いと、土地を呆気なく手放してしまったのだろう。
車から降りた伊地知は、寒さに腕を擦りながら律儀にも五百円を入口の機械の上に置き、伏黒と野薔薇へ歩み寄る。
「長時間の移動、お疲れ様です。道が悪くて揺れましたね、申し訳ないです。…まぁ仕事はこれからですが」
仕事、と言う二文字は不思議と気を引きしめる。伏黒は残りのコーヒーを呷ると、ノールックでゴミ箱に缶を放った。ガガ、コン。ゴミ箱に入った小気味良い音。
伊地知はコートの上からネクタイに触れてから続ける。
「今日の任務内容を確認します。『きさらぎ駅』周辺の結界を更新するので、現在使われている護符の破壊。そして中の調査をお願いします。…ここの結界は、少し特殊ですので」
野薔薇の隣で、影から呼び出された獣が息をひとつ荒らげた。
『きさらぎ駅』。いまや有名となりすぎているその都市伝説は、とある掲示板から始まった。
10年ほど前の、とある女性の不思議な体験の話。電車がいつもと違いなかなか停車する様子がなく、ようやく到着した駅が「きさらぎ駅」という名称の見知らぬ無人駅だったというものであった、というものだ。
それに呼応して「異界駅」と呼ばれるものも全国に広まった。
実際、術師にとって情報さえあればその体験の答えはあまりにも簡単すぎて、ロマンの欠けらも無いものだった。幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはよく言ったものである。
今からおよそ20年前、心霊スポットとして人が寄り付くのを防ぐため、廃墟となったきさらぎ駅の周りに結界を作った。だかそれは術師ではなく、近所の寺─寺は現在無くなっている─の住職、それもほぼ結界初心者が作ったものだった。
恐怖の対象となる廃駅の中から呪霊が漏れ出ることを防ぐための結界だったのだが、ある程度の呪力を持った女性が偶然結果内に入ってしまい、呪霊と結界に使用された術式が原因の不可解な体験をしました、という至って簡単な事実。
これは呪術界ではあまりにも有名な話であり、ちょっとした過去話としても用いられるほどのもので。全国の異界駅に対する高専の行動は早く、即時全国の廃駅をマーク、結界の手配が進められた。必要な結界が数多にあり、高専生の結界を張る授業にも使われたためである。その時のコツを教えてくれる術士も中にはいた。
伏黒は勿論、呪術師としての歴が短い野薔薇と虎杖でさえ知っている程に有名なそれは、世間では今や忘れ去られた存在となっていた。
「で?どこなの?その護符とやらは」
頭を下げて見送る伊地知と別れ山へと入る。寒さに色を失った落ち葉は踏むと軽い音を上げた。泥が所々に残る地面は昨日の雨の影響だろうか。地面と支給されるタブレットを交互に見ていた伏黒は、ワンテンポ遅れてから長い指でタブレットを操作する。
「西と北に二つずつ、北東と南に一つ」
「ふーん。随分歪な形ね」
「北東のはもともと使っていなくて五芒星だったらしい。…ほぼ一般に近い奴が運良く『張れちゃった』タイプの結界らしいからな。途中で歪んだんだろ」
黒のタブレットを雑に手から離したと思えば、それは音も立てずに彼の影へと吸い込まれる。こいつの陰は四次元ポケットか何かかしらと考えつつ相槌を打てば、任務内容は把握しとけと言わんばかりの目と解説が帰ってきた。
「別にあんたが分かってんだから着いてけばいいでしょ」
「不測の事態が起きたらどうする」
「その時はそん時よ。ていうか、一個でも見つけて呪符に共鳴り打てば──」
若干険悪な雰囲気になりながらも歩を進めていると、目の前に一際大きな木が現れる。皮が乾燥して所々剥がれかけた年季の入ったそれには、胴に細い注連縄が結ばれていた。
「全部の札まとめてパン、でしょ」
「…ちゃんと警戒はしろよ」
伏黒は納得したようなしていないような顔を浮かべると、先に呪符へ向かい木の前で座り込んでいた玉犬の額をくしゃりと撫でた。気持ちよさそうに目を細めた獣は、褒めて褒めてと釘崎の方へも歩み寄ってくる。わしゃわしゃと撫で回し、偉いわ後で飼い主がジャーキー買ってくれるわよと抱きしめた。ポーチから三本の釘を取り出し袖口から金槌を手のひらに滑り込ませる。
伏黒は周りに呪霊が居ないか警戒してから、野薔薇に目をやった。
スゥ、と息を浅く吸って、釘を放る。
「共鳴り」
赤く呪力が光り、爆ぜた護符がひらりと燃え落ちた。野薔薇は感覚を集中させて、自分の呪力を辿る。爆ぜたのはどこか。少し離れた、違う方向の場所。
「いち、に、さん…よん。四箇所壊した」
声に出して数え振り返ると、いつの間にか現れた呪霊を伏黒が祓った所だったらしい。ザフ、と音を立てて消えるのを確認した彼は、黒刀を振ってから野薔薇に近づいてくる。
「今壊したのが北のポイント。壊れたのは北東以外プラスここの四つだろうな」
「了解。で?北東っていうのは?ここから近いの」
「玉犬を向かわせてる。もう行けるか」
「舐めんな、余裕よ。ていうか準備良いわね。秘書にでもなったら?儲かるわよ」
うるせ、と言わんばかりに顔を正面に向けた伏黒の後ろをついて歩く。頬や足を打つ小枝に苛ついて舌を打った。ザクザクとした落ち葉と枝とが混ざった地面を一歩一歩踏みしめるように歩くと、泥濘に足を取られて後退するのが憎らしい。ザワザワと揺れる木の音の合間に野鳥の鳴き声が交じる空はどんよりと曇って、辺りを薄暗くしていた。
「…最悪。ローファーもタイツも汚れた」
「あと少しだろ、任務終わったら買えばいい」
「温泉行きたい。暖かいお風呂入りたい。寒い。」
「うるせぇ……」
今度は態度ではなく口に出した伏黒は黒髪をガジガジと掻き回し、握りしめていた刀を影にしまった。先程まで所々に感じていた─放っておいても害が無いほどの低級であるため無視していたが─呪霊の気配が一切しなくなったからだろう。それはきっと、目の前にある異質な呪力のせいだ。
大きな四角い岩の上に、石を組み合わせたような簡素な祠が立っている。本当に小さな祠だ。適当な石を無造作に積み重ねました、と言われても信じてしまうほど雑な作りで、所々が苔むしている。その隙間に覗く護符に宿る、どこかで見たことがあるようで、覚えのない呪力。何者も寄せ付けないような圧倒的な力。崖ギリギリにあるのでいつ壊れてしまうかも危うい。よく今まで残ってるなと思った。
「…気持ちわりぃな」
伏黒も同じことを思ったのだろう。いつものように左肩に手を添えながら眉間に皺を寄せた。
「どーっかで見たのに似てるのよね、この呪力…」
「…まあ、高専関係者の可能性もあるからな。すれ違った時の呪力を覚えてるだけかもしれない」
「こんなに強い呪力とすれ違ったら忘れないわよ。」
それに、と野薔薇は、金槌を持っていない方の手で人差し指を立て、続ける。
「私と伏黒が同じ人とすれ違う確率ってどれくらい?」
「……分からん。仕方ないからさっさと壊すぞ」
そう言って目を下げる伏黒の視線を追うと、影の下の黒い結界が目に入る。四つの護符が壊されたことで効力が弱まっているのであろう、半透明の黒の帳。他人から見えなくすること、呪霊の流出を防ぐための帳から、廃駅のコンクリートが透け見えていた。全体的に白っぽくて、そこそこに大きな駅。結界外の線路は落ち葉で覆われほぼ見えないので、かつて駅があったことに気づくものなどほぼ居ないのだろう。
「忘れ去られた廃墟、ね…中の呪霊も相当弱まってるだろうけど」
結界と忘れられた効果も相まって、呪霊の発生は少なくなっているだろう、というのが上層部の見解らしいが、中には1級以上の呪霊が眠っている可能性もあるという。伊地知も何かあったら直ぐに撤退するようにと繰り返し告げていたのを思い出す。
「信仰…というか、恐怖の大きさで強化される呪霊だからな。その逆も充分有り得るが」
野薔薇は金槌を自分の方に引き付け釘を放る。ぐ、と足に力を込めて──
「ちゃんと警戒しろ、でしょ?わーってるわよそんなこ…」
ずるっ。
地面が滑る。野薔薇が右足を踏み込んだことで、水を多く含んだ土砂が動いたのだろう。他人事のように重力に身を任せていた野薔薇は、伏黒が切羽詰まった表情で必死に手を伸ばすのを見て、ようやく世界が動き出すのを感じた。鵺は今偵察中。直ぐに戻ることは出来ない。つまり落ちていくしか無いわけで。
ヒュウヒュウと耳元を風が横切り、伏黒の手が空を切る。
「釘崎!!」
私は大丈夫、壊して降りて来い。
そう叫ぼうとした時、ヂリ、と頭の隅を何かが走る。嫌な予感に、反射で言葉が飛び出した。
「…だめ!それはまだ壊すな!」
伏黒の驚きに揺れていた瞳に、野薔薇への信頼の色が着く。死ぬ高さでは無い、大丈夫…たぶん。何かあっても伏黒が絶対に助けてくれる。状況は何も改善していないが、野薔薇は少しだけ安堵して重力に従った。
2
幸いと言っていのだろうか、野薔薇が落ちた先には偶然落ち葉が溜まっていて、大した怪我には至らなかった。タイツはところどころ裂けて破れ、直接触れる風が冷たい。
立ち上がってからギジリと音がしそうな腰と背中を伸ばし、小さな裂傷以外の怪我はほぼ無いことに安堵する。
伏黒のところに早く戻らなくては、と辺りを見回すと、背後にはコンクリートの塊もとい『きさらぎ駅』、左右には背の高い木々、目の前の高い崖が現実を突きつけてくるわけで。
「…こんな崖登れるわけないじゃない!」
ほぼ垂直の崖は、足をかけても土が滑ってくるので到底登れるとは思えない。かと言って左右の森を彷徨うのも気が引ける。
野薔薇はくるりと振り返り灰色を睨めつけた。
「伏黒が来るのを待つしか無いわね…どうせ調査で入んなきゃなんだし」
数歩進んでから、結界の効果が弱まり、半透明と化している帳に手を伸ばす。ぬるりとした独特の感触だった。生ぬるい温度に顔を顰め、小さく息を吐いてから一歩を大きく踏み出した。
結界の中は外の光がほぼ差し込まないために暗く、もうすぐ寿命を迎えるであろう蛍光灯が点滅していた。薄暗い構内を見渡すと、頭上に駅の看板があるのに気づく。「きさらぎ駅」。錆び付いた看板の下を通り抜け、コンクリートを進む。泥で汚れたローファーは、進む度にカツンカツンと音を立てた。靴音だけが反響している静かな空間。全体的に白っぽい雰囲気の駅は、なぜだか色を失ったように見えた。
「…だだっ広いわね……駅、だからとりあえず改札からかしら」
調査が今日の任務だ。伏黒を待つ間に少しでも調べて回った方が早く帰れるだろう。ただでさえ崖から落ちて時間がかかっているというのに。何時頃に終わるのかとスマホをポーチから取り出す。開いてみると、圏外の二文字。時間も日付も、見られないまま、画面に砂嵐が吹き荒れ、数度点滅したかと思うとそれきりだった。
掲示板から始まった怪異だ、結界には電波を歪める効果があるのは当然だろう。壊れてないでしょうねとため息をついて再びしまい込む。
改札に向かう途中、足跡が凹んで残っている壁を見た。どういう事だと頭の隅で考えながら歩く。ここで戦闘でもあったのだろうか。大方、巡回に来た術師が此処に沸いた呪霊と一戦交えたのだろう。
勝手に納得してから正面を見ると、目の前には改札。何の変哲もない自動改札、という訳では無い。改札は夥しい量の残穢のせいで、青紫に変色して見える。
人差し指を切符の挿入口に軽く滑らせる。ひんやりとした無機物の温度に、先程のココアを思い出した。
それをきっかけに、蛍光灯が数度瞬く。
一度強く光ったと思えばバツンと音を立てて灯りが消えた。ザザ、スピーカーから音がして野薔薇は反射的に釘と金槌を取り出して当たりを見渡す。
「……ま…く、…駅終点の……が…りま…黄色い線の…で…お待ちくだ……」
ノイズ混じりの放送が聞こえたかと思うと、カンカンカンと電車の到着を告げるベルが響いた。
何よ、これ。
零した一言も、ホームに滑り込む電車の轟音にかき消されて消える。身構える間もなく、改札の向こう側で電車のドアが開いた。ぶわりと風が吹いて、霧がホームに満ちる。
深い霧を掻き分けるように大股で進んで来る「それ」は。
「到着、っと。…あ?先客?」
野薔薇の知る彼よりも、ほんの少しだけ高い声。
艶のある白い髪、どこまでも蒼い瞳を覆うサングラス。胸元に光る高専のボタン。
唖然としながら見つめたあとで、野薔薇は声を絞り出した。
「…五条、悟??」
「そうだけど。誰?」
目の前の男の姿は、一度だけ写真を見せられたことがある、十年前の五条によく似ていた。